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18 健康診断

医師長は、机の上に診療録(カルテ)を広げて、それを眺めながら聖女に関する文献を呼んでいた。

膨大な量の記録と、前回までのリリアの診療録(カルテ)とを何度も往復した目は、寄る年並には勝てず、次第にぼやけてきていた。


「んー……」

隣室からわずかに声が聞こえてきて、医師長は歳のせいか痛む膝をさすりながらゆっくりと立ち上がり、境界の扉を静かに開けた。

「聖女様、目を覚まされましたか」



ベッドからゆっくりと上体を起こしたリリアは、うん、と背伸びをして、ベッド脇に立っていた人物を見てぎょっとしたように目を丸くした。

「びっくりした……。ずっといたの?」

「そうだ」

仁王立ちのまま腕を組んでいたカイルは、リリアをちらりと横目で見てから、すぐに視線を真っ直ぐ正面へと戻した。

変な人、とリリアは心の中で肩をすくめてから、きょろきょろと周囲を見回した。

「ねえ、お腹空いたんだけど。何か食べるものある?」


彼女のあまりに即物的な要求に答えたのは、入ってきた医師長だった。

「おやおや、食欲があるのは大変良いことです。嘔吐も激しかったことですから、まずは胃に優しいパン粥と、薄味のスープからにしましょうね」

「パン粥? もしかして、ミルクで煮た甘いやつ?」

目を輝かせて問うと、医師長はにっこりと頷いた。リリアの目が更に輝く。

「やったあ!」


一般的にパン粥なんてものは、赤子の離乳食だったり、病気の際に食べるようなもので、むしろ好まれるような食べ物ではない。

だが、日々の食べるものにも困窮していたスラムで生きてきたリリアにとっては、固くなりカビたパンではなく、まろやかなミルクを使い、火を通した温かい『煮込み料理』など、滅多にありつけない最高級の贅沢品なのだ。

それを理解して、医師長は痛ましそうに、悲しげに微笑むしかなかった。



やがて病室に、温かいパン粥とスープ、そして湯冷ましが運ばれてきた。

リリアはまるで宝箱でも開けるかのように、キラキラとした眼差しでトレイを見つめている。

彼女の興奮は収まらず、横に立っているカイルに絶えず話しかけ続けていた。

「甘い匂いだねぇ……。ミルクの匂いだよね?あ!湯気が出てるよ!出来立てってことだよね!?」

カイルは興奮気味のリリアをじっと眺めていた。

元気そうだ。

顔色も良い。

生き生きとして見えるリリアの姿に、カイルはふっと笑みを漏らした。


リリアは用意された食事をあっという間に平らげ、皿の内側に付いていたわずかなパン粥の屑を指ですくって舐めた。

「まだ食べたかったのになぁ……。少ないよ」


その時、病室の扉がノックされた。

「私だよ」

聞こえてきたのはジークヴァルドの声だった。

コーテー(皇帝)?どうぞ、入っていいよ」

礼儀もへったくれもない、気のない返答。だが、扉を開けて入ってきたジークヴァルドの表情には、そんな不敬を咎めるような気配は微塵もなかった。

「食事は摂れたようだね」

安堵の笑みを浮かべて歩み寄るジークヴァルドの後ろには、いつも以上に眉間に深い皺を刻み込んだイーサンが控えていた。こちらは、リリアのあまりに締まりのない応答が非常に気に入らなかった様子で、眼鏡の奥の目を険しく光らせている。


「私あれだけ頑張ったのに、ご飯が少なかったんだけど?」

リリアは食事の量について堂々と不満をぶちまけた。これには、いかなる外交の場でも動じないジークヴァルドも、思わず苦笑してしまった。

「それに関しては、どうか我慢してほしい。浄化の直後、君が相当に消耗した様子だったと遠征組から報告を受けていてね。医師長の指示だ、まずは少しずつ胃を慣らそう」


「ふーん……。それで?」

むくれた表情のまま、リリアはベッドの上でジークヴァルドを真っ直ぐに見上げた。

「何の用事? わざわざここに来るなんて」

純粋な疑問に、ジークヴァルドは一瞬言葉に詰まった。


本当は、聞きたいことが山ほどあった。

どれほど痛かっただろうか。

どれほど苦しかっただろうか。

なぜ、あんな悍ましい方法でしか浄化ができないのか。

それなのに、どうして以前は、自分たちの前で何一つ苦痛を見せず、平然と笑っていられたのか。


なかなか言葉が出てこない様子のジークヴァルドに、リリアは不思議そうに首を傾げた。


「……体調は、その、どうだい。」

考えあぐねた末に、結局ジークヴァルドの口から出てきたのは、情けないほどに無難で、ありきたりな気遣いの言葉だった。

「んー?まだちょっと気持ち悪いかな」

リリアは顎に手を当てて、少し考えてから正直に答えた。

「まだ不調が残っている」というその言葉に、カイルの眉がぴくりと跳ね上がり、今にも医師長に詰め寄ろうと身体を動かす。だが、ジークヴァルドがそれを制するように鋭い視線を向けると、カイルは悔しそうに小さく息をひとつ吐き出し、元の位置で姿勢を正した。

「そうか。無理をせず、今は休むんだよ」

ジークヴァルドは微笑んで頷く。


「でもまだお腹空いてるんだよね」

リリアは至って大真面目な顔で言葉を続けた。

「本当にパン粥のおかわりないの? 鍋に残ってたりしない?」

緊迫した執務室では絶対に見せることのない、心底困り果てたような顔で、ジークヴァルドはそっと片手で額を押さえた。

その横では、イーサンがこれ以上ないほど深々と、呆れたような、あるいは絶望したようなため息を吐き出していた。


「発言することをお許しください」

和やかな空気を真っ二つに切り裂くように、それまで沈黙を守っていた医師長が、ジークヴァルドに向かって恭しく頭を垂れた。

「……許す。申せ」

一瞬にして冷徹な皇帝の顔へと戻ったジークヴァルドが、視線だけを医師長へと向ける。


「恐れながら……聖女様には浄化の回数を抑えていただきたく」

「えー!そんなのダメ!報酬減るじゃん!」

医師長の言葉が終わるよりも早く、ベッドの上でリリアが露骨な不満の声を上げた。

「ご馳走をたらふく食べる」という目的があるのだ。勝手に仕事を減らされてはたまったものではない。

「まだできるって。元気だもん」

「元気ではありません」

医師長はリリアを叱るようにぴしゃりと言い切って、リリアの手を両手でしっかりと包み込むようにして取った。

爪の根元から指先にかけて、煤を塗り込んだようにほんのりと黒く染まった、リリアの手を。


「聖女様のお身体には瘴気が蓄積されています。文献も確認いたしましたが、過去に似たような浄化を行った聖女様はただの一人もおられぬようでした」


そうなのだ。

その事実なら、ここにいるジークヴァルドも、そしてイーサンも、血眼になって城中の書庫を調べ尽くしていた。

瘴気を体内へ取り込んだ者の記録など、どこにもなかったのだ。

先例がない。正解がない。


故に、治療法も、ない。

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