第8話 聖女の泥遊び
特級迷宮『絶望の箱庭』の監視室の空気は、またしても重苦しいものになっていた。
監視水晶には、眩いばかりの純白の法衣に身を包んだ一人の少女と、彼女を護衛する屈強な3人の騎士たちの姿が映し出されていた。
少女の周囲には淡い金色のオーラが漂っており、迷宮内に残留していた微弱な毒気や瘴気が、彼女に触れた瞬間に浄化されて消え去っていく。
「……おい、ヴィオラ。あいつは確か、人間の国で神の御使いと崇められている『聖女』じゃないのか?」
グンツがこめかみを押さえながら尋ねると、営業担当のサキュバスであるヴィオラは、悪びれる様子もなくウインクをした。
「ええ、その通りよ。人間界の教会が誇る最高戦力の一人、聖女ルミナス率いる特級討伐隊ね。私が『この迷宮の奥深くに、かつて失われた神聖な遺物が眠っている』って少しだけ噂を流したら、見事に食いついてくれたわ!」
「馬鹿野郎! 聖女のパーティなんて、今のうちの防衛設備でどうやって止めるんだ!」
グンツの怒声が監視室に響く。
経理担当のリーゼロッテが、冷徹な手つきで鉄のバインダーを開いた。
「ギルドのデータによれば、聖女ルミナスの固有スキルは《完全浄化》と《状態異常無効》。あらゆる毒、麻痺、呪い、睡眠などの魔法的な状態異常を完全に無効化し、味方全体にその加護を与えます。つまり……」
リーゼロッテが淡々と事実を述べる横で、いつの間にか監視室にやってきていた研究開発部のセリアが、残念そうに大きなため息をついた。
「当迷宮に設置されている毒矢、麻痺ガス、呪いのトラップなどの魔法的な罠は、彼女たちの前ではただのそよ風に等しいということですわね。私が徹夜で調合した『猛毒の胞子』も、彼女の聖なるオーラの前では発芽すらいたしませんわ」
「その通りだ。魔法的な罠はすべて無力化される」
グンツは腕を組み、鋭い眼光で水晶を見つめた。
「だが、魔法が効かないからといって防衛を諦めるわけにはいかない。予算はどうなっている、リーゼロッテ」
「現在の防衛予算は、厳密に金貨0枚です。昨日、ステラさんが持ち込んだ出所不明の怪しげな壺の鑑定費用として、予備の銅貨すら使い切りました。新たな迎撃ゴーレムを買う資金も、特殊な素材を仕入れる余裕も一切ありません」
リーゼロッテが眼鏡のブリッジを押し上げ、絶望的な数値を突きつける。
「予算ゼロで、状態異常無効の聖女を撃退しろ、か。……上等だ」
グンツの右目が青白く光り、《構造解析》のスキルが発動した。迷宮内の地形データと、放置されている残骸のデータが彼の脳内に猛スピードで展開されていく。
「状態異常という概念は、あくまで体内に入り込んだ毒素や魔力による生理機能の低下を指す『魔法的』な現象だ。なら、魔法ではなく、純粋な『物理法則』で彼女の動きを封じるまでだ。……少し現場へ行ってくる」
グンツが立ち上がって作業用ベストを羽織ると、リーゼロッテが怪訝そうな顔をした。
「現場へ行くのは構いませんが、罠を一から造るとなればオークたちの力が必要です。彼らには昨日まで水路の拡張工事で無理をさせました。これ以上の突貫工事は、ゼノビアさんの労務監査に引っかかりますよ」
「わかってる。だからオークたちは休ませておけ。これから造る罠は、俺一人の魔法と、この迷宮に元からある『不要な地形』だけで十分事足りる」
グンツは愛用のヘルメットを被り、足早に監視室を後にした。
★★★★★★★★★★★
グンツが向かったのは、迷宮の第5層にある広大な未開拓エリアだった。
そこには、前任の総監督が個人的な大浴場を造ろうとして途中で予算が尽き、ただの巨大な窪地として放置された空間が広がっていた。長年の放置により地下水が染み出し、窪地はすでに広大でドロドロの泥のプールと化している。
そしてその真上にあたる第4層の床には、以前の迷宮拡張工事の際に出た、行き場のない大量の「残土」の山が放置されたままになっていた。
「前任者のずさんな管理も、見方を変えれば立派な兵器になる」
グンツは《即時建築》の魔法を起動した。
彼は窪地の底の岩盤をすり鉢状の急斜面に変形させ、泥の粘度を地下水と混ぜ合わせて均一に調整していく。
さらに、真上の第4層の床と第5層の天井を貫くように巨大な配管を即席で造り上げ、残土の山を支える床部分を「開閉式の巨大ハッチ」へと作り変えた。
オークたちに一切の肉体労働をさせることなく、わずか数時間で、現場に放置された地形と廃材だけを利用した『死の罠』が完成したのである。
★★★★★★★★★★★
それから間もなくして、聖女ルミナス率いる討伐隊は、迷宮の第4層から第5層への連絡通路まで順調に進軍していた。
彼らの足元には、作動して粉々になった毒矢の残骸や、浄化されて無害な水蒸気と化した麻痺ガスの発生装置が転がっている。
「ふふっ、魔王軍の特級迷宮と聞いて警戒しておりましたが、恐るるに足らずですね」
聖女ルミナスが、高慢な笑みを浮かべて杖を掲げる。
「この程度の邪悪な罠など、神の加護を受けた私の前では警戒するに値しません。さぁ、勇敢なる騎士たちよ。このまま最深部まで一気に浄化を進めましょう!」
「はっ! 聖女様のお心のままに!」
