第5話:月夜の路地裏と、秘密の「つくね」
「あの……もう、おしまいかしら……?」
夕闇が降りた路地裏に、鈴が転がるような、透き通った声が響いた。
顔を上げると、そこにはフードを深く被り、周囲を警戒するように佇む華奢な少女が立っていた。
「あぁ、ごめんね。ちょうど今さっき、今日の分は全部売り切れちゃったんだ」
俺がそう言って申し訳なさそうに肩をすくめると、少女の肩が目に見えてがっくりと落とされた。フードの隙間から、お腹の虫が「きゅ〜……」と小さく鳴る音が聞こえる。
「そう、ですか……。お昼に、ギルドの近くですごく良い匂いがするって噂を聞いて、楽しみにしていたのだけれど……」
恥ずかしそうに俯く彼女を見て、俺のなかの「屋台の親父スピリッツ」がうずいた。
サラリーマン時代、仕事帰りに疲れ果てて暖簾をくぐったとき、「もう終わりだよ」と言われたあの絶望感はよく知っている。
「……よし、ちょっと待ってて。ねぎまは売り切れちゃったけど、別のやつなら、試作品だけどすぐに作れるかもしれない」
「えっ……? でも、食材は……」
「大丈夫、ちょっとした『秘密の倉庫』があるからね」
俺は、屋台の収納ストレージから「あるもの」を取り出した。
それは、初日に仕入れて余っていたホーンチキンの残り肉(約200グラム)と、ネギの端っこだ。
時間が完全に停止する保存機能のおかげで、昨日仕入れたお肉とは思えないほど、驚くほど新鮮でツヤツヤしている。さらに、同じストレージから、今日のために仕入れておいた新鮮な「生卵」も一つ取り出す。
「お肉を細かく叩いて……よし」
俺は包丁で肉を素早く叩き、細かな挽き肉にしていく。そこに、極細かく刻んだネギと、我が【至高の調味料箱】から少量の塩、砂糖、そして風味付けの生姜(これもスキルから無限に出てくる!)を加えて、手早く粘りが出るまで捏ねていく。
丸く、少し平たく成形して、竹串に巻き付ける。
焼き鳥の新定番――『つくね』の誕生だ。
「さあ、お立ち会い」
炭火の上に載せると、モモ肉とはまた違う、お肉がギュッと凝縮された香ばしい香りが立ち上る。
ある程度火が通ったところで、秘伝のタレにドボンと潜らせ、再び炭火へ。
ジューッ! とタレが爆ぜる音が、静かな夜の路地裏に心地よく響く。
仕上げに、小さな木皿に濃い醤油ダレを少し敷き、その真ん中に、ツヤツヤと輝く『生卵の黄身』をポトンと落として、こんがり焼けたつくねの横に添えた。
「はいよ、お待ちどうさま。うちの特製『月見つくね』だ。この黄身をたっぷり絡めて食べてみて」
「……! なんて、綺麗な……」
少女はフードの奥から、サファイアのような美しい瞳を輝かせ、お皿を見つめた。
そして、恐る恐るつくねを手に取り、タレと合わさった濃厚な黄身をたっぷりと纏わせて、小さなお口でパクリと齧り付いた。
「――っ!?」
一口食べた瞬間、少女の身体がビクッと震えた。
「ふ、ふわふわです……っ! お肉が、信じられないくらい柔らかくて、お口の中で解けて……! それに、この黄色い濃厚なソース(黄身)と、甘辛いタレが絡み合って……信じられないくらい美味しいです……!」
彼女はハフハフと息を吐きながら、夢中でつくねを頬張っていく。
一口食べるごとに、彼女の綺麗な瞳がキラキラと潤んでいくのが、月明かりの下でもよく分かった。
「この世界じゃ、生の卵をそのまま食べる文化はないのかな?」
「はい……普通、卵はしっかり火を通さないと、お腹を壊してしまうから……。こんなに濃厚で、とろりとした食べ方があるなんて、初めて知りました……!」
この世界の劣悪な衛生環境では、生卵を食べるなんて自殺行為に等しいのだろう。
だが、俺の屋台はスキルの力で「完璧な保存」と「衛生管理」がされている。だからこそ、この最高に贅沢な『月見』が提供できるのだ。
あっという間に二本のつくねを平らげ、お皿のタレと黄身まで綺麗にすくい取った彼女は、極上の幸せに満ちた表情でため息をついた。
「ごちそうさまでした。こんな素晴らしいお料理をいただいたのは、生まれて初めてです」
「お粗末様。喜んでもらえて何よりだよ」
「はい。お会計を……」
そう言って、彼女が小さな財布から取り出したのは、鈍く、しかし確かな価値を持って輝く、手のひらサイズの一枚の硬貨だった。
「これで、足りるかしら……?」
カウンターに置かれたのは、なんと一握りの銀貨(約10,000円相当)。
「お、おいおい! 待ってくれ! うちの焼き鳥は1本鉄貨3枚(約30円)。試作品のこれだって、せいぜい銅貨1枚(約100円)がいいところだ。銀貨なんて、お釣りが出せないよ!」
この世界の銀貨は、普通の職人が半月近く暮らせる大金だ。焼き鳥1〜2本に対して置く金額としては、あまりにも常軌を逸している。
しかし、少女はフードの奥から、いたずらっぽく、そして上品に微笑んだ。
「いいえ、お釣りは結構です。これだけの素晴らしい『技術』と、誰も知らない『未知の味』、そして私の我が儘に付き合ってくださったお礼ですから」
そう言うと、彼女はすっと立ち上がり、夜風にフードをなびかせながら、闇に消えていくように路地裏を去っていった。
手元に残された、キラキラと輝く一枚の銀貨。
異世界二日目の夜。俺は、今日一日の売上の倍以上にあたる、とんでもない価値の「銀貨」を前に、しばらく呆然と立ち尽くすことしかできなかった。




