20 【路地裏の願い 前編】
物心ついたときにはそこで生きていた。
地面には、いつのものかも分からない誰かの黒ずんだ血と、鼻をつく誰かの排泄物。
空腹であることなど呼吸をするのと同じくらい当たり前で、幼いゲルハルトはいつも、ゴミを漁っては食べられるものを探していた。
目付きが生意気で気に入らないという、理不尽な理由で、大人たちによく殴られ、蹴り飛ばされた。
自分の名前はゲルハルト、らしい。
誰がつけたのかも知らない。
ある日の王城。
「おい、ゲルハルト」
耳に届いた硬い声に名前を呼ばれて、ぱちりと目を開ける。
眩しい午後の陽光が視界に飛び込んできて、思わず目を細めた。
騎士訓練場の隅、大きな木陰の芝生の上で昼寝をしていたのだが、知らぬ間にしっかりと深く眠り込んでいたらしい。
重い体を起こして豪快に背伸びをし、声のした方へ視線を向けると、近衛騎士団長のカイルが相変わらずの仏頂面でこちらを見ていた。
「おはようさん、カイル」
「他の者が休憩を終えて訓練場に集まり始めている。第一騎士団の長たるお前がそんな体たらくでは部下に示しがつかないだろう」
堅物な幼馴染からの耳にタコができるほどの小言は、毎日欠かさず飛んでくる。
ゲルハルトは「はいはい」とあしらうように生返事を返すと、気怠げに立ち上がって尻についた草を叩き払った。
「そうカリカリすんなって。どうせ俺とまともに稽古できる奴なんてお前だけなんだから、もう少しのんびりさせてくれたっていいだろ?」
言いながらカイルの肩に腕を回す。
「稽古するだけではない。指導するのが長の任務だろう」
不服そうに眉をひそめて呟きながらも、その腕を振り払おうとはしないカイル。ゲルハルトは「ひひ」と悪戯っぽく笑った。
誰かに声をかけられてからのんびりと目を覚ます、なんてことはスラムでは命を捨てるに等しかった。
熟睡などあり得ない。ほんの一瞬でも隙を見せれば、次の瞬間には死ぬ。
一欠片の泥まみれのパンを手に入れた人間が、明日食べようと大切に懐に隠して眠ったその隙に、喉を掻き切られて死体になっている光景を、幼い頃から嫌というほど見てきた。
たった一欠片の、犬も食わないようなパンのために、簡単に人を殺せる。それがスラムでの日常であり、地獄だった。
だから、ゲルハルトは人前では決して眠らなかった。
まどろむ時は、決まって町から離れた森の中を選んだ。獰猛な野生の獣よりも、飢えた人間の方がよほど恐ろしく、残酷な化け物だと知っていたからだ。
城の広大な食堂では、午前中の激しい訓練を終えた騎士たちが、騒がしく笑いながら食事をしていた。
ゲルハルトは、目の前の皿に乗った分厚い赤身肉の塊を、フォークで突き刺し、持ち上げたままそれをじっと見ていた。
「ゲルハルト団長、どうなさいました?」
向かいに座っていた副団長が、ナイフとフォークで肉を切り分けていた手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「お前は、これがどんな味かわかるか?」
皮肉な笑みを浮かべて問うゲルハルトに、育ちの良い若き副団長は答えに窮した。突然何を言い出すのかと、困惑がその顔に広がる。
「…ええと。ガーリックと、胡椒の味……でしょうか」
副団長の至極真っ当な答えを聞いて、ゲルハルトは鼻で笑った。
何か間違っただろうかと戸惑う副団長を前に、「まあ、そうだろうな」と言い捨てて、フォークに刺さった肉にかぶりついた。
ガーリックと胡椒の味がした。
肉。
そんなものは、高貴な貴族たちが作り出した想像上の食い物だと、餓死しかけた幼い頃は本気で思っていた。
ある日、親代わりとして何かと面倒を見てくれていた足の悪い老婆が、どこからか手に入れたらしい小さな薄汚れた肉の欠片を火で焼いて持ってきてくれた。
共に生活していた幼い少女と、震える手でその肉を分け合った。
変な臭いがして、口に入れたら粘っこくて気持ちの悪い味がした。
当然、腹を壊した。
それもそのはずだ。その肉はとっくに腐っていたからだ。
容赦なく繰り返される激しい下痢と嘔吐。
元々痩せ細っていた幼い少女は日に日に衰弱し、ある朝、冷たくなっていた。
ゲルハルトがどれだけ揺さぶっても、二度と動かなかった。
ゲルハルトの体調が回復し始め、その少女を埋めてやったその夜。
「あのババア、肉を手に入れやがったぞ!」
肉を手に入れたことを嗅ぎつけた男たちが、根城にしていた崩れかけの小屋に襲い掛かってきたのだ。
足の悪い老婆は逃げることもできず、棒切れで滅多打ちにされて殺された。
ゲルハルトもまた、抵抗するだけの力も回復しておらず、動けなくなるまで暴行を受け、そのまま裏手の薄汚いゴミ山の上に投げ捨てられた。
(くだらねえ……。本当に、何もかもがくだらねえ……)
血まみれのまま、ゲルハルトは冷たく笑った。
この町では、たかが腐った肉一切れのために、人が死ぬ。
どうすれば、満足に食えるのだろう。
どうすれば、この無意味な奪い合いと殺し合いを終わらせられるのだろう。
ゴミ山の中で、自分の血と吐瀉物にまみれながら、ゲルハルトは空を仰いでいた。
(まあ……もう、どうでもいいか)
ゲルハルトは静かに目を閉じた。
生きるのも、死ぬのも、大差ない。
でも、死ぬ前に腐ってない肉を食べてみたい。
その時だった。
「この帝国を壊さないか?」
聞いたことのない声が降ってきた。
ゲルハルトは、重い瞼をゆっくりと開けた。
逆光の中に立っていたのはーー
金色の髪の少年だった。