騎士たちが士気高く叫び、第5層へと続く大扉を蹴り開けた。
その先には、広大なドーム状の空間が広がっていた。床一面には、何やら黒っぽく濁った土が敷き詰められている。
「止まってください、聖女様。床の様子が変です。毒の沼かもしれません」
先頭を歩いていた騎士が警戒し、足を止める。
しかし、ルミナスは鼻で笑った。
「毒の沼? 愚かな。私の《状態異常無効》の加護は、いかなる猛毒であろうと完全に無効化します。このような低俗な罠など恐れません。堂々と進みなさい!」
聖女の言葉に勇気づけられた騎士たちは、躊躇いなくその黒い土の上へと足を踏み入れた。
ルミナス自身も、純白の法衣の裾を揺らしながら彼らに続く。
しかし、彼女が数歩進んだその瞬間だった。
ズブッ、という嫌な音と共に、彼女の足が足首まで黒い土の中に沈み込んだ。
「きゃっ!? な、何ですかこれは……」
彼女が足を抜こうと力を入れた瞬間、さらにズブズブと膝下まで一気に沈み込んでいく。周囲の騎士たちも同様に、重い金属鎧の自重によって腰のあたりまで急激に泥の中に飲み込まれていた。
「これは毒ではありません! ただの……泥です! しかも、異常に粘り気の強い底なし沼です!」
騎士の一人が叫ぶ。
監視室の水晶越しに、グンツが冷酷に呟いた。
「その通りだ。ただの泥だよ」
グンツの用意した罠の全貌が、そこで初めて明らかになる。
「聖女の《状態異常無効》は確かに強力だ。毒や麻痺の判定はすべて弾かれる。だがな、『泥に沈む』というのは状態異常ではない。ただの『質量』と『粘度』と『重力』による純粋な物理現象だ。魔法で泥の性質を変えたり、呪いをかけたりしていない以上、お前のチートスキルには一切反応しない」
「抜け、抜けないぞ! 足が底につかない!」
「聖女様、加護を! 何か魔法を!」
騎士たちが泥の中でもがき苦しむが、動けば動くほどすり鉢状の地形の中心へと滑り落ち、さらに深く泥に沈んでいく。
ルミナスはパニックになりながら杖を振り回した。
「《完全浄化》! ええい、なぜ効かないのですか!」
神聖な光が幾度となく泥沼を照らすが、当然ながら泥は泥のままである。物理的な泥を魔法で浄化して消し去ることなど不可能だった。
「お、おのれ魔王軍! このような卑劣な罠を仕掛けるとは!」
泥まみれになったルミナスが、純白の法衣をドロドロに汚しながら絶叫する。
それを見たグンツは、無慈悲に手元のレバーを引いた。
「まだ終わってないぞ。追加の資材投下だ」
ゴゴゴゴゴッ、という重低音が響き、ドームの天井部分に設置されていた巨大なハッチが開いた。
そこから降り注いだのは、第4層に放置されていた大量の残土であった。
「なっ……上から土が!?」
「ぎゃあああっ!」
大量の土砂が、泥沼でもがく聖女と騎士たちの頭上へと容赦なく降り注ぐ。
それは魔法的な攻撃ではなく、ただの物理的な『生き埋め』であった。
「ぶくっ、ごぼっ……!?」
泥と土砂がルミナスの口や鼻を塞ぐ。
肺に空気が入らなくなり、強烈な息苦しさが彼女を襲う。
「神の加護でいかなる毒を防げても、人間の呼吸の仕組みそのものを変えられるわけじゃない。呼吸ができなければ、加護も意味がないな」
グンツの冷徹な言葉が、監視室に響く。
「ひぃっ、た、助け……ごぼぼっ」
もはや魔法を詠唱することすらできず、ルミナスは半狂乱になりながら腰のポーチから帰還の転移石を探り当てた。
泥まみれの手でなんとか転移石を叩き割ると、淡い光が彼らを包み込む。
光が晴れた後、底なし沼には泥に沈みかけた彼らの荷物と、静寂だけが残された。
★★★★★★★★★★★
「……対象の完全離脱を確認。これで防衛完了だ」
グンツは監視室のパイプ椅子に深く腰掛け、大きく伸びをした。
「お見事です、グンツさん。放置されていた窪地と残土を利用しただけですので、今回の防衛にかかった資材費用は完全に金貨0枚です。圧倒的な利益率ですね」
リーゼロッテがバインダーに数値を書き込みながら、満足げに頷く。
「ええ、とっても素晴らしい光景でしたわ! 状態異常無効の聖女様が、ただの泥まみれになって窒息しかけるなんて……物理の力って、本当に恐ろしいですのね」
セリアも水晶の映像を録画しながら、うっとりとした表情を浮かべている。
「ま、結果オーライね! 私が呼んだ聖女のドロップ品、泥の中にたくさん沈んでるから、後でステラに頼んで高く売っておくわ!」
ヴィオラがちゃっかりと捕らぬ狸の皮算用をしている。
「ああ、好きにしろ。……だがな」
グンツは立ち上がり、深くため息をついた。
「この広大な底なし沼と、天井から落とした大量の土砂……。これを元の状態に片付けるための『泥掃除』を誰がやると思ってるんだ? オークたちをこんな泥まみれの作業で疲労させるわけにはいかないし、結局俺が魔法で少しずつ固めて外へ運び出すしかないんだぞ」
防衛には見事に成功し、予算も一切かからなかった。しかし、その代償として莫大な量の事後処理という肉体労働が現場監督の両肩に重くのしかかっていた。
特級迷宮建築士の抱える苦労の種は尽きることなく、彼の平穏な休日と定時退社の夢は、またしても泥の底へと深く沈んでいくのだった。




