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ばんっ!!
激しい音と同時に勢い良く開けられた扉にも、怒りの形相凄まじく突っ立っているジーフォ公の姿にも、テッツェは振り向こうとしなかった。
カイレーン蔓で編まれた長椅子と厚手の布の、窓際に設えられたお気に入りの場所に体を伸ばし、入る陽光を斜めに受けて手にした書物を読み耽っている。年齢不詳の顔立ちは落ち着き払っていて、一筋の毛も残さずに剃り上げた頭も違和感がない。
「テッツェ!!」
「…」
「テッツェ!!!」
「……おや」
ジーフォ公の二度目の雄叫びで初めて、『鉄羽根』の長である男の目が動いた。
細い女性的な円弧を描く眉の下、冴えた緑の瞳がきらりと陽を弾く。と、唐突ににっこりと、いささか白々しいほどの機嫌の良さをたたえて微笑んだ。
「これはこれはジーフォ公」
如何にも喜ばしげな響きだが、上将であるジーフォ公の訪室に伸ばした体を改めもしない。
「書物に熱中しており、おいでを少しも気づきませんでした」
「…ふん!」
焦げ茶色の巻き毛の短髪、気短そうな焦茶の瞳を光らせたジーフォ公は、一瞬呆気に取られたが、次の瞬間、表現しうる限りの荒々しさを込めて、テッツェを睨みつけた。
「気づかなかったが聞いて呆れる!」
声は未だ威丈高なものの、それでも心得た応対に怒りの矛先を外されたらしい。ずかずかとテッツェの私室を横断し、長椅子と同じカイレーンの編み机に歩み寄り、重々しい木板に載せられた酒瓶を手に取る。飾りのない金の器に注ぎ入れ、一気に呑み干す。相変わらず微笑をたたえて見つめるテッツェを、もう一杯新たに注いだ酒を手に、忌々しげに振り返った。
「屋敷に入り込もうとした刺客の気配一つで目覚め、5人を一気に屠った人間が!」
「あの時は、書物を手にしておりませなんだゆえ」
「…」
いけしゃあしゃあと応えた相手を、ジーフォ公は得体の知れない動物が人語を話したような顔で見つめた。それをまた平然と見返し、テッツェはなおもにっこりと笑みを重ねる。
「何か御用でも?」
「………馬をどうした」
「はい?」
「馬だ!」
ジーフォ公は吠えた。新たに湧き上がってきた怒りを、今度こそ消されるまいと掻き立てるように喚き、手にしていた器を鋭い音を立てて木板に叩きつける。勢いに酒瓶が跳ね上がって床に落ち、弾けて砕け散った。
「馬を出せ、テッツェ!」
酒が汚した床にも、四方に飛び散った瓶の欠片にも、ついでにそれと同じぐらい爆発しているジーフォ公の激昂にもやはり動じず、テッツェは静かに返した。
「ご無理をおっしゃいますな、我が君」
口調こそ丁寧だが、態度はますます不遜だ。のんびりと手にした書物に目を落とし、ああどこまで読んでいたのかな、と指先で文字を辿りながら、
「申し上げていたかと思いますが? 本日は放牧の日、公の馬どころか、屋敷の下々にいたる者の馬まで、西の草原に出ております。朝方出ましたので、早ければ夕刻にでも戻ることでございましょう」
「……引き戻してこい」
殺気を宿してジーフォ公が唸る。
「今すぐだ!」
「いかな私でも」
テッツェはくすりと笑った。
「あれほどの地に散った馬を急には集めて参れません」
「ほう…」
ジーフォ公が猛々しい笑みを浮かべてテッツェを見やった。こめかみに浮いた血管がぴくぴくと引き攣る。
「放牧の日は、確か数日前ではなかったか?」
「馬が痩せましてねえ」
やれやれ大変なことだったんですよ、とテッツェは溜息をついた。
「成長期なんでしょうか」
