第57話 現場の安全帯
ステュクス大河の濁流が立てる轟音は、仮設テントの分厚い防音布を容易く貫通して響いてくる。大河を吹き抜ける強風は、依然として止む気配がない。
巨大な橋脚の基礎は激流の中で微動だにしないが、テントの太い支柱は風を受けるたびにギシギシと不穏な軋み音を立て、天井の布が波打つように膨らんでは萎むのを繰り返している。
「わふっ!」
「ヴゥゥ……ッ」
テントの床では、ブランとノワールが、余った荷造り用の麻紐の切れ端を咥えて引っ張り合いをしていた。
ノワールは短い四肢をフローリングの床に突き立て、腰を低く落として全力で後退しようとしている。ピンと立った耳を後ろに反らせ、小さな牙の間から一人前に威嚇の唸り声を上げている。
だが、その引っ張る力の先にあるのは、ただ床に腹をベッタリとつけて寝転がっているブランの重い顎だった。真っ白な毛玉のようなブランは、己の巨体を持て余すようにのんびりとした顔で紐の端を咥え、ただそこに圧倒的な質量を持つ重りとして存在しているだけだ。引っ張り返す気すらないのか、時折欠伸を噛み殺そうと口元を緩める。
ノワールが意を決したように、前足を踏み直して首を大きく後ろへ振った瞬間。ブランがフッと、何の前触れもなく紐から口を離した。
「きゅんっ!?」
勢い余ったノワールは見事にバランスを崩し、後ろへコロンと転がって、テントの隅に積まれた図面の束に頭から突っ込んだ。ブランは何事もなかったかのように大きな欠伸をし、腹を出して床に寝転がる。
「……またお前の負けだな、ノワール。力任せに引くだけが物理法則じゃないぞ」
コンソールの前で図面に赤を入れていたグンツは、鼻先に紙くずをつけて戻ってきたノワールの頭を指先で軽く撫でた。
★★★★★★★★★★★
グンツの右目が青白く光る。視界に展開された《構造解析》の数値は、地上50メートルの高空で稼働する作業員たちの応力負荷と、周囲の気流の変化をリアルタイムで弾き出していた。
「……風速15メートル。まだギリギリ基準値内だが、突風に気をつけろ」
インカム越しに指示を飛ばす。
『了解っす。本溶接、あと少しで終わるっす』
ノイズ混じりのオークの声が返ってくる。
監視水晶の向こう側、地上50メートルの主塔の上部では、幅わずか数十センチの足場板の上で二人の職人が作業を行っていた。大柄なオークが、巨大な高張力ボルトを重いスパナで押さえ込み、はち切れんばかりの腕力を込めて締め上げている。その足元で小柄なゴブリンが魔導バーナーを握り、青白い火花を散らしながら金属の接合部を溶接していた。
彼らは片手で鉄骨を握りしめ、もう片方の手だけで重い工具を扱っている。
雨季特有の重く湿った風が彼らの背中を絶え間なく叩きつけていた直後、監視水晶の端で風速計の数値が一瞬だけ跳ね上がった。
谷間を吹き抜ける風が地形にぶつかり、不規則な乱気流となって主塔の先端を直撃したのだ。
「——っ!」
インカムから短い悲鳴が上がった。
ゴブリンの足元の足場板が、突風に煽られて激しく跳ね上がり、留め具が外れて傾いたのだ。片手でバランスを保っていたゴブリンの小さな体が、一切の支えを持たない空の彼方へと投げ出される。
『馬鹿野郎っ!』
相方のオークがスパナを放り投げ、咄嗟に太い腕を伸ばした。分厚い指先が、宙を舞うゴブリンの作業着の襟首を辛うじて掴み取る。布地が千切れそうな音を立てて引き延ばされる。
だが、ゴブリンの体重に加え、強風に煽られる運動エネルギーは、片手で支えきれるものではない。踏ん張るために鉄骨へ押し付けていたオークの安全靴が、摩擦を失ってズルリと滑り落ちた。
二人の体が、足場から完全に離れる。50メートル下は、落ちれば骨も残らない荒れ狂う大河の濁流だ。
「動くな!」
グンツはインカムに怒号を叩きつけると同時に、操作盤へ右腕を打ちつけた。
《即時建築》。
彼自身の魔力が、有線の通信ケーブルを伝うタイムラグすら置き去りにして主塔の鉄骨へと到達する。オークとゴブリンが落下していく軌道上の鉄骨の表面がドロリと液状化し、そこから巨大なフック状の突起が真上に向かって瞬時に形成された。
ガァァァンッ!
