第59話 形状記憶合金の恩恵
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第10層の統括管理室。
早朝の冷え切った空気が室内を満たす中、硬いフローリングの床を鋭い爪が引っ掻く連続音が、静寂をリズミカルに破っていた。
「ガウッ!」
「ヴルルル……ッ」
ブランとノワールが、朝の挨拶代わりの激しい取っ組み合いを繰り広げている。
今や丸まれば座布団以上の大きさがある彼らのぶつかり合いは、ドスン、ドスンと重い音を立てて床を揺らしていた。ブランが、その分厚い毛皮に覆われた圧倒的な体重を生かして上からのしかかろうとすると、ノワールは引き締まった筋肉としなやかな身のこなしでそれをスリリと躱す。そして反転するや否や、背後からブランの太い後ろ脚に狙いを定めて甘噛みをして応戦する。ブランも負けじと短い首を捻って反撃し、白い毛と黒い毛が入り乱れて床を転げ回った。じゃれ合いとはいえ、大型犬サイズまで育った彼らの容赦ない力のぶつかり合いは、朝の空気を元気よく打ち破っていた。
「お前ら、朝から元気だな。少し大人しく待ってろ」
簡易厨房に立つグンツが、巨大なコンロの火を細かく調整しながら声をかけた。
彼は昨日の魔導クレーンのオーバーヒート騒動で蓄積した疲労を抜くため、今朝は消化が良く、かつ徹夜明けの体の芯から温まる朝食を慎重に用意していた。
分厚い大鍋に張った水に大ぶりの昆布を沈め、魔獣の骨をハンマーで叩き割ってから一緒に時間をかけて濃厚な一番出汁を取る。沸騰する前に昆布を引き上げ、アクをこまめにすくい取りながら、骨の髄から染み出す深い旨味をじっくりと抽出していく。そこへ薄口醤油と本みりんを絶妙な比率で加え、味の輪郭をキリッと整えた。
沸き立った琥珀色のつゆの中へ、魔界の特産である、うどんというよりはすいとんに近いような極太の平麺を放り込む。打ち粉を払い落とされた麺が鍋の中で踊り始めると、斜め切りにした瑞々しい長ネギと、薄切りにした脂の乗った豚肉をたっぷりと加える。ネギの甘みと豚肉から溶け出した脂が、出汁の旨味と完璧に絡み合い、表面に細かな脂の玉がキラキラと浮き上がっていた。
出汁の香ばしい香りと、豚の脂の甘い匂いが厨房いっぱいに漂い始めると、先ほどまで激しく転げ回っていた二匹の毛玉がピタリと動きを止め、弾かれたようにグンツの足元へと飛んできた。二匹は行儀よくフローリングにお座りをし、千切れんばかりに尻尾を床に打ち付けながら、鍋の中身を真剣な目つきで見上げている。その真っ直ぐで期待に満ちた視線には、どんな凶悪な魔獣の威圧よりも抗いがたい引力があった。
「お前らの分は味付け前の肉と野菜だ。ちゃんと冷ましてからやるから、座ってろ」
グンツが二匹用の木皿に中身を取り分け、手早く冷風の魔法を当てて適温まで下げていると、コンソールに置かれた通信機がけたたましいノイズを発した。
『グンツ、すぐ現場に来てくれ。……ジョイントのボルトが弾け飛んだ』
通信機越しに響くレイラの声には、明確な焦りが混じっていた。
★★★★★★★★★★★
ステュクス大河の架橋工事現場。
雨季の気配を孕んだ重い鉛色の雲の隙間から、強烈な朝日が差し込み始めていた。
魔界の大動脈であるこの巨大な大河の周辺は、昼夜の寒暖差が極めて激しい。夜間は吐く息が真っ白に凍りつくほど冷え込むが、日が昇れば肌を直接焼くような灼熱の環境へと一気に変貌する。
絶え間なく谷間を吹き荒れる大河の強風が、仮設足場の鉄パイプを低く不気味に唸らせていた。眼下では、黒々としたステュクス大河の濁流が巨大な渦を巻きながら岩肌を削り取っている。その轟音は、普通に会話しようとしても声が掻き消されるほどの圧倒的な暴力性を持っていた。
