11 【黄金の冠 後編】
それから二年が経った。
主君の誕生日を目前に控えたある日。イーサンは、スラムへ行くと言い出した主の後を追い、共に城を抜け出した。
脱出経路を綿密に計画していたイーサンだったが、帝国の警備はもはや機能すらしておらず、呆気ないほど簡単に外の世界へ出ることができた。
初めて足を踏み入れたスラムの惨状に、イーサンは絶句した。
言いようのない悪臭。
横に立つジークヴァルドは、かつて見たような、殺気にまみれた獣の瞳をしていた。
ゴミ捨て場の一角で、物言わぬ死体のように横たわる少年の影。
「我々よりも少し年上に見えますが……あのような子供までもが、あんな生活を……」
そう呟いたイーサンの横で、ジークヴァルドは迷わず手を差し伸べた。
危険だと止める間もなかった。
(……ああ、そうだった)
イーサンは胸中で悟る。
この方は今、喉が焼けるほどに「味方」を欲している。血筋も、身分も、過去も関係ない。
共に地獄を這い上がり、腐った世界を壊すための爪を求めているのだ。
(……ならば私は、その爪を研ぐ砥石になろう)
「この帝国を壊さないか?」
赤髪の少年はゆっくり顔を上げた。
その瞳は死んでいなかった。むしろ――燃え盛る炎のようだった。
「……面白えこと言うじゃねえか、クソガキ……」
そうして彼らは、赤髪の獣――ゲルハルトを手に入れた。
勢力を伸ばし始めたジークヴァルドを、皇帝派が疎ましく思い、命を狙い始めるまでに時間はかからなかった。
イーサンは即座に、反皇帝派の筆頭・ヴァルテンベルク家へ伝書を飛ばした。
自分は武官ではない。刃を振るって主を守るには、限界がある。ならば、最強の盾と剣を外部から引き入れる。
ヴァルテンベルク家から「拝謁」の快諾が届いた時、イーサンは暗闇の中で安堵の息を漏らした。
(これで、主の命を守れる)
剣は必要だ。
圧倒的な剣が。
これでまた、主のために「駒」を増やせる。
イーサンが成人し、主もまた十六歳の誕生日を迎えた。
決起の時は、今だ。
着実に外堀を埋め、反皇帝派閥の足並みを揃え、武器を、そして覚悟を研ぎ澄ませてきた。
ゲルハルトとカイルには、城内の「ゴミ」の掃除を命じた。
迷いのない足取りで、血飛沫の舞う廊下を進むジークヴァルド。イーサンはその背を追いながら、冷徹に思考を巡らせる。
これから、歴史に「皇帝殺し」という大罪を刻むのだ。
この人と、共に。
皇帝の寝室。ジークヴァルドの動きは神速だった。
瞬きする間に寝台の上の狂王を刺し貫き、逃げ惑う女たちにはイーサンが容赦なく刃を向けた。
息絶えた「かつて皇帝だった肉塊」を見下ろすジークヴァルドの目から、滝のような涙が溢れ出した。
その光景を見た瞬間、イーサンの脳裏にすべてが蘇った。
優しく頭を撫でてくれた、処刑された父。
母親の首が入った箱を、静かに撫でていた幼い皇子。
悔しくて、悲しくて、やるせなかった日々の記憶が、今、ようやく昇華された。
「首を取られませ」
いつの間にか、イーサンの目からも涙が溢れ、止まらなくなっていた。
ああ、ようやく。
ようやくこの方の頭上に、真の光を放つ冠を乗せられるのだ。
「紅茶が美味しいね」
そう言って微笑むジークヴァルドに、イーサンは緑がかった灰色の目を細めた。
新皇帝が誕生してから、今日まで。
腐敗した内政を立て直し、民の生活を安定させる。その目まぐるしさに忙殺され、おかげで慢性的な胃痛を抱えることになった。
だが、後悔など微塵もない。あの夜の決断は、正解だった。
今は、空気が驚くほど美味い。
「イーサン! これ、おかわりねえのかよ?」
口いっぱいに菓子を放り込んだゲルハルトに、イーサンは深いため息をつく。
左目にかけたモノクルを指で直しながら、静かに、けれど逃げ場のない声を向けた。
「ゲルハルト……」
「……っ!」
「それは陛下のための菓子であって、貴方のためのものではないのですが?」
「あ、あー……! そうだ、稽古、稽古行かなきゃなんねえんだ!」
そそくさと逃げ出した獣の背中を見送り、ジークヴァルドは声を上げて笑った。
「逃げられたね」
「全く、騒がしい男です」
空を見上げたイーサンの視界には、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
あの日、願った未来が、確かにここにはあった。
――だからこそ。
後に帝国を覆う“瘴気”が、 どれほど残酷な形で彼らの理想を踏みにじるのかを、 この時のイーサンはまだ知らない。
そして。
その地獄の中心に、 一人の異界の少女を立たせることになる未来も。




