14 お仕事終了
黒い液体を吐き散らしながら、リリアは何度も激しく咳き込んだ。
「ゔ、ぇ……っ、ぁ……!」
細い背中が痛々しく痙攣するたび、カイルの腕の中でその身体が大きく跳ねる。酸素をうまく吸い込めないのか、ヒューヒューと喉が鳴っている。熱い。触れている衣服越しでも分かるほど、彼女の体温は異常に上昇していた。
「水を!」
イーサンの鋭い声に、騎士が慌てて水袋を差し出す。
だがリリアは、差し出された水を見るなり、びくりと肩を震わせた。
「……いら、ない……」
掠れた、今にも消えそうな声。唇の端からは、まだどろりとした黒い残滓が尾を引いて垂れていた。
「無理に飲ませるな。今は受け付けねえ」
ゲルハルトが低く、押し殺した声で言った。そこに、いつもの軽薄な余裕はどこにもなかった。
リリアはなおも苦しそうに自らの細い喉を掻きむしるように押さえ、浅く荒い呼吸を繰り返している。その白い首筋には、いまだ禍々しい黒い筋が、まるで生き物のように蠢きながら浮かび上がっていた。
それはまるで、瘴気そのものが血流となって彼女の血管を流れているかのようだった。
「帰還する」
カイルが短く告げる。
誰も異を唱えなかった。
帰りの馬車の中は、死んだように静かだった。
ごと、ごと、と車輪の音だけが重く響く。
リリアはカイルの隣に座らされていた。 というより、ほとんど彼の強固な腕の中に抱え込まれている状態だった。
少しでも身体を離すと、そのまま崩れ落ちてしまいそうだったからだ。
彼女の呼吸は未だ浅く、時折思い出したように苦しげに喉を震わせる。熱に浮かされているのか、焦点も定まっていない。
「……リル、水だけでも飲め」
カイルが低く囁く。
リリアはうっすら目を開け、ぼんやりと彼を見た。
「……いらない……お腹、いっぱい……」
その言葉に、馬車内の空気がさらに冷え込んだ。
いっぱい。
彼女は本当に、“食事”として認識しているのだ。
カイルの喉がひくりと震える。 だが、責める言葉など出てこなかった。
責められるわけがない。
あんなものを喰らって、 こんなにも苦しんで、 それでも彼女は、生きるために飲み込んだのだから。
リリアが小さく身じろぎした。 その拍子に、カイルの外套へ黒い染みが擦りつく。
「あ……」
リリアの顔が、恐怖で一瞬にして青ざめた。
「ご、ごめ……ごめんなさい……汚し、ちゃった……殴らない、で……」
途切れ途切れの、怯えきった謝罪。
カイルは一瞬、息を呑み――次の瞬間、張り裂けそうな衝動に駆られて、彼女の身体をさらに強く抱き寄せた。
「気にするな」
掠れるような声だった。
「そんなもの、どうでもいい」
リリアはカイルの胸に顔を埋めたまま、虚ろな目をパチパチと瞬かせた。まるで、激しく怒鳴られなかったこと、暴力を振るわれなかったことの意味が、どうしても理解できないというように。
その痛々しい様子を見て、正面の座席にいたゲルハルトがぐしゃりと自分の前髪を乱暴に掴んだ。
「……クソが」
吐き捨てるような声。
何に対しての悪態なのか、本人ですら分かっていなかった。
自分たちか。 帝国か。 瘴気か。 それとも。
今まで、彼女一人に全部押しつけていた現実か。
向かい側では、セラフィーナがずっと、歯の根も合わないほどに震えていた。
膝の上で組まれた指先は、血の気が失せるほど強く握り締められている。
宝石のようだった紫色の瞳は、大きく見開かれたまま、恐怖に何度も小さく揺れていた。
リリアを見るたびに、 あの光景が脳裏へ蘇る。
喰らう姿。 黒に侵されていく身体。 壊れたような悲鳴。
――あれが、本当の浄化?
喉が恐怖で詰まる。
怖い。怖い、怖い、怖い。
もう嫌だ。こんなところ、一秒だって居たくない。
今すぐ王都へ帰って、温かい自分の部屋に閉じこもって、今日の出来事をすべて「何も見なかったこと」にしたい。
けれど、そんな我儘を口にすることさえ、今のこの重苦しい空気の中では許されなかった。馬車の隅で、セラフィーナはただ、己の罪を突きつけられた罪人のように小さく身体を震わせ続けることしかできない。
その前でイーサンは、淡々とリリアの脈を測っていた。
「……熱がさらに上がっていますね。王都へ着き次第、医務局への連絡を」
声は冷静だった。
だがモノクルの奥の灰緑色の瞳は、酷く沈んでいる。
彼の脳裏には、 かつてのリリアが浮かんでいた。
いつも穏やかに微笑みながら浄化を成し遂げていた「完璧な聖女」としての彼女の姿が浮かんでいた。
いつも優しく、いつも前を向き、誰もが救われるような笑顔を浮かべていた少女。
――あの時も、彼女はこれほどの苦痛を、その身に宿していたというのか。
誰にもその真実を悟らせず、自分たちの期待に応えるために、あのおぞましい味を咀嚼し、平然と笑っていたのか。
イーサンは、逃げるように静かに目を伏せた。
ガタゴトと揺れる馬車の中にいる誰一人として、もう二度と、以前と同じような気持ちで彼女を見ることも、世界を語ることもできなくなっていた。




