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24 広がる世界

リリアはそれから、しばらく無言のまま石畳を歩いていた。

今、自分の胸の中にじんわりと生まれた不思議な温かさを、どう表現していいのか、拙い言葉ではどうしても見つけられなかったのだ。


そんな彼女のすぐ横で。

「……あー、ダメだ。腹減ったな」

ゲルハルトが、大きな腹のあたりをさすりながらぼそりと呟いた。

「え?」

「さっきから街中を歩き回ってよ、美味そうな飯の匂いばっか嗅がされてんだぞ。これじゃ生殺しだ、余計に腹が減るに決まってるだろ」

そう言った途端、香ばしい煙を上げる一本の屋台へ一直線に向かっていった。

「おっちゃん! 串焼き二本!」

「えっ、私も?」

「案内役だけ食うわけにいかねぇだろ」

あっという間に、じゅうじゅうと脂の爆ぜる見事な串焼きを二本受け取ると、ゲルハルトはそのうちの一本をリリアの手元へ強引に押し付けた。

「ほら、熱いうちに食え」

ゲルハルトは自分の串焼きにかじりつきながら、なんてことないように差し出している。

リリアはおそるおそるそれを受け取り、そしてそっと一口かじった。

「……!」

その瞬間、凝縮された濃厚な肉汁が口いっぱいに弾けるように広がった。

熱い。脂っこい。気をつけないと、口の端から旨味の詰まった汁が垂れてしまいそうになる。

城の食事とも違う。

道の真ん中で、立ったまま、棒を持ってかぶりつく。

なのに、なんでこんなに美味しいんだろう。

「おいしい……!」

「だろ?」


串焼きを綺麗に食べ終えて指を舐め、二人は再び大通りを歩き始めた。リリアは満たされたお腹を少しさすりながら、自然と通りの両側に立ち並ぶ店へと視線を向ける。

店先に掲げられた、様々な形をした木の看板。


そこに書かれた文字が、目に入るたびに、思わず小さく声に出してしまう。

「……ぱん、や」

「ああ」

「こっちのは……くつ、や」

「おう、靴屋だな」

「それから……くすり、や……」

リリアが一つ文字を読み上げるたびに、ゲルハルトは歩調を合わせながら、短く優しい相槌を打ってくれる。


「……あれ?」

リリアは立ち止まり、不思議そうに首を傾げた。

「どうした」

「なんか……普通に読める」

自分でも今さら気付いた、といった顔だった。

「昨日まで、自分の名前くらいしか読めなかったのに」

ゲルハルトは「ああ」とだけ答えた。

「召喚された聖女には、この国の言葉や文字の知識が与えられるらしい」

「らしい?」

「俺は召喚されたことねぇからな」

「……そっか」

妙に納得して、リリアはまた歩き出した。

「不思議だねぇ」

「不思議だろ」

「うん」

そう答えながらも、リリアの視線は再び看板へ向かう。


「に、く、や」

その二文字を読んだリリアはぴたりと足を止めた。

店先には、見事な赤身肉や腸詰めがずらりと並べられていた。

「……」

「おい」

「……お肉」

「見りゃ分かる」

「いっぱいある……」

吸い寄せられるように、食い入るように店先を見つめ続けるリリアの姿に、ゲルハルトは堪えきれずに思わず盛大に吹き出した。

「ぶっ……! お前、本当に食いもんばっか見てんな! さっき串焼き食ったばっかだろ!」

「だって……」

恥ずかしそうに笑いながらも、その目は肉から離れない。

「文字は読めても、お腹は膨れないもん」

そのあまりにも真っ直ぐな一言に、ゲルハルトは一瞬ぽかんとした。

「見てるだけでもお腹は膨れないんだけどさ」

ゴニョゴニョと続けるリリア。

そして次の瞬間。


「っ、はははっ!」

腹の底から豪快な笑い声が響いた。

「あっははははっ!」

「えっ!? な、なんで笑うの!?」

リリアが慌てて振り返り、真っ赤になって抗議する。

「いや、お前……っ! 本当にその通りだよな! 文字じゃ腹は膨れねぇ!」

目尻にうっすらと涙を浮かべながら、お腹を抱えて爆笑するゲルハルトの姿に、通りを歩く王都の住人たちが何事かと驚いたように視線を向けてくる。

「だ、だって本当じゃない……」

「違ぇねぇ! 全くその通りだ!」

肩を震わせながら笑い続ける姿に、リリアもつられてくすりと笑った。


こんなふうに誰かと笑い合うのは、いつ以来だろう。

いや、もしかしたら、生まれて初めてなのかもしれない。

そんなことを思いながら、リリアはまた歩き始めた。


道の両側には、様々な店が並んでいる。

「……花屋」

色とりどりの花が咲き誇る店先。

「……仕立屋」

窓辺には、美しいドレスや礼服が飾られている。

「……帽子屋」

「……時計店」

一つ一つ、自分の力で看板の文字を読み進めるたびに、リリアの中で、これまで灰色で狭かった世界が、鮮やかな色彩を伴ってどこまでも広がっていくようだった。

世界を知ることが、こんなにも胸を躍らせるものだなんて知らなかった。

リリアは知らず知らずのうちに、この時間が終わってしまうのを惜しむように、歩く速度を少しだけ落としていた。


「……パン屋」

最後に見つけたその文字だけは、少しだけ嬉しそうに読んだ。

「結局食い物か」

ゲルハルトが呆れたように笑う。

「だってパンだよ?」

「分かった分かった。今度連れてってやるよ」

「ほんと?」

ぱっと花が咲いたような笑顔になる。

「そんなに嬉しいか」

「うん!」

迷いのない返事だった。

その笑顔を見て、ゲルハルトは思わず口元を緩める。

(……こいつ、本当に分かりやすいな)

やがて、見慣れた王城の巨大な白い城壁が前方の視界に入ってきた。

夕陽を浴びて黄金色に染まる、高くそびえ立つ壮大な城門。

その圧倒的な威容は、始めて見た時ほど恐ろしいものには感じられなかった。


「帰ってきたね」

リリアがぽつりと呟く。

「ああ」

城門へ向かって歩きながら、リリアは少しだけ視線を空へ向けた。

王都へ出ることになる前、ここはどこか冷たくて、息苦しいだけの檻のような場所だと思っていた。

けれど、今日は違う。

帰る場所だと、ほんの少しだけ思えた。

「……今日は、楽しかった」

誰に聞かせるでもなく零れた言葉だった。

ゲルハルトは少し照れくさそうに頭を掻く。

「そうかよ」

それだけしか言わなかった。

けれど、そのぶっきらぼうな声は、どこか嬉しそうだった。

王城の門がゆっくりと開く。

温かな夕暮れの光を背に受けながら、二人は並んで城内へと戻っていった。

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