第58話 魔導重機のオーバーヒート
ステュクス大河の谷間を吹き抜ける強風は、相変わらず鼓膜を圧迫するほどの風圧を保っている。
しかし、オークたちの作業ペースが劇的に上がったことで、現場では別の箇所に致命的な負荷が生まれていた。
「……油圧の反応が遅い。魔力炉の出力が落ちてるぞ」
地上50メートルの空域。大型魔導クレーンの操縦席で、レイラがインカム越しに唸った。
彼女は操縦桿を握る手に汗を滲ませ、計器盤の端で点滅を始めた赤い警告ランプを睨みつけていた。足元からは、魔導エンジンの不規則な振動が絶え間なく伝わってくる。
オークたちのボルト締めと溶接のペースが上がり、次々と橋桁の部材と、それを固定するための魔導コンクリートのホッパーが要求される。レイラは彼らの要請に遅れまいと、数十トンもの質量を吊り上げた状態での旋回と降下を、朝からほとんど休むことなく限界に近い速度で反復し続けていた。
魔界特有の乱気流が、容赦なく巨大なアームを揺さぶる。レイラはペダルとレバーを同時に操り、空中に浮いた重いホッパーの重心をミリ単位で制御していた。一瞬でも気を抜けば、ワイヤーの張力がバランスを崩し、最悪の場合はクレーンごと大河へ引きずり込まれる。彼女はヘルメットの奥で鋭い視線を保ち、全身の筋肉をバネのように使って機体の暴れをねじ伏せていた。
何時間もレッドゾーンで稼働し続けている巨大な魔導エンジンの冷却用魔力水は、とっくに沸点を超えている。分厚い装甲越しに焼け焦げるような熱が伝わってくる。シリンダーの隙間からは、オイルの焼ける嫌な匂いとチリチリという金属が焼け焦げる音が漏れ出していた。高負荷による軋みが、風の音に混じって不気味に響く。
「グンツ、あと何回だ」
「ホッパーであと2回。この区画のコンクリートは、今ここで一気に打ち切らなきゃならない」
仮設足場の先端で図面とコンソールを監視していたグンツが、右目の《構造解析》を稼働させたまま短く返した。
途中で打設を止めれば、コンクリートの間に脆い継ぎ目ができる。激流に耐える橋脚において、そんな弱点は絶対に許されなかった。もしここで作業を中断し、半端な状態でコンクリートが固まってしまえば、これまでの基礎工事のすべてが水の泡となり、橋脚ごと破棄して一からやり直さなければならなくなる。
「わかってるよ。最後まで運ぶさ」
レイラがアクセルペダルを踏み込む。クレーンの巨大な魔導エンジンが苦しげな重低音を響かせ、鋼鉄のワイヤーが極限まで張り詰めて軋みを上げた。
空中のホッパーが定位置へと移動し、オークたちがバルブを開いてドロドロの重いコンクリートを型枠へと流し込んでいく。その間も、レイラはクレーンのアームの姿勢を強風の中で正確に維持するため、エンジンの出力を微調整し続けなければならない。彼女の額から流れた汗が、目に入って小さく瞬きを強要する。
バシュゥゥッ!
