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21 【路地裏の願い 後編】

気がついたときには、見たこともないほど豪華な寝室の、ふかふかとした寝台ベッドの上だった。

あの悪臭漂うゴミ山に捨てられて死ぬのを待つだけだったはずなのに、身体は絹のように柔らかな布の上に横たえられている。

体の傷には、丁寧に手当が施されていた。


そして、目の前の丸卓テーブルの上には――じゅうじゅうと音を立て、豊かな湯気を立てる、分厚い肉の塊が鎮座していた。

「……食べられそうかい?」

傍らにいた金髪の少年がそう問いかけた瞬間、ゲルハルトは考えるより先に、野生の獣のようにその肉へと飛びつき、一心不乱にかぶりついていた。


手掴みで、夢中で噛み千切る。

「……っ! うめぇ……!!」

口いっぱいに広がる圧倒的な美味さに、目頭から熱い涙がボロボロと溢れ落ちた。

あの、異臭のする腐った肉を怯えながら分け合い、無残に腹を壊し、大切な仲間を死なせてしまったあの日とは、何もかもが違っていた。


これは――本物の、肉だ。

喉を焼くような熱さと脂の甘みが、全身に「命」を流し込んでいく。


腹を限界まで満たし、荒い息を吐くゲルハルトを見て、少年は満足そうににこりと微笑んだ。

「私はジークヴァルド。君は?」

ゲルハルトは指についた脂を舐めながら、無作法に答えた。

「ゲルハルト。……てか、テーコク?を壊すとか何とか言ってたな。てめえ、何者なんだよ」


その瞬間。

さっきまで少女かのように愛らしかったジークヴァルドの表情から、一切の笑みが消え失せた。


冷たい。あまりにも冷徹な、絶対者の眼。


ぞくり、と背中が恐怖で粟立つ。

自分よりも確実に年下のはずの、この透き通るように綺麗な少年が、スラムのどんな残虐なゴロツキよりも恐ろしい、底の知れない「怪物」に見えた。


「私はこの帝国の皇子だ。……この国にスラムなんて場所があるのも、貴族だけがぬくぬくと暮らしているのも、今の皇帝の……父の圧政のせいだ」

淡々と、しかし確かな殺意を滲ませてジークヴァルドは言う。


「私は、それを変えたい」


ゲルハルトは、その瞳を凝視した。

嘘偽りのない、本物の「眼」だった。


「……要するに、そのコーテーってのが一番のクズ野郎なんだな?」

ゲルハルトは、不敵に肩をすくめて笑った。

「いいぜ、やってやるよ。てめえについて行きゃあ、これからも満足に、こんな美味い飯が食えるんだろ?」


こうして一匹の獣は、黄金の皇子にその魂を預けることを決めた。



それから間もなくして、ゲルハルトは「第一騎士団」の末席へと放り込まれた。

皇子の私兵として腕を磨くためだったが――そこは、スラムよりほんの少し見た目がマシなだけの、内情は腐敗しきった最悪の場所だった。

上官どもは昼間から酒を煽り、女の話ばかり。まともに剣の訓練もしないくせに、貴族の血筋という特権を盾にして、立場の弱い平民出身の者を玩具のように弄び、虐げている。

「チッ……。ここもあのスラムと変わらねえじゃねえか」

苛立ちを隠せないゲルハルトの前に、一人の少年が立ちはだかった。


光を吸い込むような、見事な銀髪。そして、世界のすべてを拒絶するような、酷く鋭いアイスブルーの眼差し。


「お前がゲルハルトか。手合わせ願う」

突然の申し出に、ゲルハルトは鼻で笑った。自分より線の細い、ひ弱そうなガキだ。


「いいぜ? 泣くなよ?」



――数分後。

ゲルハルトは、地面に無様に尻もちをついていた。


喉元には、冷たい木剣の切っ先。

ぜいぜいと激しく肩で息を切らすゲルハルトを、額に汗一つかいていないその銀髪の少年が、憐れみすら抱かぬ冷然とした態度で見下ろしていた。


「無駄が多い」

