第四十五話「英雄」
「曹操の退路を焼き払え!
逃がすな!
――殲滅せよ!」
冷静な陸遜の声が戦場に響いた。
甘寧と激戦を繰り広げていた曹彰も、
もはやそれどころではなくなっていた。
――馬超が来る。
あの、“錦馬超”が。
曹魏軍にとって、
馬超の名は大きなトラウマだった。
8年前、潼関の戦い。
曹操をあと一歩まで追い詰めた悪夢の記憶。
その恐怖が、今再び蘇る。
馬超軍は凄まじい速度で曹魏軍の背後へ突撃した。
まるで鋭利な刃のように敵陣を切り裂き、一直線に曹操を目指す。
次々と曹魏兵が吹き飛ばされていった。
孔明の策――。
それは、宛城の調略だった。
宛は荊州北端に位置し、
長安、洛陽、許昌へ繋がる重要拠点である。
かつて197年の宛城の戦いでは、
曹操が嫡男・曹昂と、猛将・典韋らを失った因縁の地でもあった。
孔明が目を付けたのは、
北方から援軍として宛に駐留していた田豫将軍だった。
彼はかつて幽州で、
劉備三兄弟や簡雍と行動を共にしていた男である。
劉備が徐州の陶謙を頼った際、老母を置いて行けず、
涙ながらに別れた過去を持つ。
その後は曹操軍へ仕え、
主に北方異民族討伐で武功を重ねていた。
去年には宛の反乱鎮圧のため駐留していた。
彼のもとへは劉備だけでなく、
徐庶、簡雍、関羽からも書状が届いていた。
そして最終的に――。
孔明と馬超が宛へ進軍した時、
田豫は説得に応じ、投降したのである。
宛城を無血開城した馬超・馬岱・孔明軍は、即座に南下を開始した。
最低限の守備兵だけを残し、
投入可能な三万の兵を率いて出陣。
孔明もここは大きな賭けに出た。
宛城の守りが薄くなってでも、
曹操を倒しに大量投入したのだった。
新野で激突中の曹魏軍。
その背後を突く形で戦場へ乱入したのである。
曹操軍は完全に混乱した。
第三勢力――孫呉の侵攻。
陸遜の火計による許昌への退路封鎖。
さらに背後から襲いかかる馬超軍。
三つの好機が重なった瞬間、撤退を始めていた劉備本隊も反転した。
――曹操包囲網、完成。
後に"新野の大戦"と呼ばれた。
八万対八万で始まり、
劉備軍と曹操軍の総力戦。
そこへさらに、
曹操本隊による三万の援軍。
孫権軍三万。
馬超・馬岱軍一万。
孔明・田豫軍二万。
曹魏軍 十一万
劉蜀軍 十一万
孫呉軍 三万
無数の軍勢が乱れ込み、
戦場は地獄と化した。
そして大勝利を収めた劉備軍も、
決して無傷ではなかった。
名将・黄忠。
劉備の養子にして勇将、劉封。
彼らを失い、劉備軍の戦死者も五万を超えたのである。
一方、比較的被害の少なかった孫呉軍は追撃を続行。
だが、堅城・許昌へは手を出さなかった。
代わりに東方へ侵攻。
韓当、凌統、周泰らが合肥を陥落させ、さらに寿春を攻略。
その後、西進して汝南を東西から挟撃し、攻め落とした。
今回の新野大戦で大きく利益を取ったのは、
孫呉陣営だった。
劉蜀は宛を獲得し荊北を制覇。
孫呉は汝南・寿春・広陵を獲得。
曹操軍の諸将たちは撤退戦の中で、
多くの兵と将を失っていった。
新野北部は、業火に包まれる。
曹魏軍の被害は甚大だった。
総勢十一万の兵のうち、
許昌へ帰還できたのは、
わずか一万程だったという。
許昌近郊
「ゼェ……ゼェ……ハァ……。
しんどいわぁ……。
……ここまで来りゃ、ええか」
満身創痍の夏侯惇は、
背負っていた曹操を木陰へ寝かせた。
「盛大に負けたなぁ!」
火傷だらけで顔を真っ黒にした曹操が、
仰向けのまま笑う。
「なんでそんな嬉しそうなんだ、
お前は……」
「ずっと一人勝ちなんて、
つまらんだろう」
「いてててて……よっこいしょ」
夏侯惇も隣へ寝転がった。
すっかり夜は更け、頭上には満天の星空。
だが南の空はいまだ赤く燃えていた。
新野から許昌へ続く森は、
陸遜の火計によって火の海となっている。
許褚とも途中ではぐれ、行方不明。
張遼や曹彰が血路を開いてくれたが、
無事かどうかは分からなかった。
「惇……。やっと…これからだ」
「何がだ?」
「三国の力が拮抗し、面白くなるぞ」
「負けたのに喜ぶなよ……」
曹操は夜空を見上げた。
「やはり劉備は英雄だった。
孫権もしたたかな三代目だ」
「ホンマ、厄介な奴らじゃ」
「これからは
――次世代の英雄が競う時代になる」
「お前の息子も強くなったなぁ。
劉封と黄忠を討ち取ったんじゃろ?」
「黄鬚(曹彰)も、英雄の一人かもしれん」
「許昌に籠って
しっかり立て直せば、
まだ一年は戦える。
兵糧はたっぷりあるからな」
「ああ、そのために戦える城を作った」
「また孫権が裏切って、
勝手に潰し合ってくれるじゃろう」
曹操は小さく笑った。
「やはり戦場はいいなぁ……惇」
「お前はやっぱり、
戦ってる時が一番生き生きしてるなぁ」
「……」
「……」
しばしの沈黙。
燃え続ける南の空を見つめながら、
夏侯惇は静かに口を開いた。
「帰ろう……孟徳」
第四章 戦場編 了
最終章 完結編 「猛者」つづく