グンツが転送陣を抜けて仮設足場に降り立つと、昨日レイラが徹夜で魔導コンクリートを流し込み終えたばかりの巨大な橋桁の接合部から、ギリギリ、と金属が悲鳴を上げるような不快な音が継続的に響いていた。
「これを見な。高張力ボルトの頭が、引きちぎられるように吹っ飛んだんだ」
レイラが足元の鉄骨に転がっている、折れ曲がった極太のボルトを顎でしゃくった。その断面は、刃物で切られたのではなく、強烈な引っ張る力によって力任せに千切られた痕跡を残している。
彼女が指差す先、橋桁と橋桁を繋ぐ巨大な鋼鉄製のジョイント部分。厚さが5センチ以上もある分厚い鉄板に、目視できるほどの不自然な歪みが生じている。数千トンもの途方もない質量を支えるはずの接合部が、内側から見えない巨人に押し広げられるようにひしゃげ、極度のストレスで表面の塗装がパリパリと音を立てて剥がれ落ちていた。
グンツは視線をジョイントに固定し、右目を青白く光らせた。
《構造解析》のスキルが、ジョイント内部の応力分布を視界に立体的に展開する。赤い警告の光が、金属の接合部に異常なほど集中し、今まさに破断寸前であることを告げていた。
「……昼夜の寒暖差による金属の熱膨張と収縮だ。魔界の過酷な気候がもたらす温度差を、ギリギリまで計算に入れていなかった」
グンツは忌々しげに舌打ちをした。
「夜間の冷気で極限まで収縮した鋼鉄が、朝の急激な温度上昇で一気に膨張している。その巨大な体積変化の力が、すべてこの接合部に集中しているんだ。このまま放置すれば、歪みはさらに拡大し、徹夜で打ち込んだコンクリートの基部ごと内側から粉々に破壊されるぞ」
「ボルトを、もっと太くて頑丈なやつに変えるか?」
「無駄だ。ボルトの剛性を上げれば、今度は逃げ場を失ったジョイントの鉄板そのものが歪んでへし折れる。自然の温度変化がもたらす熱膨張の力は、単純な力技で抑え込めるようなものじゃない。力を『逃がす』か『吸収する』ための、流動的な構造が必要だ」
大自然の容赦ない物理法則を前に、グンツが図面を睨みつけていると、足場の背後からおっとりとした声が響いた。
「でしたら、逃がすのではなく、『元に戻せば』よろしいのではなくて?」
黒いレースの日傘を差したセリアが、リーゼロッテを伴って現場に現れた。
今日の彼女はいつもの耐薬品性の白衣ではなく、クラシカルで豪奢な黒のドレスに身を包み、黒いレースの縁取りがされた日傘を差している。強烈な朝日が照りつける現場とはいえ、極度に日光を嫌い自室に引きこもりがちな彼女にとっては、これが必要な『お出かけ』の装いなのだ。眼下に濁流が渦巻く危うい鉄骨の足場を、ドレスの裾を少し持ち上げながら慎重に歩いてくる。
「昨日の冷却ジェルの効果測定に来てみれば……どうやら、また私の芸術が役に立つ場面のようですわね」
セリアは日傘を持つ手とは逆の手で、ドレスに下げた小さな鞄から、鈍い銀色をした手のひらサイズの金属プレートを取り出した。
「私が以前開発した、試作品の『記憶合金』ですわ。ある特定の温度帯で成形した形状を、魔力的に金属の分子レベルで記憶させることができますのよ」
「……形状を記憶する?」
「ええ。いくら捻じ曲げられようと、傷をつけられようと、周囲の熱を吸収することで、記憶した元の形状に凄まじい力で戻ろうとする性質を持っていますの」
グンツはセリアから金属プレートを受け取り、再び《構造解析》にかけた。
内部の特殊な魔力伝導率と、金属分子の結合構造を瞬時に読み取る。それは確かに、ただの金属ではない、異常な復元力を秘めた特殊素材だった。熱を吸収するほどに、内側の分子が結びつきを強め、元の配列へと強制的に回帰しようとする強力なベクトルを感じる。
