23 知らない世界
孤児院を後にした二人は、そのまま穏やかな空気が流れる王都の街を並んで歩いていた。
昼下がりの柔らかな陽射しはどこまでも暖かく、白く磨かれた石畳には、行き交う人々の長い影がゆったりと伸びている。
近くの市場からは威勢のいい商人たちの活気ある声が飛び交い、風に乗って、どこかのベーカリーから香ばしい焼きたてのパンの甘い香りがふんわりと流れてきた。
「すごいねぇ……本当に、お祭りの日でもないのにこんなに賑やかなんだ」
リリアは小鳥のようにきょろきょろと辺りを見回した。
見るもの、耳にするもの、そのすべてが珍しくて仕方がなかった。どこを向いても人々の顔には活気と、今日を生きる安心感がある。誰も、明日を疑うような怯えた顔をしていない。
それだけのことが、地獄のようなスラムで育ったリリアにとっては、なんだかひどく奇妙で、不思議な気持ちにさせられた。
「おいおい、お前、ほんとに楽しそうに歩くな」
「だって、本当に楽しいんだもん」
迷いのない即答だった。
ゲルハルトはあまりの潔さに思わず「ぶっ」と吹き出し、それから楽しそうに目を細めた。
「そうかよ。連れてきた甲斐があったな」
その時だった。
ふと視界の端に入った、大通り沿いのとある建築物に、リリアの足がぴたりと止まった。
「……あれ?」
リリアの視線の先。
そこは、一際目を引く広大な敷地に建てられた、堂々たる立派な建物だった。
気品ある白い石壁に、陽光を美しく反射する大きなガラス窓。周囲には手入れの行き届いた色鮮やかな花壇が配置されている。エントランスの入口には季節の美しい花々が豪奢に飾られ、そこを出入りする人々も、どこか身なりが良く品格がある。
まるで、どこかの一流貴族の別邸か、高級な劇場のような佇まいだった。
リリアはぽかんと口を開けてその建物を見上げ、そして、門柱に掲げられた美しい意匠の看板の文字を見た。
「……しょう、かん?」
思わず、困惑のまま声に出していた。そういえば、気がつけばこの世界の文字がすんなり読めている。なんでだろうとぼんやり思いながらも、何度も看板の文字を見る……
ゲルハルトは特に驚いた様子もなく、「読めるんだな」とだけ短く呟いた。召喚された者には文字の理解が付与されると、彼は知っていた。
「……え? うそ……」
頭の中の理解が、目の前の現実の光景に全く追いつかない。
「ん?」
ゲルハルトが歩調を緩め、怪訝そうに振り返った。
「どうした、何突っ立ってんだ」
リリアは言葉を失ったまま、無言でその白い美しい建物を指差した。
「……これ」
「ああ、それか」
「本当に……娼館なの?」
「ああ。王都でも一、二を争う高級な店だな」
あまりにも当然のような、あっさりとした返答だった。
リリアはしばらくの間、彫刻のようにその場で固まってしまった。
「……嘘でしょ。そんなわけないよ……」
思わずこぼれ落ちた呆然とした呟きに、ゲルハルトが片方の太い眉を上げた。
「何が嘘なんだよ」
「だって……」
リリアはもう一度、その眩いほどの建物を見上げた。
綺麗だ。綺麗すぎる。自分の知っている、あのスラムのドブ底にあった娼館とは、何から何まで、根底から何もかもが違う。
酷い安酒の臭いも、薬物に狂った男たちの怒鳴り声も、女性を殴り飛ばす音も、何一つ聞こえていない。壁はひび割れることなく白く輝き、入口には仕立ての良い制服を着た本物の警備員まで毅然と立っている。
まるで、全く別の異世界を見ているようだった。
「私の……私の知ってる娼館と、全然、違う……」
ぽつりと、胸を締め付けられるような声で呟く。
ゲルハルトは、その言葉を聞いて少しだけ黙り込んだ。
「……そうか」
それ以上は、何も訊かなかった。
訊かなくても、痛いほどによく分かる。スラムという名の地獄で、汚泥を這いずり回って生きてきた人間なら、リリアのその一言にどれほど凄惨な記憶が背景にあるか、それだけで十分すぎるほど伝わったからだ。
リリアは衝撃のあまり、建物から目を離すことができない。
ちょうどその時、エントランスの重厚な装飾扉が静かに開いた。
中から、一人の若い女性がしなやかに姿を現した。
丁寧に手入れされた、艶やかに光る美しい髪。仕立ての良い、仕草に合わせて揺れる豪奢な衣装。
