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ノロイ

とめどなく、その3です。

全三部完結予定でしたが、長くなりそうなので全四部になります。

 その日も雨が降っていた。

 にわか雨だ。

 ムラカミフォトを訪ねた帰り、会社までの道を歩いていると、それはぽつぽつと僕の頭に音を立てて落ちてきた。

 僕は走り出した。

 この付近に傘を買えるような場所がないことは、よく知っていた。

 雨は本降りに変わっていった。

 僕は鞄を抱くようにして、雨宿りができる場所を探した。

 街行く人もまた、散りゆく魚のように、三々五々に各々の場所へと走り出していた。

 折り畳み傘を準備している人もいたが、生憎僕はそのような準備はしてきていなかった。

 僕の体が、徐々にしっとりと水気を帯びていくのを感じる。

 雨脚はどんどん強くなる。

 これはいよいよまずいかもしれない。

 そう思い始めた時、僕の目の前にあの喫茶店が現れた。

 僕は喫茶店に飛び込む。

 入口の扉につけられたベルが澄んだ音を立てて、僕の訪問を店内に知らせた。

 静かな店内は、走ってきた僕にとってまるで時間が止まっているかのように静かだった。

 カウンターにいる店員がゆっくりと僕の方を振り向く。

 以前ウイに出会った時にいた店員だった。

「いや、急に雨が降ってきてしまって……」

 僕は特に尋ねられているわけでもないのに、まだ落ち着いていない息遣いで彼女に弁解した。

 静かな空間を乱してしまったかもしれない。

 そんな気まずさが、ほんの少しだけ僕の心に生まれていたのだろう。

「ええ、大丈夫ですよ」

 彼女は静かな声で言った。

 そしてにこりと笑った。

 大変でしたね、彼女はそう言って、

「何か拭くものをお持ちしましょうか?」

 僕の姿を見た。

「いや、大丈夫です。すぐ乾くから……」

 僕はありがとう、と言ってメニュー表をちらと見る。

「またブレンドコーヒーのアイスを頼んで良いかな」

「かしこまりました」

 メニュー表を見ても見なくても結局僕はブレンドコーヒーを頼むのだ。

 シンプルなものが一番良い。

 彼女はこの前と同じように、番号を札を僕に手渡す。

「もし何かあったら遠慮せず言ってくださいね」

 僕は彼女に感謝を伝えて、空いている席を探しに行く。

 作業に没頭している彼らは、僕に目もくれようともしない。

 僕は窓際の席に腰かけると、ふうと息を吐いた。

 ズボンのポケットからハンカチを取り出して顔と髪を拭く。

 思ったよりは濡れていないみたいだ。

 ハンカチをまた折り目通りに整えて、テーブルの上に置く。

 もう片方のポケットに指輪があるのを手で触って確認すると、僕は目を閉じた。

 指先をテーブルに軽く打ち付けて、何かのリズムを刻む。

 視界が消えた代わりに、店内の香ばしいコーヒーの匂いと、小さく流れるバックグラウンドミュージックが、僕の鼻腔と耳に入ってきた。

「すみません」

 コーヒーができたのだろうか。

 声をかけられた気がして、閉じていた眼を開けて振り向く。

「やっぱり、ユウさんだった」

 ウイが小首をかしげて、こちらを覗いてきていた。

「こ、こんにちは」

 意識の外から話しかけられた僕は少し驚いて、一瞬言葉がうまく出てこなかった。

 次は何を言えば良い?