オークの分厚い作業用ベルトがその突起に激突し、凄まじい衝撃音と共に二人の体が宙吊りで停止した。
オークは内臓を吐き出しそうな衝撃に顔を歪めながらも、空いている方の手でゴブリンの襟首を掴んだまま、決して指を離さなかった。
「……クレーンを回せ。二人を下ろすぞ」
グンツは冷や汗で張り付いた前髪をかき上げ、傍らの通信手に短く指示を出した。
★★★★★★★★★★★
数分後。
仮設足場の地上付近に、青ざめた顔のオークと、腰を抜かしたゴブリンがクレーンで下ろされてきた。
「無事か」
グンツが歩み寄るより早く、彼らの前に立ちはだかる人影があった。
ゼノビアだった。彼女の金色の爬虫類眼は、氷のように冷たくオークたちを見据えている。
「っ……監査官殿。申し訳ねぇっす。風に少し足を取られただけで……次は絶対に落ちねぇっすから!」
オークは慌てて立ち上がり、太い首をすくめて深く頭を下げた。震える両手で自身の太腿を強く叩き、己の腕力と踏ん張りの弱さを悔やむように歯を食いしばる。
ゼノビアはオークの言葉を遮るように、胸元からホイッスルを取り出し、短く、鋭く吹いた。
ピーーーッ!
重機やクレーンの駆動音が鳴り響く現場に、その高く澄んだ音が切り裂くように響き渡る。その音を合図に、周囲の重機のエンジン音が次々と停止していった。
「業務停止。現在進行中のすべての高所作業を中断しなさい」
ゼノビアの宣言に、オークだけでなくグンツも眉をひそめた。
「おい、ゼノビア。二人は無傷だ。ここで手をとめれば、全体の工期に響くぞ」
「工期と命、どちらが魔王軍にとって真の損失ですか」
ゼノビアはグンツを振り返り、静かに告げた。
「グンツ総監督。あなたの迅速な魔法がなければ、彼らは今頃あの濁流の底です。ですが、現場の安全を個人の反射神経と魔法に依存し続ける体制は、組織として破綻しています」
彼女はオークの腰に巻かれた、工具を吊るすためだけの簡素な革ベルトを指差した。
「魔界労働基準法・第41条。高所における作業において、事業者は労働者に安全帯を使用させなければならない。……彼らは、命綱を一本もつけていませんね」
オークが気まずそうに目を逸らす。
「命綱なんて……あんなの付けてたら、動きにくくて仕事にならねぇっす。俺らは腕力には自信があるんで」
「気合いや腕力で重力を無効化できるなら、今すぐあの空へ飛んでみせなさい」
ゼノビアの淡々とした言葉に、オークは口をつぐんだ。
「あなたたちは、魔王軍が誇る熟練の職人です。その腕、その経験、その命は、決して使い捨ての道具ではない。ただの風で浪費していい資産ではないのです」
グンツは小さく息を吐き、ヘルメットの鍔を押し上げた。
「……お前の言う通りだ。俺の管理不足だった」
★★★★★★★★★★★
グンツがインカムのスイッチを入れる。
「レイラ、聞こえるか」
『あぁ、バッチリだぜ。ゼノビアから事前に「監査で引っかかったらすぐに持っていけるように」って頼まれてた荷物がある。今すぐ運ぶよ』
数分も経たないうちに、レイラの操る魔導車が土煙を上げて現場に急行してきた。荷台には、人間の国で高層建築に使われる最新式の『フルハーネス型安全帯』が大量に積まれていた。
ゼノビアは自らハーネスの一つを手に取り、オークたちの前で実演を始めた。
「従来の腰ベルトのみの安全帯は、落下時に腰椎を折る危険があります。このフルハーネス型は、肩と腿で衝撃を分散する構造です。そして、フックは必ず腰より高い位置に張られた『親綱』にかけること」
