ウイ
とめどなく、その2です。
全三部完結の予定でしたが、長くなりそうなので全四部になります。
まだ理子はそう遠くに行っていないはずだ。
僕は急足でマンションのロビーを出る。
駅の方向、おそらく右手の道を行ったに違いない。
僕は道に出ると、今度は慎重に歩を進める。
周りを見回して理子の姿がないかを確認する。
僕には分からなかった。
僕の中の彼女が、拒むのを想像できなかったのだ。
何か理由があるはずだ。
僕は確かめたい。理子の本当の気持ちを。
後ろめたいことをしているのは分かっている。
でも、もう自分を止めることはできなかった。
僕はコンビニエンスストアに入っていく理子を見つけると、建物の影に身を隠した。
ポケットの中の指輪を触って気を落ち着かせる。
大丈夫だ。
僕は正常だ。
春の陽気に少し汗ばみ始めた頃、彼女が店から出てきた。
思いのほか早い足取りで街の中心部へと向かっていく。
僕に気がついている様子はなさそうだ。
外の日差しで見る彼女はいつもより綺麗に見えた。
彼女の黒髪が歩きに合わせて流れるように揺れる。
こんなに綺麗だっただろうか。
僕は再び黒い感情が湧き上がってくるのを感じたけれど、まだ分からないと、何とか飲み込んだ。
誰かと会っているのではないだろうか……。
頭の中が疑念で満たされていくのが分かる。
ふと彼女が道を曲がった。
横顔をほんの少しだけ僕に見せて、彼女は路地に消えた。
僕も早足で路地を曲がると、彼女が大きな書店に入っていくのが見えた。
僕も少し間隔を空けて入店する。
書店独特のあの匂い。
そしておびただしい量の本が僕に顔を向けた。
見知らない漫画のキャラクターや、地上波の番組で見かけたことがあるけれどよく知らない俳優、今年の賞を受賞した芸人。
そのどれもが僕に向かって何かを訴えかけてくる。
彼らと目が合う前に僕は顔を背け、理子の姿を探し求めた。
彼女は存外すぐに見つかった。
書店おすすめの、話題の新刊コーナーを抜けた先、大判の雑誌がまとめて置かれているコーナーに理子は立っていた。
大きな書店らしい開放的なレイアウトは、僕の隠れ場所を見事に消し去ってくれていた。
僕は踵を返し、別の通路に入る。
理子は何かの雑誌を手に取る。
別の通路から見ているおかげで、彼女が何を見ているのか、その表情もよく見えない。
視線を上げると、その棚には「趣味」という文字が上の方に書かれているのが見えた。
趣味……。
僕は心の中で独り言を言う。
理子の趣味って何だろう。
しばらく長い間、理子はその雑誌を熱心に見つめていたが、やがて棚に戻し、書店の奥へ向かっていった。
気配を消して僕も理子の後をついていく。
理子がいた場所を通る時、横目でその付近を見る。
家庭菜園、スポーツ、オーディオ、車、カメラ……。
およそ僕たちが一つくらいは興味を持ちそうな雑多な趣味に関する本が、カテゴリーごとに置かれていた。
最近はカメラを扱う身として、その「カメラライフ」という雑誌のページを少しめくりたくなったが、僕はそのまま早足で通り過ぎた。
次に彼女を見かけたのは、レジの前だった。
彼女は小さな文庫本を鞄に収めると、書店を出ていく。
文庫本の表紙は、既に茶色の紙のカバーを店員によってかけられていて、書店の名前しか読み取ることはできなかった。
街は駅前に向かうにつれ、少しづつ賑わいを取り戻していく。
街は休日らしく、多様な人で溢れていた。
僕と彼女を取り巻く通行人が一人ひとりと増え、雑踏に紛れる僕はどこか居心地の悪さを覚えた。
彼らは四方から僕に話しかけてくる。
僕がどれだけそれらを見ないようにシャットアウトしようとしても、隙間なく配置された広告たちは、僕に何かを伝えてこようとする。
そんな僕を突き刺す声を忘れるため、僕は彼女の姿から目を離さないように、常に意識を尖らせる。
僕の注意は理子にのみ向けられていく。