彼女はしっかりと背筋を伸ばし、大通りを堂々とした足取りで歩いていく。その表情は自信と凛とした輝きに満ちていた。
すれ違う上流階級らしき紳士、淑女たちは、彼女に向けて感嘆のため息をつき、うっとりと憧れの眼差しを送っている。女性はそれを、優雅で完璧な淑女の微笑みで返し、そのまま去っていった。
その信じられない光景に、リリアは限界まで目を見開いた。
「……すごい……」
心からの感嘆が、吐息のように漏れた。
あんな風に、誇り高く歩く女性を、リリアはこれまでの人生で見たことがなかった。
少なくとも、自分の知るスラムの娼婦たちは、絶対に違った。
みんな、今日を生きるだけで疲れ果てた顔をしていた。全てを諦めた、死人のような目をしていた。客に無理やり笑う時ですら、いつ殴られるか、いつ殺されるかと、どこか怯え、震えていた。
けれど、今目の前を通り過ぎていった彼女は、全く違った。
自分の仕事に、自分の存在に、痛いほどの誇りを持っていた。まるで立派な宮廷職人か、あるいは高貴な貴族の令嬢であるかのように。
「今のこの国の娼館はな」
黙ってリリアの様子を見ていたゲルハルトが、静かに口を開いた。
「ただ身体を置いときゃいいって場所じゃねえ。高度な教養が必要なんだよ」
「教養?」
「ああ。読み書きや計算は当然。楽器の演奏から、歴史、最新の政治の知識、完璧な礼儀作法まで全部あの建物の中で叩き込まれる」
リリアは何度も目を瞬かせた。
「礼儀作法? 娼婦の人が……?」
「国の中枢にいる上流貴族や、他国から来るデカい外交官が情報交換や接待で利用することも多いからな。それ相応の格式が必要なんだよ」
「えぇ……」
想像すらつかない世界だった。リリアの知る元の世界では、女性の知識や尊厳なんてものは、誰一人として必要としていなかったのだから。
「……まあ、ジークヴァルドが国をひっくり返す前は、ここも他と変わらねえ汚ぇ場所だったんだけどな」
ゲルハルトは少し目を細め、白壁の建物を見上げた。
「今は、無理やり女性を拉致して働かせるのは、帝国の法律で完全に禁止だ」
「禁止……?」
「ああ。借金漬けにして、身動きを取れなくして縛り付けるのも禁止」
「……」
「親が、自分の子どもを売るのも、絶対に禁止だ。破った奴は、俺たち第一騎士団が総出で容赦なくブタ箱にぶち込む」
リリアはただ、息を詰めて黙り込んだ。
そんな人道的な法律が、そんな弱者を守る世界が、本当にこの世に存在するのか。
少し前の自分なら、「高貴な奴らの絵空事だ」と、鼻で笑って絶対に信じなかっただろう。
だが、リリアは今日、自分の目で見たのだ。
あの美しい広場を。笑い声の響く孤児院を。そこで三食おかわり付きの飯を食べている子供たちを。
だから、今はっきりと分かった。
この国は、この王都は、本当に、血を吐くような努力で変わったのだと。
リリアはもう一度、その誇り高き娼館を見上げた。
小さな頭の中で一生懸命に何かを考え込み、やがて、ぽつりと不思議そうに呟いた。
「……変なの」
「何がだ」
「だって……」
リリアは一生懸命に言葉を探したが、自分の拙い語彙では、うまく説明ができなかった。
けれど、どうしても胸に湧き上がったその感覚を伝えたくて、言葉を絞り出す。
「……身体を売る場所、なのに」
そこで一度言葉を切り、美しい女性が消えていった華やかな扉をもう一度見つめた。
「……そこにいる人たちが、みんな、あんなに誇らしそうに生きてる」
ゲルハルトは、それに対して何も言わなかった。
ただ、リリアには見えないように、フッと少しだけ嬉しそうに、その強面の口元を優しく緩めただけだった。自分たちのしてきた変革が、この少女の心を確かに救っているのだと、その無言の横顔が物語っていた。
そのゲルハルトの穏やかな横顔を見つめながら、リリアはふと思う。
(私のいた世界は……本当に、小さくて狭い場所だったのかもしれない)
自分が知らなかっただけで、世界にはこんな場所もあるのかもしれない。
自分の知っている絶望が、世界のすべてではない。
そう思うたびに、胸の奥の重苦しい冷え込みが消え去り、まだ見ぬ「知らない世界」のことが、ほんの少しだけ、楽しみになっている自分に気付くのだった。




