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22 お仕事おやすみ

「うわぁ……!」

王城の重厚な正門をくぐり抜けた瞬間、リリアの瞳がまるで星を散りばめたかのようにパッと輝いた。

この世界に召喚されてからというもの、早々に瘴気浄化遠征、その後の体調不良だので、まともに外の空気を吸うことすら出来ていなかったのだ。


美しく磨かれた石畳の大通り。

活気に満ちて行き交う大勢の人々。

軒を連ねる露店からふんわりと漂ってくる、香ばしく甘い焼き菓子の香り。

遠く近くから聞こえてくる、賑やかで楽しげな笑い声。

リリアの五感に飛び込んでくるそのすべてが、新鮮で、眩しかった。


「すごいね! 人がいっぱいいる! みんな綺麗な服着て歩いてる!」

「おいおい、そんなにキョロキョロしてるとお上りさん丸出しだぞ。……まあ、一応これでも帝国の王都だからな」

ゲルハルトは豪快に笑った。

彼らの数歩後ろには、聖女の護衛として数名の騎士たちが距離を保って歩いている。


出掛けることが決定した際、カイルが「私も同行する」と凄まじい執念を見せていたのだが、近衛兵長としてジークヴァルドの護衛を直々に任じられ、城に居残りを余儀なくされている。

だから今日の案内役はゲルハルトだけだった。


「ねえ、まず最初にどこへ行くの? 美味しいお店?」

期待に胸を膨らませて見上げてくるリリアに、「そうだな」とゲルハルトは顎を掻いた。

「俺が昔住んでた場所でも見に行くか」

「ゲルハルトさんの?」

「ああ」

リリアは意外そうに大きな目を丸くした。

彼が自分と同じスラムの出身だと、昨日の今日で聞いたばかりだ。ならば、今の王都のどこにそんな場所があるのか、興味がないはずがなかった。


それから大通りを外れ、しばらく歩いたところで。

ゲルハルトが「よし、着いたぞ」と、ふと足を止めた。

「……え?」

リリアは不思議そうに周囲を見回した。


そこは、陽光が燦々と降り注ぐ広々とした美しい広場だった。

中央には涼しげな水を湛えた小さな噴水があり、周囲には手入れの行き届いた鮮やかな花壇と、青々とした芝生が広がっている。その上を、小さな子供たちが歓声を上げながら元気に走り回っていた。あちこちから無邪気な笑い声が響いている。

どこからどう見ても、平和で、穏やかで、幸福に満ちた場所だった。


「ここが、そうなの?」

「ああ」

ゲルハルトは深く頷き、両手を腰に当てたまま静かに告げた。

「昔はな……ここいら一帯、帝国内で最悪って言われたゴミ溜めのスラム街だったんだよ」

「え?」

もう一度、信じられない思いで周囲の景色を食い入るように見回す。

地面の石畳は白く綺麗に掃き清められている。空気は明るく、どこを向いてもあの鼻を突く汚物の臭いなど一切しない。誰もナイフを握って喧嘩なんてしていない。誰も飢えてゴミ山を漁っていない。そして――誰も、地面で行き倒れて冷たくなってなんかいない。

自分が骨の髄まで知っている、あの忌々しいスラムとは、何もかもが、世界の裏表ほどに違っていた。

「……嘘」

リリアの口から吐息のような呟きが漏れ出た。

「こんな、こんな綺麗な場所が……?」

「ああ」

ゲルハルトは笑った。

「俺が育った場所だ」


リリアは何も言えなかった。

彼女にとって、スラムとは「絶対に消えないもの」だった。そこに生まれた人間は、そこに捨てられた人間は、這い上がることなど出来ず、ずっとそこで飢えに苦しみながら生きて、いつか誰にも看取られずゴミのようにそこで死ぬ。そういう、世界の絶対的なルールなのだと思っていた。

だから。スラムが「なくなる」なんて、綺麗に消えて作り直されるなんて、今までの人生で考えたことも、想像したことすら一度もなかったのだ。


「ほら」

言葉を失っているリリアの肩をそっと叩き、ゲルハルトが大きな指で広場の奥を差し示した。

視線の先には、白壁の立派な大きな建物が建っていた。

「孤児院だ」

ちょうど、中から年齢も様々な子供たちが賑やかに出入りしているところだった。

元気に走り回る小さな子。日当たりの良いベンチで真剣に本を読んでいる子。裏手で大人たちと一緒に楽しそうに洗濯を手伝っている子。驚くべきことに、その誰の衣服も汚れておらず、みんな一様に、明日を疑わない満ち足りた表情を浮かべていた。