誰かにぶつかりそうになって、すんでのところで身をかわす。
いや、向こうがよけてくれたのかもしれない。
もしかしたらぶつかったのを僕が気が付いていないだけなのかもしれない。
僕の姿は周りからどう見えているだろうか。
こんなことを考えられている時点で、少しばかりは余裕があるのだろうか。
ふらふらとした足取りのどこが正常だと言うのだろうか。
自分が一番よくわかっているはずだ……。
何かふわふわとした浮遊感が僕を包み始めた頃、
「もしもし」
と言う微かな声が聞こえた気がした。
僕は突然、僕よりもはるかに正常な人間に詰問されたような気持ちになって、立ち止まって、そして反射的に後ろを振り向いた。
そこには若い男がいるだけだった。
彼は僕と目を決して合わせないようにして、気まずそうな様子で僕を追い抜いていく。
声は後方ではなく前方から聞こえていたのだ。
前を歩く理子がいつの間にか、路傍に立ち止まって誰かと電話している。
何を話しているかは分からない。
ただ理子のその表情からは、電話の話し相手とはある程度親密な関係であることは僕にも読み取れた。
暫くの間、真顔で話していた彼女は、電話を切る間際、ふっと笑ったのだ。
相手は誰だ?
僕は、僕の胸がざわつくのを感じた。
理子は通話を終えると、再びどこかに向かって歩き始めた。
気がつくと、僕たちは勤める会社の近くを歩いていることに気がついた。
駅から遠ざかっていく彼女に疑問を抱きながら、付かず離れずの位置を維持して歩く。
今日は隣町に行くと言っていたはずなのに……。
彼女は次第に僕の見知った道を選び続け、見慣れたあの場所へ僕を導いた。
ふとオフィス街に現れる神社。
ただでさえビルで小さく切り取られた空は、神社の境内の大木で完全に遮られる。
理子が道を曲がる。
そこで僕は理子を見失ってしまった。
道の右手にある神社の入り口から境内に入る。
しかしどこを見ても理子の姿は見つからなかった。
後をつけているのがばれたのか?
僕は思案を巡らせたが、答えは一向に出てこなかった。
ぐるぐると回る視界に僕は足がもつれて、近くのベンチで休むことにするのだった。
僕は理子を見失ってしまった。
その小さな神社の隅々まで見ても、彼女の姿は見当たらなかったのだ。
僕は探すのを諦めて、今日はもう帰ることにした。
どこかに寄ろうかという気持ちは起きなかった。
ひどい疲れを覚えていた。
湧き上がった黒い感情が急速に成長したのとまた同様に、僕の中から引いていくのも早かった。
そもそもが僕の思い違いの可能性がある。
むしろほぼそうだろう。
勘違いだったのだ。
彼女との生活を思い返してみても、そんな素振りはなかったように思えてくる。
僕は足取り遅く神社を出る。
まだ昼の二時だ。
休日のオフィス街は閑散としている。
路地を曲がるとまれに数人とすれ違う。
彼ら私服という出立ちだ。
彼らも特段急いでいる様子もなく、何かを話し合いながら僕の後方に消えていく。
彼らから見れば、僕もその他大勢の一部というところだろう。
休日にまで働きに来たい変わった人間は少ないのだろう。
高いビルに囲まれた道は思いのほか明るい。
少し広めの幅で作られているというのもあるが、ガラス張りのビルが日の光を跳ね返しているように思う。
規則的に並ぶガラス窓の先、色合いの似た空が見える。
その曇りがちの灰色の空は、いくつも上を目指して立ち並んでいるビルの一部といった様子で、僕にまるで空が消え失せてしまったかのような錯覚を引き起こした。
僕はそんな妄想を気取られないように、何でもないような顔をして、オフィス街を自宅のある方向に向かって歩いていく。
その喫茶店の前で足を止めたのは、全くの偶然だった。
普段なら気にも留めない喫茶店だ。
日常の風景に溶け込んでしまって存在を認識できないような、そういう類の喫茶店だ。