 ウイはそんな僕にかまわず話し続ける。

「そんな気がしたんですよね。でも間違っていたら恥ずかしい思いしましたねえ」

 彼女はそのまま僕の隣の席に腰掛けると、自分の番号札をテーブルの上に置いた。

「また会えてうれしいです。この喫茶店気に入りました?」

 僕はそうですね、と返す。

 これは偽らざる本心だ。

「この前も今日もたまたまですけど、雰囲気は結構好きです」

「そうですよねえ。私も好きです」

 ここが一番落ち着くんです、と彼女は言った。

「だから毎日のようにここにきているわけですが」

「大ファンですね」

「きっとユウさんもそうなりますよ」

 そうですかね、と僕は言った。

「ええ、きっと」

 ウイと目が合う。

 私の隠れ家ですから。

 きっとあなたも気に入るはずです。

 そしてウイは優しく微笑む。

 そんなウイの言葉を聞いていると、確かにそんな気もしてくる。

 どこか懐かしさを感じるレトロな店内は、妙に僕にしっくりとき始めているのに僕は気が付いた。

「お待たせしました。ご注文の品です」

 店員が僕たちのもとにやってきた。

「こちらコーヒーとサンドイッチです」

 僕たち二人分の注文の品が届いた。

 一礼して去っていく店員を見送って、僕はふと気になっていた疑問を彼女に尋ねた。

「あの店員さんって、もしかして妹さんですか?」

 ウイは涼しげな目元にわずかに驚きの表情を浮かべた。

「なんでそう思ったんですか?」

「なんとなくです」

 僕も教えてほしいくらいだった。


 静かな店内に、僕たちの話し声が響く。

 僕はたびたび声の大きさを抑えて、周りを見回したが、店内は本当に「静か」だった。

 まるで僕たちの事なんて存在していないかのように、彼らは身じろぎもしない。

 わずかに聞こえてくるキーボードの打鍵音だけが、僕たちの会話に相槌を打ってくれていた。

 僕とウイは驚くほど嗜好がよく似ていた。

 彼女が教えてくれた映画はなかなか刺激的で面白かったし、僕が彼女に見たことがある映画を言うと、大体は彼女の好みだった。

 コーヒーの趣味は少し違ったが。

 彼女がコーヒーに大量の砂糖を入れる度、僕は顔をしかめるのだった。

「ふうん、それで」

 ユウさんは大事そうに鞄を抱えていたんですね、と納得したようにウイは言った。

「よく分からないんです」

 ウイは聞き上手だった。

 僕はいつの間にか彼女に悩み事を相談していた。

 僕はかいつまんで事情を説明している。

「これって仕事のうちに入るんですかね。ひたすら写真を撮るだけですよ」

 僕は社会からつまはじきにされたんじゃないか……いわゆる左遷されてしまったんじゃないかという心境を彼女に吐露しているのだった。

「仕事のうちに入るんじゃないんですか」

 ウイはあっけらかんと言った。

「写真を撮って、もらえるものもらえるなら私は喜んでやりますよ」

 まあ、私は書いてばかりで実際に働いたことないんですけどね。

 ウイはそう言って明るく笑った。

「もしかしたらユウさんが気が付いていないだけで、すごい重要な仕事なのかもしれないですよ」

「そうですかね」

 果たして本当にそうなのだろうか。

 意味があることだとはなかなか思えそうもない。

「自分語りになりますが」

 彼女はそう前置きをした。

「私は昔とても大事なものをなくしました。今でも夢に見るんです」

 枕元に立つ、なんてよく言いませんか?

