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陽射しは幾分かは陰ってきていた。
ミダス公の屋敷の一角、ユーノの私室では、ベッドで仲良くユーノとレスファートが軽い寝息を立てている。
穏やかな夕暮れ、風が次第に冷たくなってくる。キィ、と音を立てて風が扉を動かした。ユーノは目覚めない。キィ…ィ、ともう一度、風が扉を押し開く。
「…」
扉の向こうに1人の少年が立っていた。細すぎる手足と儚げな淡い色の髪、薄い色の瞳、ためらいがちに眠るユーノを見つめる。
キィ、と今度は風が逆に押して閉じようとし、イリオールは思わず手で押さえた。
何をしようというのでもない、ただ見ていたかった、ユーノ・セレディスという人間を。ギヌア以外で初めて自分を抱きしめてくれた人を。閉じた瞼や意志の強そうな口元などを、もう少し見ていたかった。
「っ」
何が風と違ったのだろう。ふいにユーノはぱっちりと目を開けた。イリオールがたじろぐ間もなく、くるりとこちらを振り向く。
「あ」
「…やあ」
逃げようとしたイリオールは、にこりと笑ったユーノに戸惑った。片頬を枕に埋めたまま笑いかけたユーノは、洞窟の時と別人のようだった。焦げ茶の髪の下で暖かそうな黒い瞳が見つめてくる。微笑んだ唇が暮れかけた日の中でも眩く、イリオールは宝物を見つけてしまった盗人のようにおどおどと辺りを見回した。
「もう大丈夫?」
むくりと体を起こしたユーノが訝しげに続ける。
「どうしたの? 入っておいでよ」
「う…うん」
くしゃりと髪を搔き上げる仕草に見惚れてしまいながら、イリオールは頷いた。
「いいの? 誰かいるんでしょう?」
「レスなら大丈夫だ、よく眠ってる」
「うん…」
そろそろとイリオールは部屋に入った。誰かの寝所に入るということはそういうことのはずだと思い出して、2歩ほど入って立ち止まる。
「イリオール?」
不審そうにユーノがベッドから滑り降りた。
何かが違う。
レスファートは穏やかに眠り続けている。ユーノの寝具にも衣類にも乱れたところも熱っぽい気配も見当たらない。
「どうしたの?」
そういうことではない?
「な、なんでも、ない」
戸惑いつつイリオールは首を振った。
ただ優しいだけだ。
思いついたことばになお戸惑う。思わず1歩後じさりしてしまった。
イリオールは眩い陽射しには慣れていない。こんな風に無条件の優しさにも慣れていない。助けられて数日間、イリオールは怯え続けていた。
自分がこんなところに居ていいはずがない。自分がこんなに優しくされていいはずがない。これはきっと何かの間違いだ。
1人で夜を過ごすのも慣れていなかった。寝静まって穏やかな部屋も初めてだった。『穴の老人』(ディスティヤト)の洞窟で受けた傷よりも、1人でいることに耐えられなくて、イリオールは碌々眠っていなかった。
「イリオール? 顔が青いよ。どうしたの?」
「な、なんでもな…あっ」
「イリオール!」
ベッドから降りて近づいて来たユーノに慌てて後じさりし、転がっていたクッションに躓いた。とっさに伸ばした手が棚に飾られていた水晶のグラスを叩きつけて砕く。破片が手を傷つけたが、それよりもイリオールは怒られることに怯えた。
(あ、あ、殴られる!)
「ひっ…」
手を握り込んで身を縮こまらせて座り込む。
「イリオール!」
「ごめんなさい許してお願いお願いします許して…っ」
強く手首を握られ引きずり上げられる。抵抗は虚しいと知っているから逃げなかったが、容赦無く窓際へ連れていかれてぞっとした。
(突き落とされる?!)
このまま無防備に地面に叩きつけられれば、骨の数本は折れるだろう。折った場所次第では体の内側を傷つけ、苦しんで死んでいくしかない。
「た、すけ……っ……?」
だが、ユーノはイリオールを窓際へ連れて行くと、手を開かせるや否や、水差しを掴み中身を一気に全部かけた。それから注意深く手を眺め、傷はほとんどなく、最初にぶつけたときのかすり傷だけだね、と呟いた。
「しみた?」
「…っ、」
優しく微笑んで振り向かれ、イリオールは急いで首を振る。
「ああいう時は握り込んじゃだめだ、破片でもっと怪我をする」
「は…い」
「深く食い込むと後で爛れてきたり、ひどい傷になったりするから、絶対だめだよ」
こっちへおいで、と促されたのは部屋の片隅で、傷ついた手を丁寧に拭き取ってもらったばかりか、どこからか取り出した塗り薬のようなものを塗ってもらい、包帯まで巻いてもらってイリオールは震えた。
(あったかい…)
俯いた視界が潤んだ。手当されていく手がとても大事に扱われているように見え、事実、グラスを叩き割ったのに、そんなことを一言も責めないで、ただただ傷を案じてもらえる、そのことが信じられなかった。
(おんなじだ……ぼくを……助けてくれたときと……おんなじ…)
不安で眠れなかった。慣れない場所のせいだと思った。知らない人ばかりだからだと思った。仕組まれて背負わされた仕事のせいだと思った、けれど。
(違う…きっと、この人が…)
この温もりが、欲しかった。
「はい、これでもう大丈夫だと…」
「ひ…ぅ…」
「…? イリオール?」
小さく息を引いたのは叫びたかったからだ。
あなたの側に居たい。あなたと一緒に眠りたい。この寒くて凍えるような体を抱いて温めて欲しい。
「どうしたの、痛かった? やっぱりきつかったかな」
おろおろと覗き込んでくれるユーノを見上げて笑おうとしたが失敗した。両手を伸ばし、首にしがみつき、力の限り抱きしめて声を上げる。
「う、わああっ!」
「い、イリオー…??」
「ああああああああっ」
「どうしたの…」
戸惑うユーノがそれでもそうっと抱きしめてくれて、涙が止まらなくなった。
泣き続ける、声を限りに。
そうだ、ずっとこうして泣きたかった。ギヌアの元に送られて、生きるためにはそれしかなくて、それでも繰り返す夜伽にも安らぎはなく、いつも身体中が痛かった。ずっとどうしていいのかわからなかった。どうすれば、やるせなくて苦しくてしんどくて辛いだけの自分をなんとかできるのかわからなかった。
「ひっ……ひうっ、うっ、うぁっ…うっ…」
(哀しかったんだ)
しゃくりあげながら、ユーノの胸に甘えながら理解する。
(ずっと、ずっと、哀しかった。ぼくは、ずっと、こんな風なんだって、どこまで行っても、ずっとこうなんだって)
「イリオール…?」
抱きしめてくれているユーノが低く囁きながら頭を撫でてくれる。愛撫ではなくて、快感も引き出されなくて、けれど甘くて柔らかくて優しくて、なぜ笑ってしまうのだろう、嬉しくて嬉しくて。
「どうしたの」
「ん…」
「赤ん坊みたいだよ」
「…ん…」
「怖かったの?」
「……ん…」
「辛かったの?」
「……」
耳に届く問いかけに答えようと思うのに、小さな溜め息しか出せなくて、体がとろとろと蕩けていってしまうみたいだ。しがみつこうと力を入れても、もうそんなこともどうでもいいような気がして。
(ユーノ)
腕に抱えられる、こんな気持ちいい場所があったなんて。ああ、ここにずっと居られるなら、ぼくは何でもする。
最後に思った気持ちの鋭さにちょっと不安になりながら、それでもイリオールは深い眠りにようやく入り込んでいった。