名前が書いているが、フランス語だろうか。
僕にはうまく読めない。
立てかけられたホワイトボードには、おそらく店員の直筆で、本日のおすすめメニューが書かれていた。
落ち着いた茶色の外壁に、控えめにその店名が書かれた小さな看板がかかっている・・・。
僕の視線は下から上へと向かい、そして再び、足元に落ちているその一冊の本に戻ってくる。
喫茶店の前にフランス語のタイトルの本が落ちていた。
僕は周りを見回したが、誰もこのことを気にも留めていない様子だ。
空っぽになっていた僕の心に少しばかりの良心が満ちてくる。
そうして僕はその本を手に取って、喫茶店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
カウンターにいた大学生風の若い女性が明るい声を僕にかけた。
店の雰囲気に良く合った、明るさの中に落ち着きのある静かな声だった。
「えっと、二つ用事があるんだけど」
僕はニコニコとする彼女に話しかけると、
「一つはコーヒーを注文したいのと、これが店の前に落ちていて」
そう言って、その本を渡す。
「これが店の前に? ありがとうございます」
彼女は頭を少し下げて、僕に感謝を述べる。
後頭部で高めに結ばれた黒髪が彼女の動きに合わせて大きく揺れる。
彼女が顔を上げると、顔に少しかかった髪の間から上目遣いの瞳が見えた。
店のエプロンに包まれた彼女は、僕よりも幾分身長が低いらしい。
「落とし主の元にかえれば良いね」
僕が言うと、彼女はそうですねと言う。
そしてレジスターから小さなメモ用紙を取り出して、何かを書きつけると、
「多分すぐ近くにいると思います」
両目を細めて微笑んだ。
「どうして分かるの?」
僕のふとした疑問に彼女は当たり前のように答える。
「ここにくる人はこういうものを読む人ばかりですから」
僕は何となく店内を見て、そういうものか、と何となく納得する。
店内にいる「客たち」は皆テーブルに向かい、本かパソコンを開いている。
本の虫かパソコンの虫といったところだ。
まさか休日はこういうところで仕事をしているのでは。
背筋が寒くなるような想像をしたところで我に帰った僕は、
「そうだ、コーヒーを注文して良いかな」
そう言って、カウンターにあるメニューを指差す。
「ブレンドコーヒーをホットで一つ」
彼女は静かな声でかしこまりましたと言うと、白い番号札を僕に渡した。
「出来上がりましたら席にお持ちます」
僕はありがとうと言って、店内の奥へと足を運んだ。
空いていた窓際の席に座る。
窓ガラス越しに見る街は、どこか違う世界のように見える。
窓枠で切り取られた小さな長方形の世界に、人間が出入りしている。
人工的に作り出された箱庭のようだ。
この場合作者はこの喫茶店ということになるだろうか。
窓の外を歩く彼らは、僕に見られていることに気がつくことなく、ほんのわずかな間この世界に現れ、そして消えていく。
僕は不躾な視線を臆することなく彼らに送り続ける。
たまに登場人物と目が合うが、それもほんの一瞬で彼らは再び自分の世界へ帰っていく。
僕は観劇者にでもなったようなつもりでしばし窓の外を観察していると、僕の後ろで微かな音がした。
「お待たせしました。ご注文のホットコーヒーです」
振り向くと先の店員が小さな木のトレーにコーヒーカップを乗せて立っていた。
そしてその隣には見知らぬ女性が立っていた。
僕ははじめその女性のことを、店員の姉妹かと思った。
二人はとても良く似ていた。
顔立ちはさることながら、二人とも落ち着いた静かな雰囲気をその身にまとわせていた。
「これ、私が奢ります」
とその女性は言った。
彼女の名前は「ウイ」と言った。
「本を拾ってくれてありがとうございます」
彼女は僕に何度も頭を下げる。
そのたびに僕の目の前で黒髪がサラサラと揺れた。
僕たちは店員の勧めで近くのボックス席に移っていた。