 ウイはそう言って、怖い意味じゃありませんよ、と笑った。

「実際本当にそうなんです。寝ていると誰かが私に呪いをかけているんです」

 大事なものを忘れないように、呪いを私にかけてくれるんです。

 呪い。

 僕は彼女の目を見た。

 その瞳の中に僕がいる。

 その呪いは私に教えてくれるんです。

 私が本当はどう思っているか、後悔しているか、安堵しているか、そのどちらでもないのか。

 答えはいつも出ないんですけどね。

 ウイは言って、僕の目を見た。

「あなたには、誰が私に呪いをかけているか分かりますか?」

 僕は返答に詰まる。

 そんなこと分かるわけがない。

 彼女とは出会ったばかりだ。

 でも相談に乗ってもらった以上、考えなければならないだろう。

 とりあえず僕と彼女は似ているところが多いから……。

「ちょっとむずかったですかね」

 そう言うと、彼女は自分が食べていたサンドイッチを僕の口に押し入れてきた。

 僕は目を白黒させる。

「今はとりあえず食べましょう。腹ごしらえが必要です」

 僕は何とかそのサンドイッチを口の中に収めた。

「何かあったら私に相談してください」

 彼女は微笑む。

 今日は用事があるのでここで失礼しますが。

 ウイはそう言って、コーヒーを飲み干すと立ち上がった。

「私はホラー作家です。その類の話ならお手の物です」

「そういえばそうですね」

 僕がありがとうと言うと、彼女は、はい、と言った。

 正直なところ僕は彼女の話が何を意味するのか、よく分からなかった。

 でも何か肩の荷が下りたような気がした。

 僕は少し笑ってみせると、背を向け去っていく彼女に声をかけた。

「また連絡するよ」

 ウイは振り向いて、わずかな沈黙ののち頷いた。

「ええ、いつでもしてください」

 その喫茶店は最後まで静かだった。



 少し遅れて喫茶店を出た僕は、携帯電話を握りしめて、すっかり晴れた青空の下立ちつくす。

 ウイと話して少しは気が軽くなったが、別の問題が僕に降りかかっていた。

 意を決して、電話をかける。

 短い呼び出し音の後、ガチャと音がして、電話がつながった。

「高嶋です」

 会社に戻るのが遅くなってしまったという報告を課長にしなくてはいけなかったのだ。

「すみません、遅くなりました」

 ああ、と携帯電話の向こうで課長は言った。

 あれから課長とうまく話せないでいた。

 というもよりも正しくは僕が勝手に線を引いてしまっているだけなのだが。

 課長は特に何も思っていない様子で、もちろん課長は僕が理子の携帯電話を見たことなど知らないのだから当然なのだが、気だるげに返事をすると、

「大丈夫かい?」

 と僕に尋ねた。

 電話の向こう側で課長のあくびが聞こえたような気がした。

「ええ、ちょっと雨に降られてしまって」

 僕は正直に答えた。

「なら良い」

 課長は頷く。

「写真は現像してもらえたかな」

「はい」

 そうか、と課長は言った。

「そうしたら今日はもうそのまま帰って良いよ」

「寄らなくて良いんですか?」

 まさか帰って良いことになるとは思っていなかった。

 僕は課長に聞き返してしまう。

「かまわないよ。また明日来てくれ」

 君も風邪などひかないように、課長は言う。

「分かりました。ありがとうございます」

 僕が感謝を述べると、それじゃ、と課長は電話を切った。

 僕は突然解放されてしまった。

 することもないのでひとまず帰路につくことにした。

 しかし、やはり僕にはよく分からなかった。

 ますます分からなくなった。

 この仕事は僕がいてもいなくても、どちらでも良いんじゃないか。

 この扱いはあまりにも適当すぎないか。

 僕は再び考え込む。

 僕は何とはなしに、鞄から現像してもらった茶封筒を取り出し、中の写真を眺めた。

 これが僕の仕事の成果か。

 そこには何の変哲もない風景が写し出されている。

 これは……会社の近くの道路だ。

 青空の下、街路樹とビルに両脇を囲まれた幅広い道路が数人の通行人とともに写し出されていた。

 別に課長からは言われてはいないのだが、僕はなるべく無関係な交通人の顔を正面から撮らないように気を付けている。

