19
手がふいに頼りなくなって、握りしめていた重みが抜け落ちた。
「…ね…?」
唇を淡く笑ませて、ユーノがジノに向き直る。
「…」
ことばが出なかった。
ユーノの左肩から胸にかけて、まだ白々とした包帯が巻きつけられている。傷が完治していない、それは伝え聞いている。だが、その肩だけではない、腕と言わず脚と言わず、胸から腹にかけても全面に、細身で華奢な躯には大小さまざまな無数の傷が所狭しと刻まれている。幾つかの傷は治りかけた矢先に抉られたのか、合わさり重なって醜く引き攣れてしまっている。無事な皮膚を探した方が早いようにさえ思える惨状。
「こんなに派手な傷があるんだもの、普通の男の人は、私を女扱いしないよ」
夢の彼方から漂うように、淡く淡く声が聴こえてきた。
「アシャだって、まず、私を選ぶわけはない……そうだろ?」
「アシャさまは……ご存じに…」
掠れてひび割れた声は、ユーノからではなかった。自分の、いきなり乾いて唾一つも呑み込めなくなった干涸びた喉から押し出したものだ。
「うん」
非情な問いに、ユーノは平然と頷いた。
「よく知ってる。……本当に、身体中にあるんだ、こういう傷」
こちらに向けられていない背中にもある、と。
ことばにされなかった意味を察して、ジノの頭から血の気が引いてくる。
「でも……どうして…」
尋ねなくていい、そんなことは想像がつく。
屠られるような襲われ方をしたのだ、ほんの幼い頃から。身動きできず、抵抗出来ない子どもに対して、大人がその容赦ない力を、殺意をもって揮ったのだ。
わかっているのに口は勝手にことばを繋ぐ。
「セレドの皇族の方が……どうしてそんな傷を……一体何が」
皇族と聞いたのは間違いだったのか。セレドの第二皇女との情報は誤りだったのか。セレドは辺境の平和で穏やかな国ではなかったのか。
ジノは凍りつくような想いで必死に理由を探る、でなければ。
でなければ。
「何もなかったよ……ただ」
滲むように儚い微笑がユーノの唇から零れ落ちた。
「荒っぽい事もあったんだ」
「ユーノ…さま……」
でなければ、そうだとも、どうしてユーノがこれほどの、アシャと並んで戦場を駆け抜けられるような剣士であっただろう。野戦部隊が仲間と認め、その腕をなおも欲するだろう。そしてまた、そうでなければ、アシャがなぜ、この危険な旅にユーノを伴おうとするだろう。
星の剣士。
(では、この傷が異名を取った代償なのか)
皇族ではあっただろう、第二皇女なのも確かなのだろう。ただ、セレドはユーノにとって、平和でも穏やかでも、心安らぐ場所でさえなかった、そういうことではないのか。
で、ないならば。
「ジノ…もう、いいかい?」
「っっ!」
我に返ったジノの視界に、月光に裸身を晒し続けているユーノが飛び込んだ。強くなった月光に表情ははっきり読み取れない。けれど、これほど全身に傷を負い、今もその傷を癒さないまま、闘いに旅立とうとする剣士の前、愚かにも構えた剣を取り落とすほどの動揺に立ちすくむ自分に、かっと全身熱くなった。
(何と言う、醜態!)
慌てて走り寄る。脱ぎ捨てられたチュニックの埃を払い、跪いて差し上げる。
「ありがとう、ジノ」
近寄れば、ユーノの頬は僅かに紅潮していた。
(私は何てことを)
当たり前だ、こんな傷、しかも娘ならば誰だってこんな風に人目に晒したいはずがない。ジノの直情に応じ、想いを受け止め、気持ちを思いやってくれたからこそ、辱めを耐えて伝えてくれた。
(これが、アシャが自分を愛さない理由だ、と)
そんなことは、口にしたくなかっただろうに。
(どうしよう、とんでもないことをしてしまった)
正義恩義の話ではない、人としてしてはならないところに踏み込んでしまった。
周囲を見渡し、剣を見つけて拾い上げる。頭に巻いていた布を解き、丁寧に汚れと埃を拭い清めた。チュニックを着終わったユーノに、両手に捧げて差し上げる。
自分の情けなさに今にも泣き出しそうになりながら、それでも声を張り上げた。
「どうぞ、これを」
「うん」
穏やかな声が応じて、掌から剣が持ち上げられ、なぜだか急にほっとした。
(この方は王なのだ)
そろそろと両手を降ろす。乱れた髪の間から、自分の薄汚れた手が白く輝いて見えた。
(姫さまのように、誰かの庇護を求めて嘆かれているのでない。自ら先に立って道を切り開かれようとされるのだ)
「ジノ?」
訝しげな声に振り仰ぐ。戸惑った表情のユーノの顔に怒りは見えない。
(ならばこそ、アシャ様のような誇り高い方が跪かれる…この方のお心を得るがために)
「お許しを…」
呟いて俯いた。深く頭を下げ、首を差し出す。
(なぜ私は笑ってるんだろう)
ユーノの手には長剣がある。今しがたの非礼を償うのに、ユーノがジノの命を求めたとしても足りないぐらいだろう。なのに、この穏やかさは何だろう。
(私の願いを叶えてくれようとした…)
自分が傷つくのを代償に。
「…どうぞ、お好きなように」
ユーノが死ねというのなら、それでいいのかも知れない。
修羅の世界を知り、その上でジノに向けてくれた温情があるならば。
(姫さま…申し訳ありません)
「……わかった」
低く響くユーノの声に眼を閉じる。脳裏にそれでも過ったのは、明るく朗らかなリディノの笑顔だ。足音が一旦離れ、やがてゆっくり近づいてきて息を詰めると、
「?」
突然片手が掬い上げられ、ひんやりとしたものを載せられた。慌てて眼を開くと、間近に自分を覗き込むユーノの顔にぎょっとする。
「私とアシャが出かけている間、リディやレスのことを頼むよ、ジノ」
「え…」
「あなたならきっと守り抜いてくれるだろう?」
「っ」
黒い瞳に満ちている確かな信頼を読み取って、ジノは胸が痛くなった。片手に載せられたのは自分の短剣、それもまた拭い清められていると知り、ざわざわと寒くて熱いものが背筋を駆け上がる。
(私は信じられている)
留守を任せるに足る者だと。
「…お任せ…下さい」
言い切って、一瞬めまいがした。短剣を収め、立ち上がったユーノの前で、なお深く礼を取る。
「命に代えましても、お守りします」
「助かる」
じゃあ、おやすみ。
穏やかに言い残して、ゆっくりと足音が去っていく。
そろそろと顔を上げた視界の彼方、月光に白く輝く姿を、ジノは見えなくなるまで見つめ続けた。




