リコ
とめどなく、その4です。
これで完結です。
ウイが僕の手を引いていた。
僕たちは階段を駆け上る。
なぜ、と僕はウイには尋ねなかった。
それがとても自然なことのように思えた。
「私についてきて」
ウイは僕に言った。
「私はあなたの事をよく知っている」
僕はただ頷いた。
僕もなぜか彼女のことをよく知っていた。
僕たちが会社の一階に出ると、リコがいた。
僕は一目でそれが彼女だと分かった。
彼女は落下してきた。
にじみ出るインクのように、天井からしみだしてくると、そのまま音を立てて地面に激突した。
彼女は黒かった。
床に飛び散る黒い液体は何か重く粘度の高い油の様相を見せ、僕たちの足元へとゆっくりと流れてくる。
僕たちは手を繋いだままリコを飛び越える。
リコが僕を見る。
地面に激突した体は再び床に沈み吸収され、その間際、床から飛び出した頭が僕を見据えた。
どこかで見た目だ。
届くことのない絶望の目をしている。
僕は何かの引力を感じた。
僕の心とそれは引かれあって、一つになろうとしている。
僕は恐怖を感じている。
しかし、それと同じように悲しみも感じ始める……。
僕たちが走り去って行く後ろで、彼女は消えていった。
僕は安堵して、ウイと夜の街に出る。
街には人が戻っていた。
どこか活気が戻っていた。
車も走っていた。
彼らは僕たちの脇を走り抜けていく。
何台か通り過ぎた後。
車はそのままスピンして、後方で大きな衝突音を響かせた。
僕は驚いて振り返る。
そこには何もいなかった。
黒い影だけがあった。
僕は助けを求めるようにウイに話しかける。
隣を見ると、ウイも黒い影になっていた。
幾重にも重ねられた黒い線がいた。
誰かが書き殴った跡だ。
僕は手を放す。
僕は走り出す。
よく見ると、僕の周りを歩く人たちは、みんな白い服を着た影だった。
みんな同じ頭をした黒い線だ。
会社員、カップル、大学生、老人。
みんなそれぞれの会話をしながら、頭だけは僕を見ていた。
頭だけはリコの形をしていた。
何も分からない。
クエスチョンマーク。
何も理解してはいけない。
エクスクラメーションマーク。
僕の体に這い上がってくる。
通行人の一人が僕に近寄ってくる。
その手を僕に差し出してくる。
クエスチョンマーク。
エクスクラメーションマーク。
足元から這い上がってくるそれが通行人の顔に張り付く。
僕は動くことができない。
何者かに強い力で羽交い絞めにされたように、身動き一つできない。
「やめろ!」
僕は叫んでいた。
僕を縛る何かに抗うように身をよじると、わずかに体が軽くなった。
その隙を逃さずに、僕は目の前の通行人を突き飛ばす。
通行人は体勢を崩して地面に倒れる。
僕は嗚咽を漏らす。
僕は帰りたかった。
僕と理子の暮らすあの部屋に。
集まってくる黒い影にはわき目も振らず、マンションの方を目指して走り出す。
いつの間にか隣にはウイがいる。
僕たちはもう一度手をつなぐ。
あたたかい手だ。
同じ体温をしている。
僕は言った。
「ありがとう」
ウイは言う。
「どういたしまして」
彼女は笑った気がした。
しばらく走ると、僕の住むマンションが見えてきた。
路地を曲がり、エントランスに入る。
オートロックの自動ドアが閉まる。
もう影は追って来なかった。
僕たちはエレベーターに乗る。
1、2、3。
部屋のある階に着く。
その間僕たちは一度も口を開かなかった。
「私から提案があります」
ウイは唐突に切り出した。
「これからあなたは自分の部屋に帰ります」
歩く。歩く。
聞こえるのは歩く僕のかすかな足音だけだ。
「そこであなたは一晩中考えるのです」
何を?
僕はウイに聞く。
「お話を考えるのです」
お話?
「小説ってこと?」
「そうですね」
それがあなたの仕事です。
ウイははっきりと言った。
「僕の仕事は写真を撮ることだよ」
僕がそう言うと、ウイは笑った。
「もうその仕事は終わりました」
今日でその仕事は終わりなのです。
あなたも分かっているでしょう?