 だからほとんどの写真に写る人々は、皆後姿だ。

 スーツを着た男性社員、オフィスレディと思しき女性の姿、帽子をかぶった配達人、タクシーから降りてくる中年男性。

 東側、西側、南側、北側。

 しっかりと全ての方角から撮られた写真たち。

 昼下がりから夕方にかけての一瞬を切り取ったその写真には、日の傾きによって表情を変えていく情景がはっきりと写し出されていた。

 この写真に何の意味があるのだろうか。

 僕はウイの言葉を思い返していた。

 僕が気が付いていないだけで重要な仕事……。

 しばらく眺めて、次の写真を見る。

 またしばらく眺めて、次の写真を見る。

 そうして何巡かしているうちに、僕は何故か吐き気を覚え始めた。

 視界がかすむ。

 何かに頭を殴られたような、強烈なふらつきとデジャビュを覚える。

 しかし、その既視感が何かは思い出せない。

 警告音。

 僕の頭がエラーを吐き出す。

 エラー。エラー。

 意識が白く遠のく。

 僕はかろうじて。

 その写真たち全てに写る、ある女性の姿を認めたところで、完全に意識を失った。




 僕が次に目を覚ました時、僕は自宅の寝室のベッドに仰向けに寝ていた。

 カーテンの閉め切られた部屋は薄暗く、僕は今が日の昇っている時間ではないことだけしか分からなかった。

 サイドテーブルに置かれた水の入ったコップと薬から、どうやら誰かが僕のことを介抱してくれていたのが分かった。

 まだぎこちない体を動かして、僕は携帯電話を探す。

 携帯電話さえあれば何でも分かる。

 僕はまず今の時間を知りたかった。

 手探りでズボンのポケットを探る。

 結婚指輪が指先に当たる。

 傷がついて、つま先に引っかかるようになった溝を二、三回癖のように確認する。

 携帯電を見つけられなかった僕の左手は次に、頭の上のベッドボードを探す。

 僕の皮膚とベッドボードの木材が暗闇の中でこすれる音がした。

 こつん、と僕の手が何か硬質な素材に当たる。

 僕はそれを手に取り、僕の眼もとに持ってくると、目を凝らして見る。

 果たしてそれは僕の携帯電話だった。

 僕はその画面を指先でタップしてみたが、何も反応はなかった。

 何回タップしても画面は暗いままだ。

 僕は期待を込めて側面の電源ボタンを推してみる。

「充電が必要です」とでも言いたげな、アダプターとケーブルの絵が画面に表示されるだけだった。

 電池切れだ。

 僕は携帯電話を手放すと、頭に手を当てて天井を見上げた。

 正確な時間は分からなかったけれど、僕は携帯電話が充電切れを起こすくらいには気を失っていたことになる。

 もし、この「夜」が、あの倒れた時の日付ではなかったら……。

 僕は丸一日以上寝続けていたのではないかという予感がふつふつと湧き上がってくる。

 そう考えて、僕はこれ以上頭が働かないことを悟った。

 うまく考えることができない。

 何か靄がかかったように、僕の頭は動くことを拒否しているのが、僕には分かった。

 誰かに説明してもらいたい。

 理子。

 おそらく理子が家にいるはずだ。

 僕は声を出して理子の名前を呼ぼうとしたが、僕の口から出てきたのは、今にも消え入りそうな、かすかなかすれ声だった。

 理子を呼ぶことをあきらめた僕はまず上体を起こしてみる。

 体はひどく重たい。

 時間をかけて、一つずつ確かめるように、ゆっくりと全体の関節を曲げていく。

 首、肩、肘、手首、腰……。

 まるで僕のものではなくなってしまったような体を、ベッドから少しずつ引き離していく。

 そしてついにカーペットの敷かれた床に立ち上がると、僕はめまいを覚えた。

 しかし、また横にならないといけない程の気分の悪さではない。

 立ったまましばらく動かずにいると、ふらつきはどこかへ消えていった。

 それと同時に、寝室の扉の向こうに誰かの気配を感じた。

 小さな物音と光が、わずかに開いた寝室の扉から漏れてきているのが分かった。

 僕の足取りはまだおぼつかない。

 それでも少しずつその光へと近づいていく。

 僕はゆっくりと扉を開ける。

 蝶番がきしむ甲高い音が響いた。

 僕は冷ややかな夜の廊下を渡る。

