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12 いただきます

瘴気の数が増えた。


執務室で報告を聞いたジークヴァルドは歯を食いしばるように薄ら笑いを浮かべた。

「……一刻の猶予もない、か……」

イーサンは小さく頷いた。

「浄化に向かわせましょう。実施研修です」

聖女への伝令、騎士の配置。

まるで当然の流れかのように淡々と準備を進めるイーサンを見ながら、ジークヴァルドは腹部をさすった。

「お前の胃痛がうつったかな……」


皇帝執務室に呼ばれたリリアは、皇帝にも、その背後に立つ両翼ーーゲルハルトとカイルーーにも、イーサンにも目もくれず、隣に立つ美少女をマジマジと眺めていた。

緩く波打つプラチナブロンドの長い髪。

その奥で輝く紫色の瞳は、まるで磨き上げられた本物の宝石のようだった。

「すっごい美少女……」

ポツリと呟くと、その少女は恥ずかしそうに頬を染め、「えへへ」と無邪気に笑った。

「リリアさん、一緒にがんばりましょうね!」

まるで花が咲いたかのように可憐に笑う少女に、リリアは若干体を引いた。

(宝石みたいな女の子……。私とは大違いだ)


「彼女はセラフィーナ。現在の聖女です」

イーサンが、二人の間に割って入るように告げる。

「リリア、今回は瘴気浄化の遠征に、貴方にも同行していただきます」

「ショーキ? ジョーカ? ……ああ、あの時みんなが言ってた仕事ね」

よく分かっていない様子のリリアに、イーサンはただ頷くことで返事をした。


「瘴気に近づき、影響を無効化できるのは聖女のみです。道中の護衛は当然万全を期しますが、正直に申し上げますと、現地での護衛は殆ど意味を成さないとお考えください」

イーサンはモノクルをくいと上げ、苦渋を滲ませて眉間に深い皺を寄せた。


「危なそうね。でも、その分、終わったら報酬が良くなるってことよね?」


リリアの嬉しそうな、弾んだ声音。

その瞬間、部屋にいた男たちの顔色が、一斉に目に見えて暗くなった。


危ない。

確かに危ないのかも知れない。

浄化という行為が、リリアの命を奪うかも知れないのだから。



馬車が王都を離れるにつれ、窓の外の景色は徐々に色を失っていった。


最初はただ曇っているだけだと思っていた空が、やがて煤を塗り込めたような、不吉な灰色へと変わっていく。

街道沿いの草木は黒ずみ、ところどころが腐ったように崩れ落ちていた。


「……うわ、何これ。気持ち悪い」

窓の外を覗き込んでいたリリアが、露骨に眉をしかめる。

向かいに座るイーサンは淡々と口を開いた。


「瘴気汚染区域です」

「ショーキって、黒い煙みたいなやつじゃないの?」 「視認できるほど濃いものは一部です。土地そのものが侵され始めると、このような状態になります」


リリアは窓に額を寄せた。

畑だったらしい場所は、土ごと腐ったようにひび割れている。 木々は葉を落とし、枝は捻じ曲がり、まるで苦悶の声を上げているようだった。


「作物も育ちません。家畜も死ぬ。人間も長く留まれば精神も肉体も病み、やがて死にます」

「へぇ……」

「“へぇ”で済ませる話ではないのですが」

「いや、だって実感ないし……」

リリアは正直に言った。


スラムにも、これ以上に酷い場所は山ほどあった。

疫病、絶えない腐臭、行き倒れの死体、骨が浮き出るほどの飢え。

それらに比べれば、ただ風景が灰色に染まっているだけの大地など、まだ現実味が薄かった。


「つまり、そこを聖女サマが何とかするわけ?」

「はい!」


ぱっと顔を輝かせ、元気よく答えたのはセラフィーナだった。


「瘴気は、聖女の祈りで浄化できます! 私たちの祈りが届けば、すぐに元の綺麗な土地に戻るんですよ!」

花が咲くような、濁りのない笑顔。信じることを疑わない柔らかな声音。

以前なら、その場の誰もが安心しただろう。


だが今、この馬車の中で、それに笑顔を返した者はいなかった。