分からないよ。
何も分からない。
リコの顔さえ分からないんだ。
そんな僕が何が分かるというんだ。
「いずれ分かります」
ウイは言った。
分からないということは、いつかは分かる日が来るということです。
「それって素敵なことでしょう?」
それはどういう……。
言いかけて、僕は自分がいつの間にか、自分の部屋の玄関に立っていることに気が付いた。
「ちょっと待ってくれ」
ウイが僕を置いて離れようとしていることに気が付く。
玄関のドアを隔てた向こうに彼女の気配がする。
「寂しいよ、一人ではとてもやっていける気がしない」
僕は追いすがる。
「大丈夫です。あなたならできます」
「どこからその自信が出てくるんだ! 無理なものは無理なんだ!」
大丈夫です。
私には分かりますから。
ウイが消えていく。
僕から離れていく。
ウイの顔が見たい。
最後に僕の心を確かめたい。
僕は玄関ののぞき窓を見る。
薄暗いマンションの廊下が見える。
「だって、私たちでしょう?」
のぞき窓の向こうには誰もいなかった。
「私たちなら大丈夫」
僕はそうつぶやくと、不意に首元に、何かチクリとした痛みを覚えた。
視界がぼやける。
誰かが後ろから僕に針を刺したのだ。
意識が落ちていく間際、倒れこむ僕の体を、その男が気だるげな動作で支えた。
僕は、僕の住む、あの白い部屋へと連れていかれる……。
妻がこの世界から消えたとき、僕はベッドの中にいた。
真夜中の出来事だった。
彼女の実家から僕たちの家に帰ってくる途中の出来事だった。
僕はその日、真夜中に目が覚めた。
寝室は薄暗かった。
サイドテーブルの上の小さなスタンドライトの光が、彼女のベッドを照らし出していた。
そのベッドには誰もいなかった。
僕の胸元には開かれた一冊の本があった。
僕は帰りの遅い彼女を待ちきれず、眠ってしまっていた。
僕は携帯電話を見た。
彼女からのメールはなかった。
彼女に電話をかけた。
いくらかけても繋がらなかった。
僕は胸騒ぎと共に、彼女の実家にかけることにした。
長い呼び出し音ののち、彼女の母親が出た。
彼女はずいぶんに前に、彼女の車で実家を出発したと言った。
僕と彼女の両親はすぐに警察に電話した。
彼女が見つかったのは三日後のことだった。
彼女の車が森の中で見つかった。
彼女はすでにこの世界にはいなかった。
頭にひどい傷があった。
事故だった。
警察は山の車道から落下したのだと言った。
他に誰も被害者がいないのは幸運だったと思う。
僕は彼女の顔を思い出せなかった。
身元確認から葬儀に至るまで、何度も彼女の顔を見てきたはずなのに、僕は彼女の顔を思い出せなかった。
彼女の両親の家にしばらくお世話になることになった。
東京から離れる間、僕は休職することにした。
個人事業主のようなものだから、自らの稼ぎが減るだけだった。
それでも何人かにはひどく迷惑をかけた。
規則正しい生活を送った。
朝決まった時間に起きた。
彼女の母親には本当にお世話になった。
彼女の母親への恩は忘れないと思う。
僕が一人で生活できるようになった頃、僕は彼女の家を出た。
東京に戻ると、僕はマンションの一室を借り、一人の生活を始めた。
何人かの友達と月に何回か会った。
何人かの女性とデートもした。
それは何にもならなかった。
孤独を深めるだけだった。
仕事も少しずつ入れていった。
前みたいにはうまくできなかった。
自分が今何をしているのか、よく分からなくなった。
僕の心はあの日の夜にまだあった。
数行書くと、あの日の夜が頭に浮かんでくる。
彼女がこの世界から消えたとき、僕はぬくぬくとベッドで寝ていたのだ。
僕は何をしていたのだ。
僕はそれが僕を苛み始めると、目を瞑ってただやり過ごした。
麻痺して何も感じなくなるまで。
痛みが胸の奥に帰っていくまで。
何もかもが透明になるまで。
そうして僕は忘れた。
彼女のことを、僕のことを。
この世界に宇宙人はいるだろうか。
私がこのような疑念に取り憑かれたのは、実に一年前のある日だった。
私はその日、いつものように自宅の書斎で静々と、長らく温めていた構想を書き起こしていた。