心底むかつく、傲慢な言い方だった。

だが、それ以上に。負けた悔しさを通り越して、ゲルハルトの腹の底から、今まで感じたことのないほど熱く、滾るような何かが猛烈に突き上げてきた。


ゲルハルトは、血の混じった唾を吐き、獰猛に笑いながら立ち上がった。

「お前……! 名前、なんて言うんだよ!」

少年は、野蛮な獣を見るようにわずかに細い眉をひそめた。

「……カイル。カイル・ヴァルテンベルク」


それが、後に帝国の両翼と呼ばれるようになる二人の出会いだった。



そして――ついに訪れた、決起の夜。


宰相の息子(イーサン)に「ゴミ掃除」を命じられ、ゲルハルトは狂ったように剣を振るった。

城の中に蔓延り、ぬくぬくと甘い汁を吸っていた、腐った貴族や兵士の連中をまとめて闇の中で叩き斬る。


血の匂い。

絶叫。


だが、あの飢えに喘ぎながら、暗闇でいつ喉を掻き切られるかに怯えてゴミを漁っていた夜に比べれば、こんな戦場など、どうということはなかった。


やがて、夜明けと共に歓声が上がる。


高く掲げられた、かつての王の首。

燦然と輝く朝日に照らされながら、ジークヴァルドが堂々と宣言した。

「帝国は今日より、私が統べる!」

地響きのような歓声と拍手が、世界を震わせる。


ゲルハルトはそれを、少し離れた場所から眺めていた。


本当に、腹が減って死にかけていた頃は、こんな地を揺らすような晴れやかで力強い人間の声なんて、ただの一度も聞いたことがなかった。世界が変わる瞬間を、彼はその目に焼き付けた。




――そして、現在。

城の美しい中庭では、今日も「休憩」という名のお茶会が、ジークヴァルトの主催で和やかに開かれていた。

誰一人として彼を呼んでなどいないのだが、ゲルハルトは当然のような顔で特等席に陣取り、高級な焼き菓子を無造作につまんでいた。

「おい、イーサン! これ、めちゃくちゃ美味えな! おかわりはねえのかよ!」

「ありますから騒がないでください」

呆れた声が返ってくる。

ゲルハルトは笑いながら焼き菓子を口へ放り込んだ。


昔の自分なら、こんな光景、想像することすら出来なかっただろう。

食い物が、目の前に余るほどある。

それを、誰からも奪われない。

「明日の飯はどうする」なんて、血を吐くような心配を、もう一秒もしなくていい。

あの頃、ゴミ山の中でハエにたかられていた自分が今の姿を見たら、腰を抜かして気絶するに違いない。


ゲルハルトは小さく、満足げに息を吐いた。

「……だけどよ、まだ足りねえんだよな」


ジークヴァルドが帝位に就いてから、ゲルハルトは私財を投げ打ってスラムに孤児院を作った。毎日、温かいスープの炊き出しも始めた。それでも、だ。

腹いっぱい飯を食えるようになるだけじゃ、本当の意味で人は救われないのだ。


ただ胃袋が満たされるだけじゃない。

「もう誰からも怯えなくていい」と、心の底から信じられる安全な場所がいる。

「明日の食事も、自分の命も、誰にも奪われない」と、確信できる明日がいる。


お茶会の席からふと、どこまでも青く澄んだ高い空を見上げる。

あの日、血と吐瀉物にまみれて、ゴミ山の上でただ無力に願ったことを思い出す。

どうして皆が、皆に優しくできないのだろう。

どうして、たった一欠片の食い物一つで、人は簡単に殺し合って死んでしまうのだろう。

その根源の答えは、大人になった今でも、まだ見つかってはいない。


だが。

少なくとも、今は目の前に――守るべき者がいる。


あの、自分と同じスラムの匂いをさせた、飢えた聖女。

あいつが、もう二度と空腹の恐怖に怯えなくて済むように。

ゲルハルトは口元を緩めた。

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