 リビングへ通じる擦りガラスの扉から、かちゃかちゃと何かがぶつかるような物音と、白い淡い光が漏れている。

「理子……?」

 僕がその扉を開けると、理子がキッチンに立って、洗い物をしているのが見えた。

 理子が僕に振り向く。

 無表情だった顔に表情が宿る。

「ユウ、起きたのね。大丈夫?」

 彼女はキッチンにかけられたタオルで手を拭くと、僕に駆け寄ってきた。

 理子の顔には見間違うことができないくらいの、不安と安堵が混ざりあったような表情が浮かんでいた。

「うん、今さっき起きた」

「もう動いて大丈夫なの?」

 なんとかね、僕がそう言うと、理子は、

「とりあえず椅子に座ろう」

 そう言って僕を椅子まで連れて行ってくれた。

「僕は一体どうなったんだろう」

 僕は理子に尋ねる。

 理子は少し間を置いて、

「倒れたんだよ」

 と言った。

 彼女は思案する顔で僕を見る。

 彼女は何を話すべきか、頭の中で構築中であるようように見えた。

「高嶋さんから電話があってね。ユウが道で倒れて病棟に運ばれたって」

 でも調べたら大事ではなかったの。

「だから二人であなたを迎えに行って、連れて帰ってきたんだ」

 そうなんだ、そう僕はつぶやいて、そして頭を下げた。

「二人に迷惑かけてごめん」

 理子は眉を下げるような笑い方をした。

「何を言っているの。私たちはなんとも思っていないよ」

 とにかくユウが無事でよかった、と理子は言った。

 それは理子の本心からの言葉に聞こえた。

 僕の心がようやく落ち着きを取り戻していくのが分かった。

 僕は何を疑っていたんだ。

 僕が理子のことを想っていて、理子も僕のことを想ってくれている。

 それだけで十分なんだ。

「課長にも謝らないと」

 僕が言うと、

「私が伝えておくから大丈夫だよ」

 理子はそう言って、キッチンに行った。

 彼女は日にかけていた鍋から、何かを器に移すと、それを持って僕のもとに来た。

「今は体調を良くすることだけ考えないと」

 そう言って笑う理子。

「お腹すいていない? 何か食べられそう?」

 僕は返答に渋る。

「まあ、要らないって言っても、私は食べさせるんだけどね」

 僕の目の前に器が置かれる。

 お粥だ。

 これは、卵がゆだろうか。

 優しい香りが立ち上ってくる。

「ちょっとだけでも食べて今日は寝よう?」

 僕は理子の言葉に頷く。

 レンゲですくって、口の中に入れる。

 熱い。

 ちょっと熱すぎるな。

 僕は熱さで涙目になりながら、一口ひとくちかみしめるようにお粥を口に入れる。

「ありがとう」

 理子は何も言わず、柔らかな笑顔を僕に向けた。

 ほんの少し塩味のきいた、優しさの残る、あたたかい卵粥だった。


「それじゃあお休み」

「お休み」

 僕はお互いにお別れの言葉をかけると、各々自分の柔らかいベッドに潜り込んだ。

 さっき起きた時はあんなに冷たくて不安だった場所が、理子がそばにいるだけでこんなにあたたかくて柔らかい場所になるなんて。

 ベッドボードにつけられた照明を消すと、天井の小さなオレンジ色の光が僕たちを包んだ。

 僕は顔を横に向けて、隣のベッドにいる理子を見た。

 薄暗い部屋の中で、僕を見ていた理子と目が合った。

「今日はありがとう」

 理子は、いいえ、と言った。

 僕は視線を再び天井に向ける。

 小さな照明が僕の目に入る。

 何か遠くにある星のようだ。

 小さくて、でも確かにそこにある光。

「僕は、最近悩んでいたんだ」

 僕は思い切ったような声で切り出した。

「何かは聞かないでほしい。これは僕の問題で、僕が解決しなきゃいけないことなんだ」

 理子は口を挟まなかった。

 隣で僕を見守っているのが、僕にも分かった。

「苦しくて、辛くて、僕自身の事がよく分からなくなっていたんだ」

 僕が今「何」をしているのか。

 僕が今「何」を感じているのか。

 僕が今「何」を……。

「でも、今日、少し分かったような気がしたんだ」

 君の心に触れられたような気がして。

 そう言いかけて、僕は再び理子に顔を向けた。

「理子がいると安心するんだ」

 僕は今度こそ本心を言うことができた。