エンジンの冷却ラインの安全弁が圧力に耐えきれずに吹き飛び、高温の蒸気と黒煙がクレーンの後部から勢いよく噴き出した。
「レイラさん、温度が限界を超えました! これ以上はシリンダーが溶けます!」
地上で計器を見ていたリーゼロッテが、声を張り上げた。彼女の叩く計算用の魔導具から、危険を示す赤い数値が次々と弾き出されている。
「……ダメだ、バルブは開いてる! 今アームを戻せば、コンクリートが足場にぶち撒けられるぞ!」
レイラは黒煙に巻かれながらも、操縦桿から決して手を離さずに叫び返した。ここで手を離せば、数十トンのコンクリートが下で作業しているオークたちの頭上に降り注ぐことになる。防塵ゴーグルの奥で、彼女の瞳は焦りと責任感に燃えていた。
「グンツ。エンジンを強制的に冷やせますか」
ゼノビアが、吹き付ける風と黒煙の中で静かに問う。彼女の目は、最悪の事態に備えてオークたちを退避させるタイミングを計っていた。
「ただの水じゃ追いつかない。熱膨張した金属に急激に水をかければ、歪みが生じてエンジンブロックそのものが割れる」
グンツはコンソールから手を離さず、背後を振り返った。
「セリア。あれ、持ってきているな」
コンソールの影で、強風に白衣をバタバタと靡かせながら縮こまっていたセリアが、ビクッと肩を震わせた。彼女の手には、銀色の分厚い断熱ケースが抱えられている。
「試作型の冷却ジェルです! でも直接金属に触れると、温度変化で素材が割れてしまいますわ!」
セリアが顔を青ざめさせながら答える。彼女の言う通り、周囲の熱を一瞬で奪い尽くす異常な冷却能力を持つそのジェルは、使い方を間違えればクレーンの装甲そのものを脆く変質させ、完全破壊しかねない諸刃の剣だった。
「問題ない! 排気ファンを逆回転させて吸気モードにする! ブレードにジェルを叩きつけて、冷気だけをエンジンに送り込むんだ!」
「そんな無茶な……!」
「レイラ、排気口のファンを逆回転させる! 吸気モードに切り替えろ!」
グンツはセリアの悲鳴を遮り、自らの魔力をコンソールを通じてクレーンの制御系に直接叩き込んだ。現場の危機は、机上の理論よりも一瞬の決断を求めている。
「無茶苦茶やりやがる! 了解だ!」
レイラが操縦席の計器を力任せに切り替える。排気のための巨大なファンが、一瞬の凄まじい金属の軋みの後に逆回転を始め、周囲の空気を猛烈な勢いで吸い込み始めた。
「セリア、今だ!」
「ひぃっ、は、はいぃっ!」
セリアの顔は蒼白で、震える手は分厚い断熱ケースのロックを外すのにも手間取っていた。しかし、彼女は逃げなかった。自分が調合したこの危険な物質が、今、現場の命運を握っていることを理解している。
セリアは中から取り出した青白い半透明のジェルが入った太いシリンダーを、両手で抱え込んでクレーンの吸気口に向かって力いっぱい投げつけた。
グンツの《即時建築》による魔力誘導が、強風に煽られてブレそうになるシリンダーの軌道を正確に補正する。シリンダーは吸気口のブレードの直前で見事に破裂し、中のジェルが高速回転するファンにべったりと張り付いた。
空気に触れたジェルが、爆発的な反応を起こす。
ファンが吸い込んだただの強風が、極低温の冷気へと変換され、オーバーヒート寸前だったエンジンブロックへと直接叩きつけられた。
「グォォォォォォォォッ!」
白煙を上げていた巨大なエンジンが、急激な温度低下によって悲鳴のような金属音を上げた。
熱膨張で歪みかけていたシリンダーが物理的に引き締められ、融解寸前だった魔力回路の伝導率が一瞬にして回復していく。噴き出していた黒煙はピタリと止み、クレーンの鼓動が本来の力強さを取り戻した。
「……温度低下確認。規定値内に収まりました」
リーゼロッテの報告を聞き、グンツは小さく息を吐いた。
「出力戻った! 最後の流し込み、終わらせるぞ!」
レイラが操縦桿を引き絞る。息を吹き返した魔導クレーンが、アームの姿勢を完璧に立て直し、残りのコンクリートを狂いなく型枠の中へと流し切った。
「……打設完了」
グンツがインカムで現場全体に告げると、過酷な作業を耐え抜いたオークたちから安堵のどよめきが上がった。
