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1 対価をください

白磁の石畳に刻まれた魔法陣が、網膜を焼くほどの眩い光を放ち、そして、ゆっくりと収束していく。


立ち込める魔力の残滓と、静謐な神殿の空気。その中心に、ひとりの女性がいた。

彼女の姿が露わになった瞬間、周囲の空気は凍りついた。


女性は、陣の中央でうずくまるように身を縮めていた。

はだけかけた衣服の襟元を、汚れた細い指先で必死に押さえ、咄嗟に後退る。

その仕草は、気恥ずかしさや乙女の羞恥といった瑞々しいものでは決してなかった。


――それは、絶え間ない暴力に晒されてきた者が、反射的に身を守るための「防御」そのものだった。


荒い呼吸が、静まり返った神殿に異質に響く。

彼女の瞳は、焦点を結ぶ間もなく、獣のような鋭さで周囲を射抜いた。


出口はどこか。


自分を囲むこの男たちは、何者か。


隙を見て逃げ出すことは可能か。


ただ「生存」のための計算だけが、彼女の脳内を支配している。


その女性を、ここにいる誰もが見間違えるはずがなかった。

1年前、自分たちの手で「不要」だと切り捨て、返還させた、かつての聖女。


「……リリア」


ジークヴァルドの唇から、掠れた声が漏れた。皇帝としての威厳も、かつての冷徹さもそこにはない。ただ、目の前の信じがたい光景に打ち震える、ひとりの男の震え声だった。


その声に反応し、リリアの視線が、一歩踏み出そうとしたカイルを捉えた。


カイルは、彼女の姿を視界に収めた瞬間、雷に打たれたように硬直した。


リリアは、乱れた衣服の手際よく整える。その動作には、淀みがない。自分の肌を他人に見せることに慣れきってしまった女の、あまりに哀しい「仕事」の動き。


彼女は怪訝そうに首を傾げた。

「……ここ、どこ」


「リル……っ」

カイルの声が、喉の奥で潰れた。


一歩、彼女へ手を伸ばしかけて、彼は己の指先の震えに気づき、止まった。

触れていいのか、分からなかった。その資格が、自分にあるのかすら判断できなかった。


何より、彼女の瞳に宿る「虚無」が、カイルの騎士としての魂を容赦なく抉った。


リリアは、ほんの一瞬だけ、その琥珀色の瞳を大きく見開いた。


なぜ、見知らぬ男が自分の名前を呼ぶのか。


なぜ、これほどまでに自分を乞うような目で見るのか。


記憶の欠片すら呼び起こされない、完全なる他人を見る目。

それだけで、彼らにとっては死よりも残酷な宣告だった。


「……成功だ」

背後の祭壇で、誰かが震える声で呟いた。


それを合図に、堰を切ったような歓声が神殿を埋め尽くした。

「戻ってきた……! 我らが聖女様が!」

「奇跡だ、本当に戻ってこられた!」

「これで帝国は救われる! 聖女様万歳!」

膝をつき、祈りを捧げる文官たち。


安堵と、自分勝手な歓喜と、遅すぎた懺悔が入り混じった絶叫が、高い天井に反響する。


「……っ、うるさい」

リリアは激しい嫌悪を露わにし、眉間に深い皺を刻んで両手で耳を覆った。


その肩は小刻みに震えている。

彼女にとって、この歓声は祝福ではない。


自分を買い叩き、怒鳴りつけ、乱暴に扱う「質の悪い客たち」の騒音と同じだった。


「……お腹、すいた」

熱狂の渦の中で、その声だけが、あまりに現実的で、あまりに無機質に響いた。


誰もが耳を疑った。だが、リリアの瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。


彼女の喉は、ひどく乾いていた。

――終われば、食べられるはずだったのに。

彼女は、つい数分前まで、どこか暗く、饐えた匂いの漂う部屋にいた。


押し付けられる重みと、

耳元で響く下卑た声。


ただ、時間が過ぎるのを待っていた。


——終わったら、パンをやる。


そう約束されたからだ。


その一切れのパンのために、その一切れのパンのために、

彼女はただ、終わりを待っていた。

なのに、支払われるはずの対価は、この眩しい光と、自分勝手な歓声にすり替えられた。


「……食べ物、くれないの?」

リリアが、立ち尽くすジークヴァルドを、冷ややかに見た。

その瞳にあるのは、かつての献身的な愛ではない。

客に対して「報酬」を催促する、乾ききった女の視線だった。

「私の仕事の邪魔をしたんだもん。……当然、くれるよね?」


カイルの足元に、願いが叶った証として、音もなく千切れた麻紐のミサンガが落ちている。


人知れず願った「会いたい」という彼の願いは叶った。リリアは戻ってきた。


だが、彼らが連れ戻したのは、かつての「聖女(リリア)」ではなく、


食事の対価として体を差し出すことを、

当たり前だと思い込まされた存在だった。


神殿を包む歓声が、リリアの冷徹な一言によって、緩やかに、そして絶望的に凍りついていった。

飢えた聖女は瘴気を喰らう、の続編です。

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