「ずっとそばにいてほしい」

 薄明りの中で理子は笑顔を僕に見せた気がした。

 理子が頷くのを見て、僕は抗いようのない眠気が襲ってくるのを感じた。

「大丈夫。ずっといるよ」

 理子の柔らかい声が聞こえた。

 僕の意識は糸が切れたように、暗闇の中に落ちていった。


 僕はふと覚醒する。

 何故かは分からない。

 ただ何か物音がしたような気がして、それが僕の意識にわずかに引っかかって、僕を現実の世界に引き戻した。

 暗闇から覚醒しても、そこはまだ暗闇だった。

 天井の小さな照明はいつの間にか消えていた。

 カーテンがまるで風に吹かれたかのように、その端の方がほんの少しだけ開かれていた。

 そこから入ってくるかすかな月明りが部屋の中を照らしている。

 その月明りはあまりに弱く、僕は部屋の中を見るのに、目を凝らさなければならない。

 僕は両手で顔を拭うようにこすると、ベッドボードの上で充電しておいた僕の携帯電話を手に取る。

 時刻は夜中の二時だった。

 変な時間に起きてしまった。

 まだまだ僕の脳は眠りを欲している。

 のどの渇きを覚えた僕は、サイドテーブルに置かれたままだった水を飲もうと起き上がる。

 以前よりは動きが軽い。

 理子に介抱されたおかげだろう。

 ひとくち飲んで、隣を見た僕はあることに気が付いた。

 僕は突然ひどいふらつきを覚える。

 世界がぐるぐると回る。

 僕はこのことを知っている。

 きっと前にも同じ光景を見ている。

 僕はふらついて、ベッドやテーブルに体をぶつけながら部屋を出る。

 隣のベッドはもぬけの殻だった。

 まるで出来の悪い悪夢だ。

 吐き気に苛まれる僕は、洗面所に駆け込む。

 胃が痙攣する。

 洗いざらいを吐き出してしまった。

 僕は洗面器に手をついて鏡を見る。

 そこには僕が映っている。

 白い寝巻に包まれた華奢な体。

 引き絞られたような薄い唇、鷲のように高く尖った鼻、細く切れ長な目元。

 最悪な顔をした青白い男が、うつろな目で僕を見ていた。

 僕は何故こんなにも苦しまなければならないのか。

 彼はそう訴えかけているようだった。

 僕は僕の中のウイの言葉をもう一度思い出す。

「誰が呪いをかけているか分かりますか」

 僕は小さくつぶやく。

 僕の頭は今日一日の出来事を再生し始める。

 現像した写真を会社に持って帰る途中で雨に降られて、ウイに出会って、倒れて、家に送り届けられて。

 ……何かを忘れている気がする。

 僕はいまだにエラーを吐き出し続ける頭を、自分の手の平で叩く。

 衝撃で再び世界が揺らぎ始める。

 それでも僕は叩くのをやめない。

 壊れたテレビみたいだ。

 僕はまるで古いブラウン管で、いつかチャンネルが正しい回線につながるまで、運任せに叩かれ続けるのだ。

 僕はいつまでもその動作を繰り返す。

 誰かがチャンネルを変える。

 その「流れ」は深い森の中に隠れていた。

 僕はそれを手のひらですくい出すと、零れ落ちないようにゆっくりとリビングへと歩いて行った。

 すくい出したこれが何なのかはまだ僕には分からない。

 ただそれは僕にとって、とても大事なものであることは分かっていた。

 指し示す方向を見失わないように辿っていくと、僕はその茶封筒へとたどり着いた。

 僕は震える手で茶封筒を開ける。

 中には何枚もの写真が入っている。

 僕が気を失う前に見ていたもの。

 写真を見返すと、その全てには、あの女性がはっきりと映っていた。

 黒髪の女性の後ろ姿。

 僕は震えて何度も携帯電話を落としながら、電話をかけようとする。

 何とか番号をタップし終えると、電話を耳につける。

 心臓の音がうるさい。

 呼び出し音が聞こえる。

 出ない。

 僕はもう一度かける。

 出ない。

 僕は携帯電話をズボンのポケットに突っ込むと、着の身着のまま靴だけ履いて家を飛び出した。

 ウイが電話に出てくれることはなかった。


 夜は深くなる。

 そこはもう僕の知らない街だった。

 月明りに照らされた街はまるで影絵のようだ。

 長く伸びた影が僕の足元を這っていく。

 僕以外には誰もいない。

 音も聞こえてこない。

 自動車は?