彼女の手際の良い説明に、オークたちは渋々といった様子でハーネスを身につけていく。重い工具に加えてさらに肩や腿を拘束される装備が増えることに、彼らは肩を回しながら不満げな表情を隠さなかった。
だが、その態度は彼らが再び50メートルの上空に戻った直後に一変することになる。
主塔の上部に張られた太い親綱に、ハーネスから伸びた金属製のフックをガチャリとかける。
突風が吹き付け、足場が揺れる。
親綱と繋がったハーネスがピンと張り、彼らの体を空中で確実に支え切った。
『……なんだこれ。風が吹いても、全然怖くねぇっす』
インカムから、オークの呆然とした声が聞こえてくる。
彼らは恐る恐る鉄骨から手を離し、両手で魔導バーナーと溶接棒を構えた。片手で体を支える必要がなくなったため、バーナーの青い炎がブレることなく、一定の距離と角度で金属の接合部を正確に溶かしていく。高張力ボルトを締める際も、両手でスパナに体重をかけられるため、今までの半分の力で倍のトルクを生み出すことができた。
水晶越しに作業効率のグラフが急上昇していくのを見つめながら、グンツは唇の端をわずかに上げた。
「……作業スピードが上がったな」
隣に立つゼノビアは、表情を変えないまま小さく頷いた。
「無意識の強張りが消えたからです。これが適正な装備の効果ですよ」
★★★★★★★★★★★
その日の夕食。
予定よりも大幅に進捗を取り戻したオークたちは、上機嫌でベースキャンプの食堂テントに集まっていた。
グンツは厨房に立ち、巨大な中華鍋を火にかけ、油を馴染ませていた。
厚切りにした豚バラ肉は、あらかじめ少量の酒と醤油で揉み込み、下味をつけてある。それを煙が上がるほど熱した油へ一気に投入する。ジュワァァァッ! という爆ぜるような音と共に、脂が焦げる香ばしい匂いが立ち上った。
肉の表面にカリッとした焼き目がついた完璧なタイミングで、たっぷりのニンニクの芽を放り込む。鮮やかな緑色が油を吸って艶を帯びたところで、ざく切りにしたキャベツを加え、中華鍋を大きく煽る。炎が鍋肌を舐め、野菜の水分を飛ばしながら一気に火を通していく。
仕上げに、濃厚なオイスターソースと粗挽きの黒胡椒、そして鍋肌から焦がし醤油を回しかけた。
豚の強烈な旨味とニンニクの芽の刺激が、高所作業で強張った筋肉の疲労を内側から焼き尽くす『豚バラとニンニクの芽のスタミナ炒め』だ。
丼に山盛りにされた炊きたての麦飯の上に、そのスタミナ炒めをたっぷりと乗せる。滴る肉汁とソースが白い米粒に染み込んでいく。
大盛りの丼をかき込みながら、グンツはふと足元を見た。
「……おい、ゼノビア。これは何の冗談だ」
グンツの足元で、ブランとノワールが食事のおこぼれを待って尻尾を振っていた。
だが、その体に巻かれているのはいつもの首輪ではない。肩から胸、そして胴体をしっかりとホールドする、特注サイズの小さな『フルハーネス』だった。背中のD環から伸びたリードは、テントの太い支柱にしっかりと固定されている。
ゼノビアは自分の分のスタミナ炒めを上品に口に運びながら、平然と答えた。
「彼らもこの現場の大切な一員です。ウロウロして重機に轢かれたり、危険な薬品を誤飲したりしないよう、物理的な行動範囲の制限は必須と判断しました。特注で作らせたのです」
「きゅぅん……」
ノワールがリードの限界距離まで進もうとして、ハーネスに引っ張られてコロンと転がる。ブランは最初から動く気がないのか、ハーネスをつけられたままヘソ天でいびきをかき始めていた。
グンツは苦笑し、残りの麦飯を一気に胃へと流し込んだ。