「……なるほど。自己修復アーマーか。だが、お蔵入りになったってことは何か致命的な欠陥があるんだろ?」
グンツが冷静に問いかけると、セリアは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……ええ。熱を感知して元に戻る際の『反発力』と『速度』が強烈すぎて、鎧が元に戻る前に、中にいる人間の骨と肉がミンチになってしまいますの……。リーザ様に、大怪我をする防具を作るなと怒られまして、それ以来、倉庫の肥やしになっていましたわ」
「いや、違う。お前のそのピーキーすぎる性質こそが、今のこの橋には最適のピースだ」
グンツは即座に腰の工具ベルトから魔導バーナーを引き抜いた。
「レイラ、クレーンを回せ! 歪んだジョイントを一度外す。オークどもはジャッキを噛ませて橋桁を支えろ!」
グンツの怒号に、現場が瞬時に活気を取り戻す。
レイラが軽やかな身のこなしで操縦席に飛び乗り、重低音を響かせながらクレーンの太いワイヤーで巨大なジョイントの鉄板を吊り上げた。オークたちが力強い掛け声を合わせ、複数台の大型油圧ジャッキのレバーを同時に押し込む。数千トンの橋桁が、鈍い音を立てながらミリ単位で持ち上げられ、接合部にわずかな隙間が生まれた。張り詰めたワイヤーが風に煽られてギリギリと悲鳴を上げ、足場全体に細かい振動が絶え間なく伝わってくる。
グンツは《即時建築》の魔法を起動し、セリアが持参した記憶合金のプレートを、ジョイントの隙間にぴったりと収まる分厚いスペーサーの形に再成形する。金属が液状に溶け、彼のイメージした通りの精密な構造へと硬化していく。
そして、それを橋桁とジョイントの間に挟み込み、巨大なスパナを使って新たな高張力ボルトで強固に締め上げた。
「……よし。これでどうなるか、見てろ」
グンツは魔導バーナーの炎を、ジョイント部分に直接吹き付けた。青白い高温の炎が金属を容赦なく炙り、周囲の空気が陽炎のように激しく揺らぐ。
急激な熱を受けた周囲の鋼鉄が、膨張して再びジョイントを歪ませようとする。鉄が軋む、あの不快な音が鳴りかけた直後。
ギッ、という短い音と共に、歪みがピタリと止まった。
「……すげぇ。膨張の力と、元に戻ろうとする力が完全に拮抗してやがる」
レイラが操縦席から身を乗り出して、目を見開いて驚きの声を上げた。
「温度変化を利用した、全自動の歪み補正システムだ。昼の灼熱で鉄が膨張しようとすればするほど、この合金が熱を吸って真っ直ぐに戻ろうとする。夜になって温度が下がれば、どちらの力も弱まるから問題ない」
グンツはバーナーの火を止め、額に浮いた汗を腕で拭った。彼の計算通り、二つの強大な物理的な力が互いに相殺し合い、数千トンの質量を支える橋の接合部は完璧な水平を保っていた。
「見事な物理的相殺ですわ、グンツ様! 私の失敗作が、数千トンの橋を支える要になるなんて!」
セリアが日傘をくるくると回して歓喜の声を上げる。
その横で、リーゼロッテが手元のバインダーを開いた。
「……通常の寒暖差対応の特殊免震ジョイントを外部に発注した場合のコストと比較して、約9割の資材費の削減に成功しました。倉庫の不用品を再利用した、素晴らしいコスト管理です」
計算用の魔導具を弾くリーゼロッテの言葉に、グンツは小さく鼻を鳴らした。
「使えるものは何でも使う。それが現場の鉄則だ。失敗作だろうが何だろうが、適材適所にはめ込めば最高の建材になる」
グンツは足場の先端に立ち、風の吹き抜ける大河の向こう岸を鋭い視線で見据えた。
「よし、ジョイントの問題は解決した。遅れた分を取り戻すぞ。次の区画の基礎打ちだ!」
『オオォォォォッ!!』
オークたちの力強い鬨の声が、ステュクス大河の激しい水音を打ち消すように、高く響き渡った。




