第45話:油の誘惑、黄金のロースかつ
そして今日も今日とて、大盛況の一日が終わりを迎えた。
暖簾を仕舞い、洗いものを片付け、静まり返った屋台。
連日の盛況による疲れはもちろんあったが、それ以上に俺たちを支配していたのは、またしても激しい空腹だった。
「ふぅ……師匠、今日も無事に終わりましたね。なんだか最近、お客さんの食べるスピードがどんどん上がってる気がします」
「良いことじゃないか。それだけ腹を空かせて、俺たちの料理を楽しみにして来てくれてるって証拠だ」
カイは満足そうに頷いたが、すぐに自分の腹あたりを押さえ、情けない声を漏らした。
「でももう限界です。今日も腹ペコで、頭の中に『肉』の二文字しか浮かびません……」
「クックック……素直でよろしい。実はな、カイ。今日はお前に、さらなる『肉の誘惑』を教えようと思って、あらかじめ最高の仕込みをしておいたんだ」
俺がニヤリと笑うと、カイの瞳がパッと輝いた。
仕込み用の冷蔵箱から取り出したのは、厚さ二センチはあろうかという見事な肉塊――仕込みの段階で丁寧に筋を切り、塩コショウで下味を馴染ませておいたオークのロース肉だ。
赤身と脂身が美しい層をなし、表面はしっとりと瑞々しい。
豚肉によく似たオーク肉だが、特にロース部分は加熱すると脂身が極上の甘みを持つことで知られている。
「師匠……これって、まさか揚げ物ですか!?」
「そうだ。今夜のメニューは『黄金のロースかつ』。サクサクの衣と、あふれ出る肉汁、そして油のコクで脳を溶かす一品だ」
「黄金のロースかつ……! 名前だけでもう美味しそうです!」
カイがゴクリと喉を鳴らすのを確認し、俺は手際よく調理の準備に取りかかった。
「カイ、まずはラード(豚脂)を鍋にたっぷりと用意しろ。カツを揚げるとき、一番やっちゃいけないのは油をケチることだ。たっぷりの油で包み込むように揚げることで、衣はサクッと、肉はジューシーに仕上がる」
「はいっ!」
カイが素早く鍋にラードを投入し、火にかける。
固体だったラードが熱でゆったりと溶け出し、透明な油の海を作り出していく。ほのかに立ち上る動物性油脂独特の香ばしい匂いが、狭い厨房に充満し始めた。
その間に、俺は肉の衣付けを進める。
まずはオークのロース肉に小麦粉を薄く、だが均一にまぶす。余分な粉をトントンと叩いて落とし、溶き卵にくぐらせる。そして最後に、自家製の粗挽きパン粉がたっぷりと入ったバットへ肉を沈めた。
「ここで強く押しつけすぎず、かといって甘くもならず、手で優しくパン粉を密着させる。パン粉の粒が立っているほうが、揚げたときの食感が最高になるんだ」
「なるほど……衣のつけ方ひとつで食感が変わるんですね」
「ああ、料理は細かい手間の積み重ねだからな」
油の温度を確かめるため、パン粉をひとつまみ落としてみる。
パン粉は油の真ん中あたりまで沈み、すぐにシュワシュワと小さな泡を立てながら浮かんできた。およそ百七十度。絶好のタイミングだ。
「いくぞ、カイ。油の誘惑の始まりだ」
衣を纏った厚切り肉を、静かに、滑らせるように油の中へ投入する。
ザシュワァァァァァァッ……!
激しい揚音が厨房に響き渡った。
静かだった油の海がいっせいに沸き立ち、白い衣の隙間から無数の細かな泡が弾け飛ぶ。熱されたラードの香ばしい匂いと、肉が焼ける匂いが混ざり合い、強烈な芳香となって鼻腔を突いた。
最初は重く低い「ザザーッ」という音だった揚げ音が、肉内部の水分が抜けて熱が通るにつれて、次第に軽やかな「ピチピチ、パチパチ」という高音へと変化していく。
「音を聞け、カイ。油と肉が会話してるんだ。水分が抜けて肉が軽くなり、浮き上がってきた時が、揚げ上がりの合図だ」
「はい……! 音がどんどん高くなってきてます!」
肉の周囲の泡が小さくなり、全体がフワリと油の上に浮かんできた。
俺は長めの揚げ網を使い、一気にロースかつを引き上げる。
油を切る網の上に載せられたかつは、まさに言葉通りの姿をしていた。
余分な油を弾き返し、粗めのパン粉一つひとつが立って、まばゆいばかりの「黄金色」に輝いている。
「うわぁぁ……すごい、本当に黄金色だ……!」
「まだ慌てるな。ここで三分間、そのまま置く」
「えっ!? こんなに美味しそうなのに、おあずけですか!?」
ガックリと肩を落とすカイに、俺は笑いながら説明した。
「余熱で中までじっくり火を通すんだよ。引き上げてすぐに切ると、肉汁が全部外に流れ出ちまう。休ませることで肉汁が肉全体に落ち着き、切った瞬間に最高の状態で留まるんだ」
三分間という時間は、空腹の二人にとって永遠のようにも思えた。
カツから立ち上る熱気と油の香りが、俺たちの理性をじわじわと削っていく。カイはまるで宝物を前にした子供のように、じっと黄金のカツを見つめ続けていた。
「よし……そろそろ解禁だ」
まな板の上にカツを移し、包丁をあてる。
ザクッ、サクッ、ジュワッ!
