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「……ご苦労様」
打撃音は1回きりだった。続いたのは草むらに倒れ込む重い物体の響き、フードを落とし、鬱陶しそうに髪を掻きあげ、風に乱しながら、大岩の後ろから現れたアシャが、軽く腕を振る。
「ほら」
放り投げられたものを受け止めながら、ユーノは尋ねる。
「あの男は?」
「そこで寝てる」
1人でな。
面倒くさそうに溜め息をついたアシャが顎をしゃくる。
「ったく……男と女の見分けぐらいつけろって言うんだ」
「アシャの場合、かなり難しいと思うけど」
「……ユーノ」
「…く、ふふふっっ」
「おいっ」
「はははっ!」
如何にも不愉快そうな顔でこちらを睨むアシャが、やっぱり絶世の美女にしか見えず、ユーノは吹き出す。
(本当に、この人は幾つ顔を持ってるんだろう)
「ったく…人の気も知らないで…」
唸りながら眉を寄せ、一旦くしゃくしゃにした髪を丁寧に整え直し、銀細工の額の輪を嵌めるアシャの横顔は、苛立つ表情までもがどことなく優美だ。
もっともさっき兵士を誘ったときの顔は、どう見てもその道で生きている娼婦だったが、今は同じような髪型ながら、骨太な線が頬に目立って紛れもなく青年の顔、柔らかく煙る瞳が多少色艶を残すものの、もう女の匂いはない。
「アシャさ」
「うん?」
「男やめても、女で食べていけるよね」
「……どういう意味だ」
じろりと険のある目で睨み返されて肩を竦める。
「幾つ顔があるのかわからないってことだよ」
憮然とした顔に言い直す。
「ふん…」
なお突っ込んでくるかと思ったアシャは、ふいと気まずそうな顔で視線を逸らせた。今度の横顔に浮かんだのは倦むと表現するのがふさわしいような憂い、それは皮肉に歪めた唇ですぐに弾き飛ばされる。
「いろんなものを見て来ているからな」
(そして、これもアシャの顔の一つ)
一気に距離を取ったようなひんやりとした表情に、ユーノは胸の中で呟く。
付き人としての優雅で如才のないアシャ。旅の仲間としての頼りがいのある楽しいアシャ。視察官としてのしたたかで魔術的な剣才のアシャ。ラズーンの第一正統後継者としての華やかで物々しいアシャ。
炎のように激しいアシャ。氷のように冷ややかなアシャ。
(どれが本当のあなたなんだろう)
わかっていることは、ユーノの心を魅きつけるのがその全ての顔であり、新しい顔が見えれば見えるほど、より強く深く魅きつけられていくということだ。
(あなたでも悩むことはあるんだろうか)
望みを叶えられずに苦しむ夜や、目の前で擦り抜けた幸運を嘆く日が?
(あなたでも…泣くことはあるんだろうか)
いつも自信たっぷりで、先読みに長けて、生まれ持った才能で願いの全てを満たす事さえ出来そうな気がするのだけど。
(もっと深いところにいる、ただ1人のあなたを見るのは、誰なんだろう)
「左肩は?」
「大丈夫だよ」
思い出したように心配そうに尋ねてくる相手に笑って答える。
(そして、優しいアシャ)
優しくて温かくて、甘いアシャ、罪なほどに。
「…これは?」
胸の呟きから気持ちを引きはがし、手にした灰色の革札を見つめる。ちょうど掌に納まるぐらいの大きさ、磨かれて鈍い光沢をたたえた表面には、正方形の一辺を半円にしたような二重の線に囲まれた斧の図象の焼き印が押されている。
「通行証だ」
歩き出しながら、アシャは考え込んだ目の色になっている。
「アギャン公はそれを持っている者にしか会わないという話だ。だが、あいつは」
「うん、小物だよね。『銅羽根』とは思えないな」
ユーノも感じていた。
「アギャン公は以前は見張りなど置いていなかった。一体、誰が、何の為に見張りを置き出したのか」
「見張りっていうのは、怪しい人間が出入りしていないか確かめるために置くもんだよね? セシ公でさえ見張りは置いていなかった。ラズーンの外壁はそこまで信用されているってことだろ?」
「この200年、破れたことなどないからな」
ことば少なに応じたアシャはゆっくりと目を細める。
「外壁守護は『羽根』の管理、これまで四大公は自分達の威信をかけてラズーンの外壁を護ってきている。その『内側』に『見張り』を置くということは、自らの無能を嗤うようなものだから、あのセシ公でもあり得ない。もっとも分領地に『入られては困る人間』がいる場合は別だ……あるいは…」
前からやってきた2人連れの男が、フードもしっかり被って俯きがちに歩くアシャとユーノに視線を止め、興味深そうに体を屈めてアシャの顔を覗き込んでいく。これみよがしに薄く微笑んだアシャは、2人が通り過ぎると一転、苦々しい顔で背後を見やり、気を取り直して続けた。
「或いは、分領地から『出られては困る人間』がいるか……」
「入られては困る人間って言うと…モス兵士、とか」
ユーノの脳裏に、モス兵士を呑み込んだ宙道がラズーン外壁内へ通じていたという情報が甦る。その通路は、既にアシャによって封じられてはいるものの、それまでにラズーン内に入り込んだモス兵士の行方は、依然掴めていない。
「逆に視察官や他の分領地の『羽根』ということもあり得るがな」
「え?」
冷たい声が指摘した内容に瞬きする。




