13 ごちそうさま
「……これ、食べていいの?」
その一言が落ちた瞬間、その場が凍りついた。
「何を言って――」
イーサンが怪訝そうに眉を寄せる。
だが、その制止の言葉が紡がれるより早く、リリアは吸い寄せられるように、ふらりと一歩前へ歩み出ていた。
「おい、リル!」
カイルが咄嗟にその細い腕を掴もうと、手を伸ばす。
――ず、と。
その瞬間、濃密な瘴気の防壁が、彼の肌を焼くような激痛となって侵食した。
「っ……!」
肺の奥深くに冷たい泥を直接流し込まれたような、圧倒的な不快感。
頭を殴られたような激痛。強烈な吐き気。視界が急速に明滅する。
カイルは肉体の危険信号に、反射的に足を止めてしまった。
瘴気の中心へ近づけるのは、特別な力を持つ聖女だけ。理屈では、知識としては理解していた。
だが、目の前でリリアが、たった一人でその地獄へ歩いていく光景は、彼の本能にその事実を拒絶させた。
「リル……! 戻れ!」
張り裂けんばかりの呼び止める声にも、彼女は一度も振り返らない。
ふらふらと、足元を覚束なく揺らしながら。
まるで、極限の空腹に匂い立つご馳走へ誘われるように、彼女は黒い霧の塊へと向かって歩いていく。
瘴気は動かない。そこに、ただ生命を拒絶する毒として在るだけだ。
なのにリリアだけが、檻に閉じ込められていた飢えた獣のように、狂おしくそれへ惹かれていく。
ごくり、と喉が鳴る。
口内に、じわりと甘やかな唾液が滲んでいく。
気持ち悪い。頭が痛い。全身の細胞が、その毒を拒絶して悲鳴を上げている。
それでも。
(お腹、空いた……。ずっと、ずっと空いてたんだ……)
生まれてから、彼女はずっと飢えていた。
まともに腹が満たされることなんて、ただの一度もなかった。
男たちに殴られ、道具として使われ、奪われ、ひたすら空腹を抱えて泥のように眠る毎日。
だからだろうか。
目の前で鎌首をもたげる禍々しい瘴気が――城で出されたどんな贅沢な料理よりも、焼きたてのパンより、温かいスープより、何よりも“美味そう”に見えた。
「リリアさん……?」
背後で、セラフィーナが怯えたような声を漏らす。
リリアは答えない。ただゆっくりと、その細い両手を黒い霧へと伸ばした。
その瞬間、ぶわり、と意思を得た瘴気が、待ってましたとばかりに彼女の細い腕へと絡みつく。
周囲の騎士たちが、恐怖に息を呑んだ。
以前の、彼らが知る「浄化」であれば、ここで彼女の身体から淡く清らかな光が溢れ出すはずだった。
祈り。祝福。世界を救う神々しい奇跡。
――だが。
リリアは祈りなど捧げなかった。
「あー……」
小さな吐息を漏らし、がぶり、と。
野良犬のように、その凶悪な黒い霧へと直接噛みついた。
「――ッ!?」
誰かが、言葉にならない悲鳴を上げた。
粘ついた意思を持つ黒が、リリアの口元から、抉じ開けられた喉を伝って体内へと怒涛の勢いで流れ込んでいく。
ごく、ごく、と。
毒液を貪り飲む生々しい音が、静まり返った瘴気地帯に、おぞましく響き渡った。
「ん……は……っ」
リリアの喉が激しく上下する。
恍惚としたようにその瞳は蕩け、口端からは収まりきらない黒い靄が漏れ出していた。
美味しい。身体がぞくぞくするほどに。
胃袋が、内臓が焼けるように熱いのに、身体の底にある本能が歓喜に震えていた。
もっと。もっと欲しい。早く私を、この空腹を満たして。
ずっと空っぽだった内側が、おぞましい毒によって、ようやく、ようやく満たされていく。
「リル――!!」
カイルが狂ったように叫ぶ。
その声の先で、彼は「真実」を見てしまった。
黒。
リリアの白い首筋から、血管の形に沿って、禍々しい黒い筋が浮き上がっていく。
指先、喉、そして頬。
まるで猛毒が全身を侵食していくように、じわじわと、けれど確実に黒い染みが広がっていく。
――ああ。
カイルの脳裏に、あの医務室の記憶が鮮烈に蘇る。
倒れたリリア。眠るリリア、白い長手袋に隠されていた、黒く蝕まれていた彼女の両腕。
あの悍ましい黒――あれは、汚染などではなかった。
(彼女は……瘴気を、自分の身体に『取り込んで』いたのか……!?)
理解した瞬間、カイルの心臓に握り潰されたような痛みが走った。
浄化などという綺麗な言葉の裏で、彼女はずっと、こんな猛毒を体内へ直接喰らっていたのだ。
誰にもその苦痛を見せず。ただ、平然と微笑みながら。
リリアが、さらに深く瘴気へと喰らいつく。
それは聖女の姿などではなく、飢餓に狂った哀れな獣そのものだった。
黒い霧が、物理的な音を立てるようにして、彼女の口内へと吸い込まれていく。
そして――。
あれほど大地を侵していた瘴気が、綺麗さっぱりと消失した。
その瞬間。
「っ、う、ぁ――!!」
リリアの身体から骨が抜けたように、糸の切れた人形みたいに地面へ崩れ落ちた。
「リル!!」
カイルが遮るもののなくなった空間を駆け出す。瘴気による拒絶もなく、今度はすぐにその身体を抱きとめることができた。
地面へ膝をついたリリアは、自らの喉を掻きむしるようにして激しく咳き込み、次の瞬間、
「ぅ、ぇ……ッ! げほっ、」
びしゃびしゃと、床に大量の黒い液体を吐き戻した。
「がっ……ぁ……!!」
全身が硬直したように痙攣する。
喉の奥からは壊れた玩具のような悲鳴が漏れる。
「痛、ぁ……ッ、ぁぁああ!!」
冷たい地面を爪が剥がれるほどに掻き毟りながら、リリアはのたうち回った。
それはまるで、今しがた無理やり詰め込んだ何かが、彼女の肉体の内側から臓腑を食い破ろうと暴れているようだった。
騎士たちの顔から、完全に血の気が引いていた。
セラフィーナは青ざめたまま両手で口元を押さえてへたり込み、ゲルハルトは眼前の光景を見つめたまま絶句し、イーサンはモノクルの奥で、壊れた機械のように目を見開いていた。
誰も、知らなかった。
自分たちが都合よく祭り上げ、奇跡と呼んでいた聖女の浄化が、これほどまでに凄惨な地獄だったということを。
「っ、リル! 息をしろ、リル!」
カイルは、激しくのたうち回る彼女の身体を必死に抱き起こした。
腕の中に伝わる彼女の体温は、異常なほどに熱い。沸騰しているかのようだった。
血管を駆ける黒い筋はまだ消えず、彼女の白い肌を醜く侵し続けている。
それでも。
リリアは、激痛による涙で濁った視界のまま、カイルの顔を見上げ、かすかに、本当に嬉しそうに笑った。
「……おいしかった……。ごちそうさま……」




