第二話:木漏れ日の平穏、あるいは仮初めの生業
大正の帝都に朝が訪れると、昨夜の禍々しい紫の霧も、血の匂いも、全てを融かすように眩い陽光が降り注いだ。
石鳥居をくぐり、苔むした参道を歩けば、そこには昨日と変わらぬ、いや、何百年も前から変わらないかのような『八咫烏神社』の静謐な日常がある。
からりと晴れた青空のもと、小鳥のさえずりと共に響くのは、サッ、サッ、という竹箒が石畳を穿つ規則正しい音だ。
「おはようございます、お蓮様」
声をかけたのは、白衣に深い藍色の袴を揺らした千代だった。
その手にはお札やお守りが整然と並べられたお盆がある。
豪商の末娘としての凛とした気品を残しつつも、その物腰はすっかり板に付いた「健気な助手」のものだ。
箒を止め、振り返ったお蓮は、うららかな微笑みを浮かべた。
「ええ、おはよう、千代。今朝も早い仕様ですね」
今のお蓮のどこを探しても、昨夜の面影は微塵もない。
髪は艶やかな黒のショートヘアー。
感情を昂ぶらせると緋色に発光するあの瞳は、今は穏やかな、深い黒漆の輝きを湛えている。
衣服もまた、あの淫靡に肌を露出させた黒装束ではなく、糊のきいた清潔な上衣と、燃えるような紅色の袴。
凛とした、しかし誰に対しても慈悲深くお淑やかな「表の巫女様」が、そこにはいた。
「お蓮様、昨夜はよく眠れましたか?」
千代が歩み寄り、小声で、しかしどこか悪戯っぽい響きを孕んだ声で尋ねる。
その視線はお蓮の首元、昨夜、千代が容赦なく引き剥がした黒布の代わりに、今は巫女服の襟元で固く閉ざされた白い肌へと向けられていた。
衣服に隠されたその肢体には、昨夜の凄絶な浄化の儀式の痕跡が、かすかな朱色となって残っているはずだった。
お蓮は一瞬だけ、その端正な顔を桜色に染め、視線を泳がせた。
「……ええ。千代のおかげで、とても心地よい目覚めでしたよ。その……ありがとう、千代」
消え入るような声で囁き、すぐさま「さあ、今日も参拝客の方がいらっしゃるわ」と、普段の威厳を取り戻そうと箒を動かす。
千代はお蓮のそのいじらしい後ろ姿を、愛おしげに見つめた。
夜の儀式における冷徹な【注ぎ手】としての姿も、昼間のこの淑やかな姿も、すべてはお蓮という一人の女性の真実だ。
自分の能力の時だけ小娘のように泣き叫び、すべてを委ねてくれるお蓮を、千代は全霊で愛し、守り抜くと静かに心へ誓っていた。
「あら、二人とも朝から仲が良いのねえ」
社務所の陰からひょっこりと顔を出したのは地味な着物を着た千鶴だった。
千鶴の昼間の仕事は、社務所での受付や、参拝客の案内だ。
「千鶴さん、おはようございます。情報収集(カフェーの出勤)は午後からですか?」
千代の問いに、千鶴は伸びをしながら答えた。
「そうそう。夕方から浅草の方でちょっとね」
そう言って笑う彼女は、ただの少し調子のいい、噂好きな近所のお姉さんといった風情だ。
政府高官の弱みを握って裏交渉を行う凄腕の隠密には、到底見えない。
「弥生ちゃんは?」
お蓮が尋ねると、千鶴は本殿の裏手を指差した。
「裏の工房で、新しいお守りの奉製をしてるわよ。内気な子だから、昼間は滅多に表に出てこないけどね」
裏の呪具職人である弥生は、昼間はただの職人気質な、極度に人見知りの少女として静かに過ごしている。
神社の裏手にある静かな工房で、彼女はひたすらに、お札の印刷や、お守りに込める神砂の選別といった細かな作業に没頭していた。
さらに、本殿の廊下からは、カツン、カツンと大太刀の鞘を床に響かせる音が聞こえてくる。
「おーう、朝からご苦労さん!」
声をかけてきたのは、斬滅部隊の姉御肌、詩織だ。
彼女は昼間、境内の警備や、寄進された資材の運搬など、その男勝りな体力を活かした仕事を一手に引き受けている。
「詩織さん、またそんな大きな音を立てて……参拝客の皆様が驚かれますよ」
千代が苦笑交じりに窘めると、詩織は「がはは」と豪快に笑った。
「すまんすまん。だがよ、昼間のうちに身体を動かしとかねえと、夜の戦場で刀が鈍るからな」
詩織はお蓮の横を通り過ぎる際、その耳元でだけ、小さく悪戯っぽく囁いた。
「昨夜も随分と派手な声が裏まで響いてたぜ? お蓮ちゃん、千代に可愛がってもらえて何よりだな」
「し、詩織……ッ!」
お蓮が真っ赤になって怒るのを見て、詩織は満足げに笑いながら、また境内の見回りへと歩いていく。
そんな巫女たちの中心にいるのが、盲目の最高参拝巫女、小夜であった。
小夜は本殿の奥に静かに座し、訪れる相談者たちの言葉に耳を傾けている。
「最近、胸騒ぎがして夜も眠れないのです。何だか、悪い病気でも流行っているのではと……」
不安げに訴える婦人に、小夜は優しく手を差し伸べた。
「大丈夫ですよ。それは近代化の進むこの街の、少し強すぎる光に疲れてしまっただけです。この神社の緑の中で、ゆっくりと息をなさってください」
その傍らでは、お蓮もまた、参拝客の悩みや祈りにじっくりと耳を傾け、穏やかな微笑みを絶やさずにいた。
男社会の闇に怯え、時代の急流に押し流されそうになっている女性たちを、お蓮は心から救いたいと願っている。
だからこそ、夜の戦場でどれほど身を削ろうとも、陰呪に肉体を汚されようとも、彼女は刀を振るうことを止めないのだ。
木漏れ日が揺れる平穏な境内で、八咫烏神社の巫女たちはそれぞれの仕事を全うしていく。
しかし、陽が傾き、帝都が再び濃厚な「翳」に包まれる刻限は、一歩一歩、確実に近づいていた。