 彼らは皆、静かに佇んでいる。

 沈黙だ。

 誰もが喋る術を失ってしまったように、暗闇の中に沈んだまま、街を一人早足で行くこの僕を見ている。

 僕は寒さを覚える。

 僕は走り出している。

 かじかんだ両手を握りしめて、感覚をなくした両足を動かす。

 気が付くと理子と行ったコンビニに通りかかっていた。

 僕は明かりのついているそのコンビニを横目に見ると、僕以外の人間に初めて出会った。

 まだ若い男性だ。

 その男はレジカウンターの向こうで、無表情に僕を見続けていた。

 底の見えない穴のようだ。

 僕はその男と目が合う。

 彼はなめらかと言ってよいほどにゆっくりと頭を動かし、その両目で僕の姿を追った。

 彼は僕が通り過ぎるその時まで、僕を真正面から見続けた。

 僕は息が上がってくるのを感じる。

 呼吸が激しくなり、視界に白い靄がかかってくる。

 視線を前に戻す。

 空に覆いかぶさる巨影のようなビルたち。

 白い人工的な街灯。

 どこまでも先に伸びていく暗い道。

 僕は止まるわけにはいかない。

 何かの強迫観念にとらわれながら僕は、転びそうになりながらも、あの神社を通り過ぎ、ムラカミフォトを通り過ぎる。

 僕は会社にたどり着く。

 何度も見た景色だ。

 ガラス張りのビル。

 今日この夜も変わらない「顔」で僕を待っている。

 開かない入口で僕は立ち止まった。

 大きなガラスが張られた自動ドアの向こうで、赤い光が明滅している。

 僕がいくらその扉に近づいても、開くことはなかった。

 僕は息を吐く。

 白い息。

 暫くの間、漂った後、中空に消えていく。

 僕はその自動ドアから後ずさり、遠ざかった。

 僕は息を整えると、誰にも見せられないような形相で走り出した。

 僕が今まで生きてきた中で経験したことのないくらいの速さだ。

 突然の伸縮にふくらはぎが悲鳴を上げる。

 これ以上ないくらいに両腕を前後に動かし勢いをつける。

 僕は左右に激しくよろめきながら、そのドアに体ごとぶつかった。

 体に引き裂かれるような痛みが走る。

 肩の骨が砕かれる感触がした。

 生身の体と、硬いガラスがぶつかる小さな鈍い音が夜の街に響き、僕ははじき出され、地面に尻もちをついた。

 僕は痛みに震えながら見上げる。

 ガラス張りの自動ガラスにわずかな亀裂が走っていた。

 僕はドアに近づく。

 呼吸をしているような赤い光の明滅に合わせて、そのドアは僕を映す鏡になった。

 亀裂はちょうど僕の胸の高さにあった。

 僕が見つめていると、それは徐々に広がっていく。

 亀裂が僕の頭からつま先までを貫いた時、自動ドアのガラスは音を立てて割れた。

 大小の破片が僕の足元に散らばった。

 僕は手を傷つけないように、まだドアに残っているガラスを携帯電話で叩き落とす。

 僕が通れるくらいの隙間を作ると、僕はドアを潜り抜けて、会社の中に入った。


 警報は鳴らなかった。

 ただ会社の中に漂う、静まり返った空気だけが耳を打った。

 僕はいつものように受付を通り過ぎ、エレベーター乗り場を横切る。

 階段を降りていく。

 地下一階で立ち止まる。

 暗闇の中で「資料室」と書かれた小さな白い板が浮かび上がっている。

 その扉は古い木製のものだった。

 僕は扉を開ける。

 そこは記録課の資料室だった。

 僕の撮りためた写真が収められている部屋だ。

 僕は入口のすぐ近くにある照明のスイッチをつける。

 パチっという音を立てて、天井に幾つも付けられた白い蛍光灯が明かりをともす。

 そこまで広くない部屋だ。

 一周するのにそんなに時間はかからないだろう。

 僕の身長と同じくらいの高さのある鉄製の棚が、部屋の外周、そして部屋の内側に背中合わせに数列置かれている。