包丁が衣を断ち切るたびに、官能的な音が響く。
切断面がパかっと開くと、中心部はほんのり高貴な桜色。閉じ込められていた熱い肉汁がジュワッと溢れ出し、溶けた脂身と合わさって断面をキラキラと濡らしていた。
「見てみろ、この肉汁。休ませたからこそ、このジューシーさが保たれるんだ」
「な、なんて罪深い見た目なんですか……! 断面だけでご飯が何杯でも食べられそうです!」
皿に山盛りのキャベツを添え、切り分けたロースかつを盛り付ける。
仕上げに、リンゴやトマト、各種スパイスをじっくり煮詰めて作った特製の濃密とんかつソースを、カツの真ん中にたっぷりと回しかけた。端には黄色い和カラシをちょんと添える。
「完成だ。『黄金のロースかつ』。冷めないうちに食うぞ!」
「いただきます!!!」
カイはもう限界だと言わんばかりに箸を伸ばし、一番分厚い、脂身と赤身のバランスが完璧な真ん中の切り身を掴んだ。カラシを少しつけ、ソースを絡めて口へと放り込む。
サクッ……ジューシーーーッ!
「んぐ……っ!? むぐ、ふ……っ!!」
カイの口から、声にならない悲鳴が漏れた。
両手を頬にあて、目をこれでもかと見開いて悶絶している。
「し、師匠……! なんですかこの衣のサクサク感! ラードで揚げてるのに全然重くなくて、むしろ香ばしさが凄いです! そして肉が……肉が信じられないくらい柔らかくて、噛んだ瞬間に甘い脂と肉汁が口の中で爆発しました!!」
「だろ? 植物油じゃ出せないこのラードのコクと食感、そして厚切り肉のジューシーさ。これぞまさに油の誘惑だ」
「甘辛いソースとカラシのツンとした辛さが、肉の脂の甘みを引き立てて……ハフッ、ハフッ、噛むのをやめられません! ご飯! ご飯をください!!」
カイは丼に盛った白飯を抱え、ロースかつを一噛みしては米をかき込み、キャベツを挟んではまたカツに飛びついた。
俺も一片を持ち上げ、口に運ぶ。
ザクッと心地よい音を立てて衣が壊れ、中から熱々のオーク肉の旨味が溢れ出す。脂身は口の中でスッと溶け、しつこさどころか上質な甘みとなって舌を満たした。ソースのコク、カラシの刺激、そして炊きたてのご飯。それらが口の中で一つに溶け合い、圧倒的な多幸感が脳を揺さぶる。
「くぅぅ……美味い! この脂身の甘さと衣のサクサク感、やっぱり揚げたてのとんかつは至高だな」
疲れた身体に、肉と油のエネルギーがじわじわと染み渡っていくのがわかる。
一昔前の俺なら「夜中にこんな油ものを食べたら胃がもたれる」なんて心配をしたかもしれないが、今の俺たちにあるのは、純粋な食欲とそれを満たす快楽だけだった。
「師匠、キャベツと一緒に食べると、口の中が一度リセットされて、また無限にカツが食べられるようになります! この組み合わせ、悪魔的すぎますよ!」
「キャベツの千切りは伊達じゃないからな。油の消化を助けるし、シャキシャキした食感がカツの柔らかさを引き立てるんだ」
二人とも、最初は一口ずつ味わうつもりだった。
しかし、一度火がついた食欲は止まらない。
サクサク、バクバク、ガツガツ。
厨房には衣を噛み砕く音と、ご飯をかき込む音、そして満足気な息遣いだけが響いていた。
気づけば、あんなに分厚かったロースかつは跡形もなく消え去り、皿の上にはわずかなソースの跡とキャベツの一片しか残っていなかった。
「ふはぁぁぁ……食べた……食べたぁ……」
カイは箸を置き、満腹感に満ち溢れた顔で天井を見上げた。
お腹はポンポンに膨らみ、幸せそうな笑みが口元からこぼれている。
「どうだカイ、黄金のロースかつは?」
「最高でした……前回の悪魔丼もすごかったですけど、今日のロースかつは『油の芸術』ですね。サクサクの衣の中に、あんな幸せが詰まってるなんて思いもしませんでした」
「そう言ってもらえると、仕込んだ甲斐があったよ。だがカイ、油の誘惑は一度味わうと癖になる。明日からの賄いも期待しておけよ?」
「はい! 師匠の作る料理なら、どんな誘惑でも喜んで負けてみせます!」
カイは元気に返事をし、満足そうに自分の腹を撫でた。
夜風が厨房の窓を優しく吹き抜け、油の残香を少しずつ遠くへ運んでいく。
満腹の幸福感に包まれながら、俺たちは明日の営業に向けて、静かに深く、満ち足りた溜息をつくのだった。