「いや、そんな。偶然拾っただけですから」
僕は本心からそう言うが、彼女に取っては相当大事なものだったらしく、彼女は変わらず興奮気味な口調で続ける。
「何でも奢ります。好きなものを頼んでください」
語尾にエクスクラメーションマークが付いているような勢いである。
「僕、実は少食で」
何だか話の腰を折るようで申し訳なさを感じながら言ったが、
「ならコーヒーを飲んでください。次はウインナーコーヒーでもどうですか」
それは杞憂だったとすぐ気がつくことになった。
彼女の振る舞いは、僕の彼女に感じた落ち着いた第一印象とは少し離れていた。
長い黒髪に、まるでカフェオレを思い起こさせるような薄い茶色のニットのチェニック、黒いキャスケット。
華奢な首元の上には、細くシャープな口元、高く筋の通った鼻、涼しげな目元が続く。
彼女の表情はひどく豊かだった。
僕の一つ一つの言葉に合わせて、対応する表情筋という感情が一つひとつ動いているようだ。
「それじゃあ、これが飲み終わったら頼みます」
「ぜひそうしてください」
彼女は僕が折れたことに安堵したのか、にこりと笑うと片手を上げて「店員さん」と言った。
程なくして、先の店員が席にやってくる。
「すみません、コーヒーの予約ってできますか?」
少しの沈黙の後、店員は微笑んで、
「ええ、できますよ」
そう言ってメモ用紙をエプロンのポケットから取り出した。
「予約ですか?」
僕が聞くと彼女は言った。
「はい、絶対飲んでくださいね」
お、押しが強い。
「まあ、あなたがお腹いっぱいだったら、私が飲みます」
コーヒーだったらいくらでも飲めますので、彼女はそう僕に言って、ウインナーコーヒーの予約を取り付けるのだった。
僕は朝の望み通り、お腹いっぱいコーヒーを飲めることになりそうだ。
そしてその事実は、僕か彼女が飲み終わるまでしばらくの間、このボックス席に一緒についているということを意味していた。
「あとこれとこれも」
彼女はメニュー表を指さして、サンドイッチとフレンチトーストを注文する。
「そ、そんなに頼むんですか?」
「お金なら気にしないでくださいよ」
彼女は僕を安心させるためかそんなことを言う。
「私、こんなでも一端の小説家ですので」
印税がたんまり入ってきます。
そう言ってメニュー表をパタンと閉じた。
それから僕らはしばらく取り止めのない話をした。
彼女は自分の名前を「ウイ」と言った。
漢字までは分からなかった。
僕も彼女に自分の名前を教えた。
ウイは僕の名前を、良い名前ですね、と言った。
僕も特別ウイに聞かれなかったので、漢字までは言わなかった。
僕の質問は自然と先のウイの発言に集中する。
「小説家なんですか? 初めて……小説家の方を見ました」
僕のごく一般的な質問にウイは笑って言った。
「本当ですか? 意外ととても身近にいるものですよ」
「そんなものですか」
とてもそうとは思えないが……。
「現にここにいるじゃないですか」
と、僕の目を見て彼女は言った。
「それはそうですが……」
「あなたが気がついていないだけなんです」
僕には見た目で判断なんてできそうになさそうだけれど……。
にこにことしている彼女から何とはなしに目を離す。
僕の視線は机の上に置かれた本に移っていく。
「あなたたちはいつもこういう本を読んでいるんですか?」
相変わらずどんなタイトルかは分からない。
もう少し勉強を頑張ってくればよかったかのかもしれない。
「それはもうそうです」
ウイはため息をつく。
「もう読みたくなくなるくらい読んでいます」
彼女はその小さな文庫本を手に取って、パラパラとページをめくる。
「この本なんて最悪です。読んでてちょっと辛いです」
えへへという擬音語が頭の上のあたりに出てきそうな笑顔で彼女は言う。
「どんな本なんですか?」
「こわい本です」
「こわい本」