 所どころ錆びて茶色に変色した棚は、部屋の彩度を著しく下げていた。

 僕は導かれるように、狭い通路を奥へと進んでいく。

 棚に歩み寄ると、ファイルを一冊手に取った。

 黒色のファイルだ。

 表紙には何も書かれていない。

 僕は表紙をめくる。

 現れた白紙には、僕の字で日付と場所が簡単に記されていた。

 もう一枚めくる。

 写真が現れた。

 一つのページに六枚、見開きで十二枚の写真がファイリングされている。

 ……これは会社の近くの公園だ。

 見たことのある景色がその小さい写真の中に広がっている。

 誰もいない平日の朝の公園だ。

 鮮やかな緑をたたえた木々、地面に敷き詰められた白い砂利、公園内には遊具はない。

 一番手前側には白いベンチが写っている。

 僕がいつもよく座っていたベンチだ。

 いつも休憩時間にお弁当を食べていたベンチ。

 視界が揺らぐ。

 僕は瞬きをする。

 そのベンチに誰かが座っていた。

 女性だ。

 女性の後ろ姿が写っている。

 僕は次の写真に視線を移動する。

 そこにも彼女がいた。

 公園に植えられた木を撮った写真。

 その木に半ば隠れる形で彼女は佇んでいる。

 次の写真。

 公園の前の道に後姿。

 後姿。後姿。後姿。後姿。

 別のファイルを手に取る。

 後姿。

 瞬き。

 後姿。

 瞬き。

 会社の入口に後姿。

 窓ガラスの向こうに後姿。

 私たちの頭の中が後姿で埋め尽くされる。

 彼女はどこにでもいる。

 別のファイル……。

 僕が視線を上げると、女の顔が目の前にあった。

 僕と棚の間のわずかな隙間に彼女は立っていた。

 僕はすぐに悟った。

 彼女は僕と同じ時間にいない。

 全く違う存在なのだと。

 リコ……。

 僕がそうつぶやくと、どこか遠くを見ている彼女の焦点の合っていない両目は、水っぽい音が聞こえてきそうな「重み」をもってぐるっと回転する。

 そのまま一周すると、元の場所に戻って、僕にしっかりピントが合った。

 彼女の頭が、目に見えない誰かに殴られたかのように揺れる。

 黒い髪が残像のようにさらさらと揺れる。

 そして何事もなかったかのように彼女の頭は元の位置に戻った。

 僕は頬をさする。

 生ぬるい何かが手についた。

 僕は突然視線を感じた。

 刺すような視線だ。

 目の前の彼女とまるで同じ視線を、後ろから右から左から上から。

 下からも感じた僕はまだ手に持っていたファイルに目を落とす。

 並べられた写真。

 そのどれもに映り込んでいた彼女の後ろ姿が、寸分の狂いもなく同じ速さで、同じ動きで僕に振り向こうとし始める。

 ゆっくりと、しかし確実に。

 横顔が見え始める。

 僕を取り囲む全てのファイルの中で。

 彼女は僕を捉えようとしている。

 ふらつき。

 瞬き。

「ユウ」

 誰かが僕を呼んだ。

 僕が声に驚いて横を向くと、そこには理子がいた。

 僕の前にいた女は姿を消していた。

「ど、どうして……」

 彼女は間違いなく理子だ。

 理子はおずおずと言う。

「だって私の携帯にかけてきたから……」

 携帯……。

 僕の言葉は意味のなさない風になって部屋の中に消えた。

「私の携帯電話の番号、どこで知ったの?」

 その瞬間、僕の体が自分の意思に反して動き出した。

「待って」

 理子の言葉は僕には届かなった。

 僕は追いすがる理子を突き飛ばすと、資料室を出た。

 私についてきて。あれは呪いなの。

 ウイの声だ。

 ウイの声がする。

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