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「……結局」
その日の夜、ざわめく宿屋の食堂で遅い夕食を摂りながら、ユーノは溜め息をついた。
「たいしたことはわからなかったね」
「ああ」
丸1日、アギャン分領地を歩き回ってみたものの、耳に入ってきたのは、アギャン公を最近見た者がほとんどいないこと、息子のグードスも『銅羽根』の長としてあちらこちらと動いており、領政に口を出すのは稀なこと、そして、どこから伝わってきたのか、ラズーンの崩壊が間近だとか、大きな戦が起こるかも知れないという不気味な噂。
街が活気に溢れているように見えながら、その実、アギャン公分領地の辺境、灰色の泥土の地のように、どこか疲れたような倦怠と不安をたたえているのも、それらの落ち着かぬ噂のせいらしかった。
「でも」
皿に盛られた湯気の上がる豆の煮物をスプーンで掬い上げ、口に運びながらユーノは眉を寄せた。
「それでもうんと賑やかだよね、宿に入るのもぎりぎりって感じだし」
「そう…ね。何かあるのかしら」
アシャの口調が女言葉になったのに顔を上げると、いつの間にかすぐ側に宿の主人がやってきていた。小太りで人が良さそうな顔、茶色の短衣の上に白い上っ張りをつけ、頭頂部が薄くなった頭を振り振り,ユーノ達に交互に笑みかける。
「お酒は如何ですか。いい酒ですよ。家の年代物でね、特別にお分けしてもいい」
上機嫌で話しかけてくる人なつこい表情、食堂の熱気のせいか、赤らんだ頬が余計に人が良さそうに見える。指先まで丸い手には、緑色の水差しが支えられている。片目をつぶって、
「ペスタ・コリカ・ネステート・ブルトンドの二樽目でね」
「もう結構」
ユーノが応じるより早く、アシャが優雅に肩を竦めてみせる。
「すいぶん賑やかですのね」
主人の視線を引きつけたまま、周囲の客を見回した。
「ああ……明後日が、アギャン公のお世継ぎ、カルキュイ様の即位式だからね。…式を見物にいらしたのではない?」
「もちろん、そのために参りましたの」
意外そうな主人に頷き、アシャは卒なく笑み返す。
「けれど、私どもの家では日にちを誤って聞いていましたわ。明日と聞いていたものだから」
「最初の触れはそうだったね」
主人は明るく笑った。
「カルキュイ様のお衣装が少し揃わなかったらしいよ。まあ、そんなに大きな問題でもなくて、明日にはきちんと揃うらしい」
「それはよかった…楽しみですわ。ところで、あの」
アシャはほ、と小さく吐息をついた。
「街の賑わいに当てられたのか、疲れてしまいましたわ。そろそろ部屋で休みたいのですけど」
「はいはい、準備ならもう出来てるはずですよ。確かめておきましょう」
主人は丸い体をぴょこぴょこと揺らせながら遠ざかる。
「……アシャってほんと詐欺師もやれるなあ」
「おい」
「褒めてるんだよ、うん、ほんと」
じろりとこちらを睨んだ目にユーノは首を竦める。
「でも、世継ぎって言ったよね? アギャン公の息子って、グードス1人じゃなかったの?」
「それなんだが」
わいわいと騒ぐ声や食器の触れ合う喧噪に消えないように、だが目立たぬように、アシャは眉をしかめて低く続けた。
「俺はカルキュイなんて聞いたことがないし、アギャン公が代を譲る話も聞かされていない」
「え?」
「妙なことになってきたな」
「……そうだね」
ラズーンの外壁を守り内側を統べる四大公が、統轄たる『太皇』に知らせずに代替わりをするなどあり得ないだろう。分領地の境を見張っている兵士のことを考えると、それはより一層物騒な意味を含んでいる。
「誰かが、この分領地を手に入れようとしている…?」
呟くユーノの頭に消えたモス兵士が浮かぶ。
「何のために、は考えるまでもない、か」
アシャの皮肉な微笑は赤い唇に殺気を漂わせる。
正面切ってはやり合えない。だが、内側から1人また1人と大公を突き崩していけば、外壁は敵を弾き返す盾ではなく、援軍を求める味方を圧殺する囲いとなる。
「もうちょっと確実な証拠が欲しいな」
「アギャン公の屋敷そのものに潜入するか、それとも…」
「はい、お待ちどうさま!」
大皿を掲げて側を通り過ぎた女に口を噤んだアシャに、ユーノは話題を変える。
「さっきはどうして、お酒を断ったの、姉さん」
「ああ、そうね」
アシャが別口のうんざりした顔になった。
「ペスタ・コリカというのは『媚薬』の意味よ。ネステートは上流、ブルトンドはリュガの干物。平たく言えば、リュガの干物を香料と一緒に漬けたお酒ね。恋のまじないによく使うわよ」
「恋のまじない…」
「ったく、何を考えてるんだか」
呆れたようなアシャの声に被せるように、
「お二方、もし、お二方!」
飛び交う会話を擦り抜けて、主人が声をかけながら近づいてきた。
「お部屋のご用意が整いました!」
「じゃあ、休ませて頂きましょう」
「はい、姉さん」
こちらです、となぜかさっきにも増してにこやかな主人が食堂横の階段を上り、二階の部屋へと2人を促す。やがて、
「さあどうぞ」
「ありがと……え…?」
お礼をいいかけてユーノは固まった。
示された部屋は思った以上に小綺麗に整えられている。正面に表の通りに面した窓、その右には書き物机と灯、小さな椅子が一脚。木の床にはざっくりと編まれた敷物が敷かれ、壁には同じような風合いの、ただしこちらは樹木の図柄を編み込んだ布が吊り下げられ、部屋を明るく見せている。
だが、問題は左の壁に寄せておかれたベッドにあった。
「ベッドが1つっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げたユーノに、主人はにこにこと笑う。
「何しろ、お客が詰まっているものでね。ご姉妹なんだし、たまには一緒に眠られるのも風情がありますよ」
「一緒にって、ここで?」