それはどういう意味ですか? そう僕が聞くと、彼女は笑った。
「ホラー小説です。私、ホラー作家なんですよ」
「そうは見えないですね」
僕は正直に言った。
終始明るい調子の彼女が、呪いだの都市伝説だのの、ドロドロとした話を書いているのをうまく想像できなかった。
「どちらかというと恋愛ものを書いていそうです」
「店員さん、この方にコーヒーをもう一杯」
などと唐突に言い始めた彼女に困惑する僕は、手を伸ばして彼女を制止する。
「すみません、私嬉しくて。恋愛ものを書いていそうなんて初めて言われましたので」
昼過ぎの穏やかな、窓から入ってくる光が、彼女の目の輝きを捉えている。
繊細な濃淡が彼女の目の中をたゆたい、散りばめられた微細な光が、表情に困っている僕の方を見ていた。
「この際だから言いますけど、私ずぼらなんですよ」
机の上も部屋の中も散乱しています、と彼女は付け加える。
「実はこの服も一張羅なんです。出かける時は大体この服です」
少し自慢げに言うが、それはどうなんだろう。
少しばかりの疑問を頭に浮かべながら、僕も実のところかなりのずぼらであることを思い出す。
僕だっていつも簡素なシャツとチノパンばっかり着ている。
ちなみに今日は白シャツだ。
バリエーションのなさに我ながら閉口する。
そんな僕に比べると、彼女の今日の装いはかなりしっくりきているように思えた。
まるで彼女のために作られた服のように思えた。
「でも似合っていますね」
「そうですか?」
彼女は毛先をくるくると人差し指で弄ぶと、ちらりと自分自身の服装を見た。
自分はこういうことには疎いので、ネットで調べたのを買ったんです。
そう言って僕を見た。
「僕も同じです。人頼りですよ」
服装にはその人の人となりが現れるというけれど、彼女は違うのかもしれない。
ホラー小説なんて書かなそうな見た目だし、ずぼらにも見えない。
僕はもちろん見た目通りだ。
「何だか私たち似ているところがありそうですね」
ウイは、ふふ、と声に出して笑う。
「ユウさんは普段本とか読まないんですか?」
「本ですか?」
僕はここ最近の日常を振り返る。
本を読んだという記憶は少しも見つけることは出来なかった。
「最近は全然読んでいないですね」
「そうなんですか? もったいないですよ」
彼女は笑顔で言う。
「私が何かおすすめしましょうか? ホラー以外も実は結構知っているんですよ」
僕はふと彼女が落としたそのフランス語の本が気になった。
「じゃあその本とか?」
ウイは少し驚いた表情で一瞬本を見た。
「これですか?」
「そうですね」
「気が滅入りますよ?」
「簡単なあらすじを」
ウイは語り出した。
それは森の中のシーンから始まる。
どこまでも広がる鬱蒼とした森の中で……。
気がつくと、窓の外は雨模様だった。
さらにフィルターが追加されたような窓の中の世界は、線が何重にも重なっているかのようにぼやけて見えた。
「雨、降っちゃいましたね」
コーヒーを飲み尽くし、軽食を食べ尽くした僕たちは、空を見上げながら呟いた。
「傘持っていますか?」
持っていないです……。
朝、鼻歌でも歌いながら洗濯物を干した僕が持ってきていることなんてこと、そうそうあり得ないのだ。
じゃあ濡れて帰るしかないですね。
彼女はそう言うと、持っていた小さな鞄を頭に乗せた。
「いやいや、そこら辺のコンビニで傘を買って……」
僕が言いかけたところで、彼女の笑い声が僕の言葉を遮った。
「何だか学生の頃を思い出します」
ウイはその言葉と共に、軒下で途方に暮れていた僕を置いて、外に出て行った。
空から降り注ぐ雨が彼女の体にぶつかっては、さらに小さな粒になって、中空に消えていく。
「これ今日の会計です」
彼女は先ほどカウンターで会計した時にもらったレシートを僕に渡してきた。
「何だかお世話になっちゃったなあ。このままで良いのかな、なんて考えても良いですよ」
