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「う…」
静まり返った部屋、灯一つない夜闇の中、ユーノは低い呻きを漏らす。
「ふ、っ」
苦しげに息を吐く。ベッドに横たわったまま、唇を噛み締め、眉をしかめて身もがきする。
「く…、う……は、あっ!」
声を上げて飛び起きたユーノは、荒く乱れた呼吸を整えながら右手で額を拭った。
(夢…)
モス兵士とぶつかって3日目、左手はまだ、白い三角巾で首から吊ったまま、使う事はアシャから許されていない。
(…首…)
額から頬、首へと、べっとりとした汗を擦り取っていた手を止めた。夢の感触を確かめるように、喉元へ自分の手を広げて押し付け、軽く掴んでみる。
「………」
それは禍々しい夢だった。
ユーノはベッドで横になっている。左手は仕方ないとしても、どうしたことか、右手も両足も動かず、棒のように仰臥しながら、現実と同じような暗がりからゆっくりと、白くぬめぬめとした得体の知れない手が近づいてくるのを、じっと見つめている。
その手はぼんやりとした輪郭にしては不思議なほどの量感を備え、ひたりとユーノの首に巻き付くと、やがて、ぐいぐいと容赦なく締め上げ始めた。首を左右に振り、逃れようとしたがままならず、喉は次第に締め付けられ、頭に血が昇ってくる。
呻いたユーノの声に誘われるように、白い手の向こうからすうっと近づいてきたのは、他ならぬ『運命』の首領ギヌアの無感情に端整な顔、と、見る間に眼前に広がった顔の口がカッと裂け、赤い舌が薄っぺらくへらへらと躍った。
声なき声が告げる、待っているがいい、お前の命を喰らいにいく……。
飛び起きてみれば、ミダス公の屋敷は森閑と静まり返り、何の物音もせぬ平穏な夜だった。
「ふ…」
短く吐息をつき、ユーノは汗ばんだ体にまとわりつく掛け物を払いのけた。
静かすぎる夜のせいか、ここ2、3日、あまりぐっすり眠れていない。ヒストでも駆けさせて、偵察を兼ね一運動してくれば、多少は眠りを得られるかも知れない。
(消えたモス兵士も気になるし)
ベッドの側にたてかけていた『泉の狩人』(オーミノ)から譲り受けた剣を片手で器用に腰に帯びる。
あれから消えたモス兵士の大群の行方は杳として知れず、アシャ他軍事の専門家の間では、ラズーン内のどこかに潜伏しているのだろうとまでは推測できていたが、潜むとなると食糧も水も必要なはず、それらを誰がどんなふうに人知れず提供しているのか、また、さてそれからの動きはとなると、何を企んでいるのかわからないだけに、推測にも限度があった。
実は、それもユーノの不眠の原因の1つになっている。
(私が狙われるなら、まだいい)
厳しい表情でゆっくりと剣を抜き放つ。闇の中で、一体どこからそれだけの光を集めてくるのか、剣はきらきらと眩く光を放ち、ユーノを照らす。血曇りも汚れも見当たらず、刃は初めて手にした時同様に鋭い。それを確認した後、再び茶色の革鞘に戻しながら考える。
(もし、姉さまやレスやリディが狙われたらと思うとぞっとする)
幸いなことに、今あたりを包んでいる静けさは、優しい眠りの成就を告げるものらしい。
部屋を抜け出、回廊を巡り、表の戸口へ繋がる中庭へ出る。
(似てるな)
不穏な気配は満ちつつある。ラズーン至上であった世界は、今や大きく変わろうとしている。すぐ側まで『運命』に組する国の兵士が迫っていたと聞かぬはずはなかっただろうに、この屋敷は今深く眠り込んでいる、戸締まりもせず、番兵も置かず。
(この安寧が脅かされるはずはないと信じている)
そうしてユーノはまた1人、怪我を抱えつつ闇へ向かう、故国セレドのあの夜のように。
だが。
「っ」
それほど気配を押さえることもなく、厩の方へ抜けようとしたユーノは、人の気配にぎくりと立ち止まった。
折しも、隠れていた月が雲間から顔を出し、馬の側に立っている、つい今しがた、どこかから戻ってきたところらしい相手の黄金の髪を光らせた。
「ユーノ…」
声をかけてきたのは向こうの方が早かった。
黒とまごう深い紺の短衣とズボン、腰に視察官の役職を示す金の短剣一つという軽装、アシャは無造作に髪を掻きあげながら訝しそうに問いかけてくる。
「どうしたんだ、こんな夜更けに」
「…それはこっちの訊くことだろ」
この間、アシャはユーノが気を失っている間にレアナに傷を見せたと言う。
目が覚めた時に、泣きじゃくるレアナからそう伝えられて、ユーノは血の気が引いた。恐怖というより怒り、一体何のためにこれまで、そう思った気持ちにことばを失ったユーノに、レアナが繰り返し「アシャを叱ってはなりませんよ」と諌めた。
『私が愚かでした。もっとよく考えるべきだったのです』
零れ落ちる涙を拭きもせずに訴えられ、堪えようとしても次々溢れる涙に顔を覆うレアナを慰めるのに、どれほど時間がかかったか。
『許して下さい、いえ、許さなくても構いません。あなたが何と言おうと、私はもう、あなたの受けた傷のことを忘れません』
どれだけ訴えられ窘められようとも絶対一発は殴ってやる、そう固く決めていたが、避けているのか、それとも忙しすぎるのか、アシャはほとんど屋敷に落ち着かず、姿を見ることがなかった。
あげくに、レスファートからも生真面目にこう告げられた。
『ぼくは、アシャがただしいとおもう』
きららかに澄んだアクアマリンの瞳は、たじろぎもせずに困惑するユーノを見返し、少年は奇妙に大人びた口調で言い放ったものだ。
『見えるものまで、かくさなくていいよ』
とは言え、納得しきれているわけではない。
「どこに行ってたんだ?」
どうしてもアシャに対してつっけんどんな口調になる。
「『氷の双宮』にな」
馬をねぎらい、アシャはゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「『氷の双宮』?」
「この間のモス兵士が気になる。狙うとすれば、まず『太皇』(スーグ)かと思ったが、見当違いだったようだ」
アシャの声は深く柔らかい。
(久しぶりだ)
こんな風に2人で話すのは。
胸が緩んだ。
ラズーンの中枢の無事を確かめて少しはほっとしたのだろう、アシャの唇が安堵に綻ぶ。優しい微笑を浮かべたまま、問いかけてきた。
「お前は?」
「……ちょっと、眠れなくて」
思わず見とれて、我に返る。うっとりした馬鹿な顔を晒していたかと、慌てて顔を背けながら、照れ隠しでなおさらぶっきらぼうに応じた。
「ヒストでも飛ばしてくるかと思って。偵察代わりに」
「………]
てっきり止められるかと思ったのに、アシャは無言だ。しばらく待っても何も答えず、かと言って立ち去るわけでもない相手を思わず振り仰ぐ。
(アシャ…)
なんて瞳だ。




