表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

2 先払いで

通された部屋は、先ほどの神殿の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


重厚な扉が背後で閉まる低い音に、リリアの肩がわずかに、けれど鋭く跳ねる。


(――閉じ込められた)

反射的に、身体が逃走のシミュレーションを開始する。


視線は一点に留まることなく、獲物を探す獣のように室内を走った。

扉は一つ。施錠の有無は不明。窓は男の背後に大きなものが二つ。走り抜けるのは困難。

視界に入る男は四人。距離。それぞれの体格。武器の有無。

確認を終えても、状況は何一つ好転しなかった。


逃げられない。


そう結論づけて、リリアはようやく視線を落とした。


卓上には、白磁の皿に盛られた湯気を立てる料理と、濁りのない澄んだ水が用意されている。

一瞬だけ、喉の奥が鳴りかけて――強引に止める。


じっと、その色彩を見つめた。

量。質。匂い。

腐敗した臭いもしなければ、異物も混じっていない。少なくとも、見た目は。


「食べて構わないよ」

落ち着いた、慈しむような声が頭上から降ってきた。


顔を上げると、先ほどの男――ジークヴァルドと言った――が、椅子に腰掛けていた。

その隣には片眼鏡の男。その2人の背後には、さらに二人の男。

逃げようとしても捕まる、包囲されている配置だと、遅れて理解する。


リリアはしばらく黙ったまま、並べられた料理と男たちを交互に見比べた。

そして、掠れた声を小さく絞り出す。

「……これ、私の分?」


問いの向きが、あまりに的外れだった。

ジークヴァルドの整った眉が、苦痛を堪えるようにわずかに動く。

「ああ、そうだ。すべて君のものだ」

「……あとで、何させるの?」

氷を投げ込んだような静寂が、部屋を満たした。


誰も、すぐには答えられなかった。否定する言葉すら、喉に張り付いて出てこない。


リリアは、彼らの沈黙を「値踏み」と受け取ったのか、淡々と続けた。

「ただじゃないでしょ。食べ物なんだから」

声音には、疑いもなければ怒りもない。


「……必要な対価なんて――」


「先払い?」


ジークヴァルドが紡ごうとした言葉を、リリアは無造作に遮った。


「終わったあとに“やっぱ無し”って言われたら困る。……動けなくなるまで使われて、結局何ももらえないのは、もう嫌」

淡々とした口調。それが、金糸の刺繍が施されたこの豪華な部屋の空気に、あまりにも似つかわしくなかった。


リリアは皿を見つめたまま、確認を急ぐ。

「だったら、今くれないと」


沈黙が重く降り積もる。


ジークヴァルドは、膝の上で拳を固く握りしめていた。

「……これは、対価ではない」

「?」

「君に与えるものだ。無償で。何も、見返りなんていらないんだ」


リリアは、ゆっくりと首を傾げた。

言葉の意味が分からない、という顔だった。


(無償? 何も見返りがいらない……?)


数秒の思考の末、彼女はその矛盾を「理解不能」として処理し、興味を失ったように視線を皿へ戻した。


指先が、わずかに動く。

――食べていい、と許可は出た。

その判断に至るまで、ほんのわずかなタイムラグがあった。


彼女はパンを一切れ取った。

すぐには口に入れない。

鼻先に近づけ、匂いを確かめ、毒や異臭がないかを執拗に探る。

それから、ほんの少しだけ齧った。

噛む。飲み込む。

――問題ない。胃が拒絶することはない。


そこでようやく、彼女は二口目に移った。

ゆっくりとした、効率的な動き。貪ることも、焦ることもない。

ただ、明日も生き延びるために。

咀嚼の音だけが小さく響く。


(……ちゃんとした、食べ物だ)

それだけを確認する。


味覚は死んでいた。温度も心までは届かない。

ただ、“まともなものが体内に入っていく”という事実だけが、重く、深く落ちていく。


ふと、指先が止まった。


乾いたパンの感触。

押し付けられる重み。

終わるのを待っていた時間。

「終わったら、パンをやる」

——約束。


一瞬だけ、何かが脳裏を過ぎる。

だが、彼女はそれをすぐに消し去った。感傷は空腹を癒さない。

リリアは何事もなかったかのように、次の一口を運ぶ。


ジークヴァルドも、イーサンたちも、その様子を息を止めて見つめることしかできなかった。

あまりに深い溝が、自分たちと彼女の間に横たわっている。

その沈黙を、リリアの声が容赦なく切り裂いた。


「で」


顔も上げずに、彼女は言った。

「次、何すればいいの?」

当たり前のように。それが当然の儀礼であるかのように。


「仕事でしょ? ……次は、誰?」


その一言で、部屋の空気が完全に、そして致命的に変わった。



“聖女”を求めた男たちの前にいたのは、

生きるための対価として、自分の尊厳を「仕事」と呼んで差し出す、スラムの女性だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