僕はレシートに目を通す。
確かにそこそこの金額だ。
「確かにちょっと飲み食いし過ぎてしまったかもしれない……」
僕がそう言って、顔を上げると、そこにはもうウイの姿はなかった。
理子といい、ウイといい今日はすぐに人が消える。
僕の言葉は降りしきる雨の中に音もなく消えてしまった。
仕方ない。
僕は僕で、コンビニで傘を買って帰ろう。
ウイみたいに無理はしない。
しかし、ウイは終始テンションの高い人物だったな……。
僕はレシートを道端に捨てる訳にもいかず、ひとまずズボンのポケットに入れておこうとして、そのレシートの端が少し黒くなっているのに気がついた。
レシートの裏を見ると、そこには携帯電話の番号が書かれていた。
僕が夕食を済ませた頃、玄関で鍵が開く音が聞こえた。
理子が帰ってきた。
靴を脱いで、部屋に入ってきた。
「おかえり」
彼女は少し疲れたような表情である。
僕の方はというと、朝干した洗濯物が奇跡的にもまるで濡れていなかったことに安堵して、いそいそと丁寧に畳んで、寝室の白いクローゼットにしまっているところだった。
「ただいま、今日はごめんね」
「全然大丈夫だよ」
僕は洗濯物を見つめたまま答えた。
「そんなことより雨は大丈夫だった? そこそこ激しく降っただろう?」
「雨?」
理子は首を傾げた。
「今日雨降ったの?」
「そっちでは降らなかったのかい?」
「うん、全然降らなかったよ」
隣町では降らなかったのかな。
洗濯物をしまい終えた僕は、立ち上がって理子を見た。
光の加減か、理子はどこか僕の知っている理子とは別の人のように見えた。
「それなら良かったよ」
僕も詳しくは雨について説明するつもりはなかった。
「とりあえずリビングに行かない?」
二人連れたってリビングへ向かう。
リビングでは、僕がつけっぱなしにしていたテレビが今日のニュースを、誰もいない部屋に報告し続けていた。
「今日出かけられたおかげで、用事がだいぶ消化できたよ」
理子は笑って言う。
「そっか」
今日は本屋に行って、誰かと話して、それからどこに行っていたの……?
なんて僕は決して口にすることはできなかった。
僕以外の人と会っている証拠なんて全くなかったし、なんなら僕も責められる立場かもしれない。
僕が勝手に疑っているだけだ。
他に何を話そうか考えていると、理子はふとあくびをした。
「今日はなんか疲れちゃった。明日も早いし、とりあえずシャワー浴びてくるね」
「その方が良いよ。僕も少し疲れた」
理子は僕の言葉に頷いて、浴室へと消えていった。
僕は彼女を見送ると、椅子に腰掛けて薬を飲み、何とはなくテレビを見ていた。
やがて無防備な僕を眠気が襲い始めた。
何か音が聞こえた。
目蓋を開けると、そこで初めてキッチンのカウンターの所に、理子が携帯電話を置いていっていることに気がついた。
やめた方が良いのに。
もう一人の僕が、頭の中で囁く。
僕は椅子から立ち上がると、その振動音の発信源に近づいた。
「高嶋三郎」
携帯電話の液晶画面にはその二文字が浮かんでいた。
僕がその名前について知っていることは、同姓同名の人が身近にいるということだった。
今の唯一の僕の上司。
記録課の課長その人だった。
僕は突然激しい吐き気を覚える。
胃の奥から熱いものが込み上げてくる。
大粒の冷や汗が床に落ちる音を聞きながら、僕は必死に洗面所へ向かう。
洗面器に顔を突っ込んで、洗いざらいを吐こうとしたが、何も出てこなかった。
ほんの少しの白い液体だけが、排水口に流れていった。
吐き足りない。
いくら吐いても、まだ何かが体の中にいる。
黒い何かがまだいる。
僕は顔を上げ、静かに洗面所の鏡を見た。
そこには青白い顔をした男がいた。
頬が少しやつれた、半年間、吐き気と闘っている痩せた哀れな男がいた。