再びジーフォ公が沈黙した。
ゆっくりとテッツェは顔を上げる。ジーフォ公の顔は暗くそそけだち、今にも剣を引き抜きそうだ。事実、この状況下において未だジーフォ公が叩き斬ってこないのは、ただひたすらテッツェの胆力が勝っているからに他ならない。
斬るなら斬ればよい。後悔しないとおっしゃるならば。
そういう冷静な瞳で見つめられるだけのテッツェの沈黙に、ジーフォ公は勝てた試しがない。
「…知ってるな?」
ごほん、と白々しく咳き込んで、ジーフォ公は話題を切り替えた。
「何のことでしょう?」
尋ねる手の書物は、まだ開かれたままだ。
「アリオだ」
「アリオ様……はて」
テッツェが訝しげに首を傾げてみせれば、ジーフォ公がきんきん声を響かせて叫んだ。
「アリオ・ラシェットに決まっているだろうが!」
「ああ、はい、思い出しました。あなた様のご婚約者でございましたね」
「知っているだろう!」
「お綺麗な方で、あなた様にもお似合いの」
「違うっっ!」
遮って叫び始めたジーフォ公に、そろそろ限界と見て取って書物を閉じる。
「…行方知れずになられたと」
「……うむ」
一転、ジーフォ公は悔しげに頷いて押し黙った。
ジーフォ公最愛の女性、アリオ・ラシェットは『西の姫君』と呼ばれている美人だ。鮮やかな黒髪の一房ずつを耳元から肩まで垂らし、残りの髪は後ろで編み込みまとめ、キャサランの金鎖で飾った髪型が気に入りで定番、飾り物の豪奢さで後ろ姿からでも彼女がわかる。少年じみたきつい顔立ちに微妙なバランスを保つ妖しい黒い瞳、くっきり紅を引いた唇が教えるように、気の強さも気性の激しさも天下一品、気位もまた十二分に高く、ちょっとやそっとの男に扱える女ではない。
ところが彼女は、ジーフォ公の元へやってくる前、当時『光の少年』『神々の御子』などと呼ばれていたアシャに血道を上げていた。強引に迫っていたのは周知の事実、それでも当のアシャはと言えば、道端の花ほどにも注意を向けることなく完全無視、なおも距離を縮めようとしたアリオを疎ましがって同じ夜会には一切出ない徹底した態度で振り切った。
恥をかかされた形のアリオは無論激怒したが、惚れた弱みだろう、アシャには正面切って怒りをぶつけることもなく、似たような形で彼女にいれ込んだジーフォ公の求愛に応じた。ジーフォ公の屋敷に移り住んだのも、口さがない連中は噂する、なおアシャに見せつけ、求愛を迫っているのだろうと。
それでもジーフォ公は屈していなかった。彼もまた、どのような形でもアリオさえ手に入ればよかったのだ。そういう意味では、2人は本当に似たもの同志だった。
その、表向きこそ不愉快極まりないアシャの噂も聞きたくないと言う理由でジーフォ公の元にやっていたアリオ・ラシェットが、突然姿を消したのは数日前だ。
もちろん、ジーフォ公自らも必死に探しているが、未だ行方は杳として知れない。募るばかりの苛立ちに配下を詰り物に当たり、今ではジーフォ公と口をきけるのはテッツェのみという有様だ。
「…御様子から察するに……アリオ様の行方がおわかりになったのですか?」
「……この手紙を見ろ」
今までの勢いはどこへやら、不穏な気配を満たして重くなった口調で唸り、ジーフォ公は机の上に一枚の紙を投げ出した。
「拝見いたします」
ようやく書物を閉じて、テッツェは長椅子から体を起こした。黒の長衣の裾を翻して近寄り、黄ばんだ紙を覗き込む。
そこには滲んだ汚い文字が二行あった。
『アリオ様は「泥土」におられる。
アシャ・ラズーンの呼び出しにより。 ー追撃者』




