15 食あたり
「どけ!」
王城に帰還した一向は、周囲の出迎えを文字通り撥ね退け、すぐさま医務室へと直行した。
廊下に響き渡るほどの怒号を上げているのはカイルだ。その頑強な腕の中には、土気色の顔でぐったりとしたリリアが抱えられている。
無事に浄化遠征を終えて戻ったものと信じ、喜色満面で出迎える準備をしていた者たちは、何事かとただオロオロと道を開けるばかりだった。
王城医務室。
修羅の如き形相で飛び込んできたカイルと、その腕の中の惨状を見るなり、年老いた医師長は表情を険しくし、すぐさまベッドに横たえるよう指示を出した。
カイルはそっとリリアをベッドに寝かせ、その生気を失った横顔を見て、唇をぎゅっと噛み締める。
「カイル様、診察しますので退室を…」
「断る」
きっぱりと、一片の猶予も残さずに言い切ったカイルに、医師長はたじろいだ。そのアイスブルーの瞳には、有無を言わせない光が宿っていたからだ。
「……やはり」
リリアの衣服の裾を捲り、その肌を露出させた医師長は、痛ましそうに目を細めた。
リリアの指先は、煤を塗り込めたように爪の根元まで黒く染まり、そこから細い血管を伝って、禍々しい黒い筋が腕へと伸びている。
「あの時と同じかと思われます……。聖女様は、その身に瘴気を直接溜め込んでおられる」
「う……ぅえ……。気持ち、悪い……」
「……っリル!」
意識を取り戻したらしいリリアが、苦しげに胸元を掻きむしりながら嘔気を訴えた。
すかさずカイルがベッド脇に膝をつき、彼女の身体を支える。
「桶を持ってきなさい!」
医師長の指示で、助手が慌てて持ってきた木桶を、リリアはひったくるようにして奪い取った。そして、そのまま顔を突っ込むようにして、胃の腑にあるものを激しく吐き戻した。
ゴボゴボと、不浄な音を立てて木桶に黒い液体が溜まっていく。
はぁはぁと、肩を大きく上下させて息も絶え絶えになりながら、リリアは汚れた口元を細い腕でぐい、と乱暴に拭った。
上質なシーツも、自分の体も、汚れることを一切厭わないその荒んだ仕草。それを、カイルは胸を締め付けられるような苦々しい思いで見つめるしかなかった。
「水を飲め」
カイルから差し出されたコップを、リリアは青い顔のまま、じっと見つめた。その濁った瞳は、明らかな猜疑心と警戒で満ち満ちている。
「ただの水だ」
その言葉を数秒吟味し、おずおずとコップを受け取ったリリアは、一口含んで何も異常がないことを確かめると、飢えた獣のように一気にあおった。
幾分か呼吸の荒さが収まったリリアは、空になったコップをカイルの手に押し返すように帰すと、そのまま後ろへばたりと倒れるように寝転がった。
「……はは、こんなにキツい仕事だと思ってなかったわ……」
自嘲気味に、歪に口元を歪めたリリアの言葉に、カイルは何も言えなかった。
「もしかしてさ……次からも、ずっとこんなに痛いことするわけ?」
「……」
カイルは答えない。答えられない。
沈黙の返答を、リリアは静かに「肯定」と受け止めた。
「ま、いいけどね。毎食ご馳走って約束、絶対に忘れないでよね。それさえ守ってくれるなら、いくらでもやってやるから」
そう言って、現実を遮断するように布団を頭からすっぽりとかぶったリリアは、布団の隙間から手だけを出してひらひらと振った。
用が済んだなら、さっさと出ていけと言わんばかりに。
リリアの頑なな拒絶の意を汲んで、カイルは重い足取りで医務室を後にした。
扉を閉めた瞬間、背後からかすかに、再び嘔気に苦しむリリアのくぐもった呻き声が聞こえてきて、カイルは廊下で拳を強く、血が滲むほどに握りしめた。
その頃、セラフィーナは自室で祈るように両手を組んで、ガタガタと震えていた。
(怖い、怖い、怖い、怖い……!)
今までは瘴気の前に立ち、ただ神に祈れば、瘴気は彼女の力に恐れをなすように勝手に消えていってくれていた。だから、自分の力は万能なのだと、彼女は疑いもしなかった。
その聖女としての力が、実は摩耗していく「有限」のものであることに、当の本人はまだ気がついていない。
最近、浄化が上手くいかなくなってきている。
それに、周囲の人たちも、なぜか以前のように自分を女神のようには崇めず、腫れ物に触るような哀れんだような目を向けてくる。
もし、このまま祈りが通じなくなったら。
(私も、リリアさんみたいな浄化をしなきゃいけないの?)
すごく痛そうだった。苦しそうだった。
それに、何よりも。
(瘴気を食べるなんて……!)
そんな訳はないのだが、聖女によって浄化の仕方が異なることなど、これまで禄に文献を読んでもこなかったセラフィーナが知る由もない。
「こ、怖い……。やだ……、か、帰りた、い……」
誰も居ない豪奢な室内に、セラフィーナの嗚咽が響いていた。
「……以上が、今回の浄化遠征の報告です」
イーサンの淡々とした声が、静まり返った執務室に落ちる。
窓際に背を向けて立っていたジークヴァルドは、ゆっくりと、己の罪を噛み締めるように目を閉じた。机の端に腰掛けていたゲルハルトは、珍しく軽口一つ叩くことなく、苛立ちを隠せない様子で乱暴に自らの髪を掻き上げる。
そして、壁際に直立するカイルだけが、未だ医務室での険しい顔のまま、彫像のように黙り込んでいた。
「……食べた、のか」
ぽつりと零れたジークヴァルドの声は、酷く掠れていた。
瘴気を、その身に取り込んで浄化していることは知っていた。 命を削っていることも知っていた。 だが、知っていたつもりだっただけなのだ。
実際に見た者の口から語られるそれは、あまりにも凄惨だった。
祈りなどではなかった。美しい神の祝福でもなかった。
あの日、自分たちが見ていた光は、彼女が苦痛を押し隠して浮かべていた、ただの笑顔だったのだ。
飢えた獣のように毒に喰らいつき、内臓を焼かれながら苦しみ、嘔吐し、それでもなお取り込む。
自分たちが都合よく祭り上げていた奇跡とは、本当に“聖女”などという、綺麗な言葉で片付けていいものだったのか。
「……以前のリリアには、そのような姿は見られなかったと。報告書を読む限りでは。」
イーサンが静かに目を伏せる。
「浄化の後も、平然としていた。少なくとも、我々にはそう見せていたのです」
ゲルハルトが低く舌打ちした。
「無理してたに決まってんだろ。俺たちに余計な気ぃ遣って、聖女サマを完璧に演じてやがったんだ、あの馬鹿は」
その乱暴な言葉に、さらに重苦しい沈黙が落ちる。
誰も、ゲルハルトの言葉を否定できなかった。
あの少女は、自分たちの前でいつも優しく笑っていた。どんなに身体が内側から蝕まれ、激痛に引き裂かれていようとも、苦しいなどという弱音は、ただの一言も漏らさずに。
「……あいつは」
長い沈黙の末、カイルが低く口を開いた。
「『聖女』だから耐えていたんじゃない」
カイルの瞳が、鋭く細められる。
「……飢えていたんだ」
聖女だから耐えられたのではない。スラムの底で、あまりにも長く、あまりにも深く「飢え」を知っていたからこそ、あの激痛の毒液すら、腹を満たすための『食事』として咀嚼することができてしまったのだ。
その残酷な結論だけが、やけに静かに、執務室へと響いた。