「最初は怖いかもしれませんけど、大丈夫ですよ! すぐ慣れますから!」

「ふーん……」

リリアは曖昧に頷く。


その横で、カイルだけがじっと窓の外を睨んでいた。 組まれた両腕に、不自然なほど力が入っている。


やがて、馬車が重い音を立てて停止した。

扉が開いた、その瞬間――。


「っ……」


リリアの顔色が変わった。


肺の奥に、冷たく、酷く不潔な泥を無理やり流し込まれたような感覚。

ぞわり、と全身の産毛が逆立ち、鳥肌が立つ。


「リリア、大丈夫か?」

隣のゲルハルトが、異変を察知して心配そうに顔を覗き込んできた。


返事が、できない。

喉の奥がひくひくと不随意に痙攣し、強烈な吐き気とも、あるいは強烈な空腹ともつかない、得体の知れない衝動がせり上がってくる。


前方の歪んだ空間。

そこには、遠くに見えたあの黒い霧が、物質的な質量を持ってとぐろを巻いていた。

ゆらゆらと不気味に揺れるそれは、まるで意思を持つ生き物のようだった。


「あれが……瘴気……?」

掠れた声で呟く。


その瞬間。


どくん、と。

彼女の腹の奥が、かつてないほど激しく脈打った。

「……っ!」


反射的に、胃のあたりを強く押さえる。

吐き気がする。気持ち悪い。

なのに。


どうしても、あれから目が離せない。


まるで腹を空かせた獣みたいに、本能があれを見つめていた。


「セラフィーナ様、お願いします」

従軍していた騎士の声に、セラフィーナが凛とした面持ちで一歩前へ出た。

「はいっ」

彼女は両手を胸の前で厳かに組み、祈るように静かに目を閉じる。

次の瞬間、淡く清らかな光が彼女の身体を包み込んだ。誰もが平伏したくなるような、神々しい光景。


――の、はずだった。


黒い霧は、ほんのわずかに薄れただけだった。


「……っ…」

セラフィーナの顔から笑みが消える。


もう一度。今度は、さらに強く祈る。

彼女の祈りに応じるように、聖なる光が強く弾けた。

だが、結果は同じだった。


瘴気は晴れない。

それどころか、黒い霧は嘲笑うようにゆらゆらと揺れている。


「ぁ……」

セラフィーナの、薄桃色の唇が小刻みに震え始めた。

額には大粒の汗が滲み、呼吸は浅く、荒くなっていく。

それでも彼女は、聖女としての威厳を保とうと、無理やり歪な笑顔を作ろうとしていた。


「だ、大丈夫です……っ、もう一度……もう一度やれば、きっと……!」


その痛々しい姿を見て、周囲の騎士たちの空気が、静かに、絶望的に沈んでいく。

誰も口には出さない。だが全員、理解していた。


――彼女はもう、限界だ。


その時だった。

ざわり、と黒い瘴気が揺れた。

まるで、何かを見つけたように。

ゆっくりと地面を這うように、セラフィーナを無視して、後方にいるリリアの方へと伸びようとしているようだった。


「っ……下がれ!」

カイルが反射的に剣を抜き、リリアの前へと躍り出た。

だが、リリア自身は一歩も動けなかった。恐怖で竦んだのではない。


怖い。確かに、おぞましくて怖い。

なのに。

腹の奥が、焼けるように熱い。

じわじわと、口内に唾液が溜まり、喉が鳴る。


カイルの背越しの視界の端で。

あの禍々しいはずの黒い霧が、やけに甘く、信じられないほどに美味そうに見えた。


「……なに、これ」

自分の身体が、自分のものじゃないみたいだった。 脳が、胃袋が、あの毒塊を求めて叫んでいる。


そして。

リリアは小さく、こみ上げる唾を飲み込んだ。


彼女にとってそれは、売春宿の男に「終わったらやる」と言われていた、あのパンと同じ――いや、それ以上の、強烈な「食事」の誘惑だった。


「……ねえ」

リリアは、自分を守ろうと剣を構えるカイルの背中を、虚ろな目で見つめた。


「……これ、食べていいの?」


その一言が放たれた瞬間、カイルの背中が、凍りついたように硬直した。


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