リリアはしばらくの間、息をするのも忘れたように、黙ってその光景をじっと見つめていた。

それから、きゅっと胸元を掴み、ぽつりと、掠れた声で一番気にかかることを尋ねた。


「……あの子たち、ご飯は……ちゃんと、食べさせてもらえるの?」

ゲルハルトは一瞬驚いたように目を見張り、それからふっと笑った。

やっぱり真っ先にそこを心配するのか、という、スラム出身の彼女らしい切実な視線を受け止める。

「三食」

「三食!?」

「おかわりもある」

リリアの両目が、これ以上ないほど限界まで見開かれた。

「すごい……すごいね……」

震える声は、お世辞でも何でもない、彼女の心の底からの、最大級の感心と羨望と尊敬が籠ったものだった。

「毎日?」

「ああ」

「本当に?」

「本当だ」

まるで、おとぎ話の奇跡でも見つめるような純粋な目で孤児院を見つめるリリア。

ゲルハルトはその華奢な横顔を静かに見つめながら、かつて、この同じ場所で血を流して倒れていた、餓死しかけていた幼い頃の自分を、そして腐った肉を食べて冷たくなっていったあの少女の姿を思い出していた。

もしも、あの頃。

この場所に、こんな温かいスープが出る場所があったなら。

あの老婆も。共に笑い合ったあの小さな少女も。

誰一人として、あんな理不尽に、惨めに死なずに済んだかもしれない。


「……でもな」

ゲルハルトは、過去の感傷を振り払うように、少し低い声で言った。

「これでも、まだ全然足りねぇんだよな」

「え?」

リリアが不思議そうに首を傾げる。

「ただ飯が食えるようになるだけじゃ、人間は本当の意味で救われねぇんだよ」

リリアは理解が追いつかないのか、ぱちぱちと瞬きをした。

ゲルハルトはそれ以上言葉を重ねず、ただ、少し眩しそうに広場の上に広がる高い空を見上げた。

どこまでも青かった。あの日、死を覚悟しながらゴミ山の上で仰ぎ見た空と、全く同じ色をしていた。

「安心して眠れる場所がいる」

ぽつりと言う。

「明日も飯があるって信じられる場所がいる」

そして、彼はリリアに向き直って笑った。頭をガシガシと掻きながら、柄にもなく、少しだけ照れ臭そうに。

「俺はよ……そういう、誰も怯えなくていい場所をたくさん作りてぇんだよな」


リリアは、ただ黙って彼の顔を見つめていた。

「信じられる明日」なんていう難しい政治の話や理想は、よく分からない。

けれど。彼のその言葉の奥にある、剥き出しの「想い」だけは、痛いほどに理解できた。


ゲルハルトはきっと。

昔の自分みたいな人間を減らしたいのだ。


「優しいんだね」

リリアは、混じり気のない純粋な瞳でそう言った。

それを聞いて、ゲルハルトは苦いものでも口にさせられたかのように盛大に顔をしかめた。

「おい、やめろ。そういうのガラじゃねえんだよ」

「なんで? 本当のことなのに」

「鳥肌が立つ。気持ち悪ぃって」

「優しいじゃん」

「違う」

ゲルハルトは、被せるように即答した。

そして、自分の大きな掌を見つめ、少しだけ不器用に向き合うように考えてから。

「……俺はただ、俺の目が届く範囲で、見たくねぇだけだ」

と、ぶっきらぼうに言葉を絞り出した。


「たかが一口の飯が足りなくて、腹減って死にそうになってる奴とかよ」

リリアは、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせた。

「その横で、ただ無力に泣き叫ぶしかねぇガキのツラとか……。俺は、そういう胸糞悪いもんを、これ以上自分の前で見んのが、嫌なんだよ」


それは、世間一般では。

何よりも気高く、尊い『優しさ』と呼ぶのだろう。

けれど、あまりに不器用で、傷だらけのまま這い上がってきた本人だけが、それに絶対に気付こうとはしなかった。


「……変なの」

リリアは賑やかな孤児院の建物をじっと見つめたまま、ぽつりと小さく呟いた。

その声があまりに微かだったため、ゲルハルトはよく聞こえなかったのか、「ん? 何か言ったか?」と大きな身体を揺らして振り返った。

「ううん、なんでもない」

リリアはいたずらっぽく笑って首を振った。

でも、本当になんでもないわけではなかった。


リリアは弾むような足取りで、一歩先へ駆け出した。

「ほら、次はどこ行くの?」

振り返れば、ゲルハルトが呆れたように笑っている。

(変なの)

この人といると、少しだけ肩の力が抜ける。

そんなことを思いながら、リリアは不器用な『兄』が歩いてくるのを待った。

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