★★★★★★★★★★★
すべての機材を安全な位置まで後退させ、稼働を完全に停止させた頃には、すっかり日が落ちていた。
冷え切った仮設テントの中。暖房用の魔力ストーブが赤々と点っているが、極度の緊張と連続稼働で、グンツもレイラも立ち上がる気力すら残っていなかった。外では相変わらず、ステュクス大河が怒り狂ったような轟音を立てて流れている。
「……悪いな、グンツ。今日は賄いを作れなんて言わないよ。アタシも指一本動かしたくない」
レイラがパイプ椅子に深く沈み込み、オイルと煤で汚れた顔を拭いもせずに天井を仰いだ。彼女のライダースーツには、コンクリートの飛沫や油汚れがべったりと付着している。
「ああ。俺も今日は包丁を握る体力がない。……だが、胃袋にガツンとくるものを入れなきゃ明日の作業に響く」
グンツは重い腕を持ち上げ、バキバキに凝り固まった首を鳴らした。泥にまみれた手袋を外し、重い安全靴を脱ぐだけでも一苦労だ。
「なら、今日は私が手配しましょう。こういう極限状態の後は、ジャンクなものが一番です」
ステラが、魔導板を指先で弾きながら不敵に微笑んだ。
「魔界中央区に最近オープンしたデリバリーチェーンよ。人間界のレシピを魔族向けに改良したらしいわ。……『ピザ』って言うんだけど」
「ピザ……? ああ、あの平べったいパンに具を乗せて焼いたやつか」
「ええ。肉がたっぷり乗っていて一番重いやつを、最大サイズで頼んだわ」
それから30分後。
空間転移の魔法陣がテントの隅に小さく展開され、保温魔法がかけられた大きな平たい紙箱が三つ、熱気と共に重なり合って現れた。
「おおっ、匂いだけで胃袋が暴れ出しそうだぜ!」
レイラが身を乗り出し、一番上の箱を開けた。
箱の中には、分厚くふっくらと焼き上げられたパン生地の上に、溢れんばかりの溶けたチーズと、焦げ目のついたペパロニ、厚切りのベーコン、そして大ぶりのピーマンと玉ねぎが敷き詰められたピザが鎮座していた。魔界の強靭なオークたちの胃袋をも満たすべく作られた、特注の最大サイズだ。箱を開けた瞬間に、濃厚なトマトソースの酸味と、焼けたチーズとニンニクの暴力的な香りがテント内に充満する。
「ほら、冷めないうちに」
ステラが切り分けられた一切れを持ち上げると、たっぷりと乗ったチーズがどこまでも長く糸を引いた。
レイラがそれを受け取り、無造作に大きくかぶりつく。
「あむっ……はふ、はふっ! うおぉ、熱ぇ! でも美味い!」
レイラが口の周りにソースをつけながら咀嚼する。豚肉の脂の旨味と濃厚なチーズの塩気、そしてトマトソースの甘酸っぱさが、限界まで酷使された筋肉と脳の要求をダイレクトに満たしていく。彼女は目を細め、熱々の具材を次々と胃袋へ流し込んだ。
グンツも一切れ手に取り、口に運んだ。
ふかふかとした生地の食感の直後、底面のカリッと焼けた香ばしさが歯に当たる。普段、彼が繊細な火加減で作る賄いとは対極にある、計算された大味のジャンクフードの旨味。だが、極限までエネルギーを消費した今の身体は、この油と炭水化物の塊を貪欲に吸収しようとしていた。
「……これも悪くないな」
グンツはビール代わりに冷えた魔力炭酸水を煽り、分厚い生地の耳まで一気に平らげた。
「わふっ!」
「きゅ〜んっ!」
足元では、漂ってくる強烈な匂いにたまらなくなったブランとノワールが、前足をグンツの膝にかけて必死にアピールしていた。
「お前らには味が濃すぎる」
グンツは苦笑し、具材の乗っていないピザの耳の分厚い部分だけを千切り、少しだけ冷ましてから二匹の口に放り込んでやった。
二匹は目を輝かせ、モチモチとした生地を夢中で噛みちぎっている。
「セリアさん、あなたも食べなさい。今日はあなたの機転に助けられました」
ゼノビアが、大人しく端の席に座っていたセリアに紙皿を差し出す。
「あ、ありがとうございます……。でも、直接吹き付けるのは、やっぱり金属には負荷が……次こそは、もっと完璧な……」
「今日はもう反省会はいい。食って寝ろ」
グンツがピザを頬張りながら短く言うと、セリアは少しだけ嬉しそうに頷き、小さな口でチーズを伸ばした。