僕は理子に知られないようにそっと洗面所を出ると、リビングに戻り目を瞑った。
そして深い眠りが僕に訪れた。
僕と理子との輝かしい生活は半年前に始まる。
僕の異動が決まったのもそう言えば、ちょうどその頃だった。
眠りに落ちる前、僕はそんな夢を見る。
理子の柔らかな笑顔とコーヒーの香り。
カメラ、写真、意味のない仕事。
写真、写真、写真。
誰かが音もなくテレビのチャンネルを変える。
部屋はひどく暗い。
ブラウン管のテレビからの光だけが、この部屋のわずかな光源だ。
私たちはその誰かの後方からこの部屋を見下ろしている。
誰かはひとり椅子に座っている。
私たちはその誰かが、どのような人間であるかを推し量ることはできない。
わずかな光はすぐに闇に飲み込まれてしまって、男であるか女であるか、それすらも私たちの目は読み取ることができない。
テレビからは低く何かの音楽と、息遣いが聞こえてくる。
辛うじて聞き取れるかどうかの音量だ。
もしかしたら幻聴だったのではないかと訝しむ者も、私たちの中にはでてくるのではないか、そう思えるほどのささやかな息遣いだ。
しかし、私たちは一度その存在に気がつくと、それは耳について離れない。
その息遣いが何かと気になり始める。
微かに明滅するテレビの光に導かれ、私たちの視点はその画面にフォーカスしていく。
横線のノイズの入る暗い画面が映し出されると、私たちの視界はやがてその「景色」に埋め尽くされる。
意味をなさなかったノイズが少しずつ像を結び始め、いつの間にか私たちは暗い森の中にいることに気がつく。
どこまでも広がる鬱蒼とした暗い森の中だ。
ここがどこであるか、私たちは一切の疑問も挟まない。
私たちが今生きていることに何の疑問も抱かないように、私たちが今森の中にいることもごく自然のことなのだ。
私たちは荒い息遣いをしている。
暗い森の中を走っている。
木々の根や小石に何度も足を取られそうになりながらも、私たちは決して足を止めることはない。
止まったら追いつかれることを知っているのだ。
私たちは走り続ける。
どこからか音楽が聞こえてくる。
あの部屋で低く流れていた音楽だ。
私たちはふと気がつく。
これはバックグラウンドミュージックだ。
どこかで誰かが私たちだけのために、荘厳なこの音楽を奏でている。
誰かの視線を感じたるが、しかし私たちはすぐにそのことを忘れてしまう。
ここでは全てが隣り合わせなのだ。
覚えていることと忘れていることは、ほんのわずかな差でしかない。
その証拠に私たちの脳内は既に、ある一つの考えに囚われ、それ以外のことは全て忘れてしまっている。
私たちの足はより一層早く、森の出口を求め動き続ける。
心臓がもうこれ以上高鳴ることはできないくらいに拍動し、そのまま口の中から飛び出してきそうなほどに、私たちの胸の中で暴れ続ける。
このままでは追いつかれてしまう。
何かから必死に逃げる私たちはもつれる足で、この悪夢から逃れようと足掻いている。
どこまでもいっても終わらない夢。
別の息遣いがすぐに後ろでした気がして、私たちは後ろを振り返る。
そこには何もいない。
あの部屋と同じように闇が広がっている。
名状しがたい恐怖に呼吸が乱れる。
息が続かない。
少しづつ視界が狭まっていく。
私たちの近くに闇が迫ってくる。
私たちは何に追われている?
ふと沸いた疑問は、すぐに闇の中に消えていった。
この世界では全てが隣り合わせだ。
その何かも、もう私たちのそばにいるかもしれない。
その考えすら、夢の混沌へと飲み込まれ、目が覚めるその時まで、私たちはただ走り続ける。
何故私たちはここに来たのだろう?
まただ。意味のない疑問だ。
誰かは言った。
記録しておかなれば。
記録?
何十もの線で書き殴られた真っ黒なクエスチョンマークが、無数に私たちの周りからやってきて、這い上がってくるように体に張り付いてくる。