ふと窓の外を黒い何かが通り過ぎていった気がして、俯いていた顔を上げて、何気なく窓の方を見やった。
そこにはグレイがいた。
大きな黒い両目と僕の目が合う。
「村上さんは本当に宇宙人はいると思いますか」
その瞳の大きな女性は、僕の目を見て質問をした。
「村上さん、久しぶりの新作では宇宙人が何人か出てきますが、村上さん自身はどう思っていますか?」
僕は自嘲気味に笑う。
「もし僕がいる、と答えたらあなたは笑いますか?」
「どうでしょうか。私は多分笑わないと思います」
女性は言葉を選ぶように、間を少し開けながら答える。
「私も信じていますからね、宇宙人」
いたら素敵だなって。
彼女は言って、僕に微笑んだ。
「そうですね」
僕もおおむね同意だった。
「僕はね、人はみんな宙の探索者だと思っているんです」
そう言って、僕は手に持っていた本を、ぱたんと閉じた。
「このお話は、僕がまだ編集者だった頃からずっと考えていた話なんです」
僕は続ける。
「彼女を見つけたあの時から」
私たちは惑星だ。
はるか遠くの宙に浮かぶ。
思いを伝えることは不可能に近い。
それは断絶された死に似ている。
しかし、死ではない。
嘘ではない。
しかし、本当でもない。
それは不確定だ。
私たちが望む限り、とめどなく進み続ける光のような。
いつの日か届く私たちの希望なのだ。
――村上優著 『灰色の星』より一部抜粋
妻と初めて出会った日の夢を見た。
彼女と食べた昼食のことを。
僕が目を開けると、理子がこちらを見ていた。
彼女はひどく妻に似ていた。
彼女は僕にハンカチを差し出した。
「大丈夫ですか?」
白衣が衣擦れを起こす音が聞こえる。
彼女は突然涙を流した僕を覗き込んだ。
彼女は困ったように眉を下げた笑顔を見せる。
柔らかい笑顔だ。
白い部屋は春の光に包まれている。
開け放たれた窓からは、陽の光がこの部屋に流れ込んできていた。
カーテンがひらひらと揺れ、その隙間から小さな空が垣間見えた。
どこからか音楽が聞こえる。
クラシック音楽だ。
部屋には低く音楽がかかっている。
踊るような、飛び跳ねるようなリズム。
僕はこの曲の名前を知らない。
「辛かったら、やめてもいいですよ。思い出すのは辛いですよね」
そうして理子は、僕の前のテーブルにコーヒーを置いた。
コーヒーの白い湯気が中空に消えていく。
甘いミルクの匂いがほのかに香ってくる。
温かなカフェラテ。
僕はその香りを鼻腔いっぱいに吸い込むと、大丈夫です、と答えた。
「理子先生がずっとそばにいてくれるおかげです」
僕が言うと、理子は、そうですか、と言った。
「高嶋先生にも言ってあげてくださいね」
彼女たちが根気強く僕のカウンセリングを続けてくれるおかげで、僕は少しづつ回復しているようだった。
「まるで出来の悪い悪夢のようでした」
僕は目をつぶる。
そこにはもう一人の僕たちがいて、理子がいて、高嶋課長がいた。
何もかもから逃げ出した僕が見た夢。
都合の良い夢。
妻を思い出したくない僕が見た夢だった。
「彼女の顔は思い出せましたか?」
理子先生が僕に写真を手渡す。
そこには僕と妻と思しき女性がいた。
「何となくは」
僕は笑って理子先生に言う。
「正直に言うと、僕の妻の顔は、今も全て理子先生の顔に置き換わって見えています」
でも、大丈夫です。
僕は言った。
「妻が遠くから僕を呼んでいますから」
僕は傷のついた結婚指輪を指でなぞった。
僕のつま先が傷に引っかかる。
そのたびに、僕はこの日常に引っかかりを覚える。
まるで荒れ狂う川のように、どこまでも流れていくこの世界に掴まる為の、僕の些細な行為。
妻がくれたこの思い出を手放さないように。
僕は今日もこの入院病棟で、復帰のための一歩を歩み続ける。
季節は移り替わり、この病棟に入ってから半年が経とうとしていた。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
これでユウの話はお終いです。
幸せになっていると良いですね。
また何かのお話で出会たときは、その時はどうぞよろしくお願いします。




