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17 【愛される聖女 後編】

リリアが一度、元いた世界へ返還されてから。

セラフィーナの周りの世界は、少しずつ、けれど確実におかしくなっていった。


最初に違和感を覚えたのは、ほんの些細なことだった。

「セラフィーナ様、本日は予定通り、午後から瘴気浄化の遠征に向かいます」

以前なら、侍女たちは彼女の姿を見るだけで、ぱっと花が咲いたように表情を輝かせていた。ドレスを褒め、白金の髪を熱心に褒め称え、まるで壊れやすい高価なガラス細工を扱うみたいに、大切に、愛おしそうに触れてくれた。


けれど、今は違う。

彼女たちに優しさがないわけではない。むしろ、以前よりもずっと慇懃で丁寧だ。

ただ――“熱”が、どこにもなかった。


セラフィーナは鏡の前で、そっと自分の頬に触れた。 今日もちゃんと可愛くしている。髪だって綺麗に巻いてもらった。微笑みだって、完璧なはずなのに。

「……変なの」

ぽつりと呟く。


リリアが還ったあの日を境に。王城の誰も彼もが、どこかおかしかった。

特に、あの四人の態度の変貌は顕著だった。


以前のカイルは、セラフィーナが少し困ったような、寂しげな顔をするだけで即座に過剰なほどの反応を示した。

彼女に危険が及ばないよう常に神経を尖らせ、まるで世界のすべてから彼女を守るように寄り添っていた。

なのに、今は。


「カイルさん、あの……」

声をかけても、カイルは一瞬だけ、酷く億劫そうに遅れてちらりとこちらを見るだけ。

「……なんだ」

返事はある。無視されたわけではない。けれど、そこには以前のような、彼女の一挙一動に一喜一憂するような必死さが、欠片も残っていなかった。


イーサンもそうだった。

以前なら、何かあるたびに「聖女様のお力があれば、何一つ問題ありません」と、狂信的とも言える絶対的な信頼を向けてきてくれたのに。

最近の彼は、冷淡な緑灰色の瞳で「ご無理はなさらぬよう。速やかに撤退の判断を」と、まるで彼女の力が最初から信用できないと言わんばかりの言葉ばかりを繰り返す。


ゲルハルトとは目に見えて、物理的な距離を感じるようになった。すれ違っても軽い挨拶だけで通り過ぎてしまう。そして皇帝であるジークヴァルドは、いつもずっと何かを酷く深く考え込んでいて、セラフィーナの存在などまるで見えていないようだった。


皆、優しい。でも。

何かが、決定的に違っていた。


(なんで……?)

胸の奥が、ざわざわする。

まるで。 世界から、自分だけ切り離されていくみたいだった。


そんな時だった。

彼女の誇りであり、唯一の拠り所であった「浄化」が、目に見えて上手くいかなくなったのは。


以前なら、本当にただ、祈るだけで良かったのだ。

胸の前で優雅に手を組み、そっと目を閉じれば、禍々しい瘴気は彼女の光に怯えるように勝手に消え失せていった。

なのに最近は、どんなに心を込めて祈っても、瘴気が消えずに残る。

一度祈っても、ほんの少し薄れるだけ。焦って、もう一度強く祈る。それでも、黒い霧はそこにしぶとく在り続ける。

「……っ!」

美しく整えられた額に、じっとりと冷たい汗が滲む。


怖かった。

自分の祈りが通じていない瞬間の、周囲の視線が。

従軍している騎士たちは、誰一人として彼女を責めない。言葉を発することすらない。けれど、その痛いほどの沈黙が、今のセラフィーナには余計に怖くて仕方がなかった。

(どうして……前は、こんなことなかったのに……っ)


どうにか浄化を無理やり終えて王城へ戻っても、待っている人々の反応は酷く薄いものだった。

「お疲れ様でした。聖女様」

淡々と、事務的に告げられる言葉。たったそれだけ。

以前のように、彼女の奇跡に涙を流して感謝を捧げる者も、彼女を神の申し子のように崇める者も、もうどこにもいなかった。


セラフィーナは、自室で一人、大きな姿鏡を見つめた。

鏡の中には、変わらずお人形のように可愛い自分が映っている。

自慢の白金の髪。神秘的な紫色の瞳。誰もが守ってあげたくなるような、可憐な顔立ち。

なのに。

どうして皆、前みたいに熱い目で私を見てくれないのだろう。

「……私、本当に何かしたのかな……」

鏡の中の自分に問いかけても、答えてくれる人は誰もいない。


そして。

最悪の空気の中で迎えた、再び召喚されたあのリリアとの、瘴気浄化遠征。

あの日。セラフィーナの中で大切に守られていた箱庭が、完全に、粉々に破壊された。


いくら祈っても、瘴気は微動だにしなかった。

何度祈っても。どれだけ全身の魔力を込めても。

黒い霧は、彼女の無力さを嘲笑うように、そこに濃密に在り続けた。


怖かった。

周囲の空気が。 期待が崩れていく感覚が。


――そして。

自分のすぐ後ろで。

リリアが、その禍々しい瘴気をじっと見つめていた。

まるで、何日も何も食べていない飢えた人間が、目の前のご馳走を見つめるような、そんなギラついた、恐ろしい目で。


「……これ、食べていいの?」

意味が分からなかった。

次の瞬間には、 もっと分からなくなった。


リリアは、 瘴気へ直接喰らいついた。

美しい祈りなどではなかった。

神聖な祝福でもなかった。

飢餓に狂った獣みたいに、生々しく、ごく、ごく、と。

黒い霧を体内へ飲み込むたび、リリアの白い皮膚の下を黒い血管が侵食していく。

リリアの捕食は止まらなかった。まるでそうしなければ死んでしまうかのように、瘴気を喰べ続けていた。


セラフィーナは、 ただ立ち尽くすことしかできなかった。


怖い。


怖い怖い怖い。


あれが聖女?


違う。 違うはずなのに。


――でも。

自分にはどうしても消せなかったあの強大な瘴気を、リリアは消したのだ。

全部。一つ残らず。完全に。


そしてその直後のリリアの様子にも恐怖した。

苦しそうだった。痛そうだった。内臓を掻きむしり、血の混じった黒泥を吐き戻して、のたうち回っていた。


セラフィーナは身体中の血の気が引くのを感じた。


帰還後。

豪奢な部屋の中で、 セラフィーナは両手を組んで震えていた。

喉の奥が恐怖で詰まって、上手く呼吸ができない。浅い呼吸を繰り返すたびに、胸が苦しくなる。


目をとじれば、頭の中に、何度も、何度も、鮮明にあの光景が蘇る。

うねる黒い霧。瘴気を飲み込むおぞましい音。リリアの、壊れたような激痛の悲鳴。


「やだ……」

大粒の涙がぼたぼたと、組んだ両手の上に落ちる。

「怖い……っ、嫌だ、怖いよぉ……っ」


もし次、 また浄化が失敗したら。

私にも、あんな恐ろしいことをしろと言うのだろうか。

あの真っ黒な毒を口から喰べて。内臓を焼かれて苦しんで。身体を黒く侵されて、壊れて――。


「……どうしたらいいの……? 誰か、誰か助けて……」

救いを求める声を上げても、返事はない。

ただ静まり返った冷たい部屋に、無垢すぎた少女の哀れな嗚咽だけが、いつまでも、小さく響き続けていた。

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