第52話 地上げ屋と化した経理
特級迷宮『絶望の箱庭』の第10層、統括管理室。
魔界全土の物流を繋ぐ『ステュクス大河』への架橋プロジェクトが本格始動し、連日の設計変更と重機の手配に追われていたグンツは、徹夜明けの重い身体を厨房スペースへと運んだ。
深夜から早朝にかけての極限のデスクワークで、胃腸はひどく疲弊している。脂っこい肉や強い香辛料を受け付ける状態ではない。彼に必要なのは、極限まで消化が良く、かつ五感を静かに目覚めさせる食事だった。
グンツは土鍋に米とたっぷりの水、そして一片の昆布を入れ、極弱火でゆっくりと時間をかけて炊き上げていく。米粒が割れることなく、ふっくらと花開くように炊き上がった『おかゆ』の甘い香りが、厨房に優しく漂い始めた。
隣のコンロでは、昆布と鰹節で引いた澄んだ一番出汁が静かに湯気を立てている。彼は大根、人参、里芋、そして香りの良い魔界のキノコを面取りして下茹でし、その出汁でじっくりと煮含めていった。野菜本来の甘みを引き出すため、味付けは薄口醤油と微量の塩、酒のみ。煮崩れすることなく、中心まで出汁の旨味が染み込んだ『野菜の焚き物』だ。
さらに、目の細かい網の上で、分厚い白身魚の切り身に粗塩を振り、遠火の強火で表面をパリッと、中はふんわりと焼き上げる。魚から落ちた脂が炭火で爆ぜ、香ばしい煙が身を燻す。
手元では、長方形の銅鍋を熱し、たっぷりの出汁を混ぜ合わせた卵液を流し込む。菜箸で手早く気泡を潰しながら、焦がさないように何層にも巻いていく。焼き上がった熱々の『卵焼き』を巻き簾で包み、形を整えながら余熱で中心まで火を通した。
これらに加え、自家製の糠床から取り出したキュウリとカブのお新香を切り分け、賽の目に切った滑らかな絹ごし豆腐と刻みネギの味噌汁を椀に注ぐ。
人間界の最高級の宿で出されるような、一切の隙がない洗練された和定食の完成だった。
「リーゼロッテ、ステラ。朝飯だ」
グンツが白木の盆に盛られた定食をテーブルに並べると、デスクで書類の山に埋もれていた二人がゆっくりと立ち上がった。
徹夜の計算作業で眼鏡の奥に濃いクマを作っているリーゼロッテと、髪を無造作にクリップでまとめ、いつもの隙のないドレス姿とは違うラフなシャツ姿のステラだ。
リーゼロッテは椅子に座ると、無言で椀を手に取り、熱いおかゆを一口すすった。
熱を帯びた米の粒がすんなりと食道を通り抜け、徹夜で強張っていた内臓を芯から温めていく。昆布の出汁が優しく広がり、彼女は小さく息を吐き出して箸で出汁巻き卵を切り分けた。口に運んだ瞬間、ジュワッと溢れ出す一番出汁の風味に、張り詰めていた肩の力がわずかに抜ける。
ステラもまた、焼いた白身魚に箸を伸ばした。パリッとした皮の香ばしさと、ふっくらとした淡白な身の塩気が、疲労した脳に静かな刺激を与える。彼女は野菜の焚き物をゆっくりと咀嚼し、根菜に染み込んだ出汁の深さに目を伏せた。
「……おかゆの温度と水分のバランスが絶妙です。徹夜明けの身体の隅々にまで、栄養が抵抗なく吸収されていくのがわかります」
リーゼロッテが、お新香の小気味良い食感で口をリセットしながら言う。
「そうね。派手な味付けがない分、素材そのものの味が際立つわ。胃腸の疲労が引いていくのがわかる」
ステラも豆腐の味噌汁を飲み干し、静かに椀を置いた。
食後。グンツは氷水で冷やしておいたメロンと、大粒の葡萄を切り分けてガラスの器に盛った。
瑞々しい果肉の強烈な甘みと果汁が、口の中に残ったわずかな塩気を洗い流し、完璧な締めくくりをもたらした。
「わふっ」
「きゅ〜ん」
足元では、ブランとノワールがグンツからおこぼれの白身魚の端材とプレーンなおかゆをもらい、夢中になって木皿を舐め回している。
その穏やかな朝食の風景を切り裂くように、コンソールの通信機がけたたましいノイズを発した。
『……グンツ、聞こえるか! 架橋ルートの第3セクターで、重機が立ち往生してる!』
現場で指揮を執っているレイラからの、苛立った声だった。
「どうした。地盤の緩みか?」
グンツが通信機を手に取り、図面に視線を落とす。
『違う! 予定地のド真ん中に、地元の土着の地主が結界を張って居座ってやがるんだ! 立ち退きの書類にはサインしたはずだってオークたちは言ってるが、あの野郎、重機の前にテントを張って一歩も動こうとしない!』
通信機の向こうから、レイラの怒鳴り声に混じって、傲慢な男のがなり声が微かに聞こえてくる。
『……この土地は俺の先祖代々のものだ! ここを通りたければ、立ち退き料として金貨100万枚を即金で用意しろ! さもなくば、一歩も通さんぞ!』
「金貨100万枚だと? 足元を見やがって」
グンツは舌打ちをし、傍らのヘルメットを乱暴に掴み取った。
「レイラ、結界の強度はどのくらいだ」
『大したことねぇよ。アタシの愛車で突っ込めば3秒で粉砕できるレベルだ』
「よし。俺が今から行って、《即時建築》で奴のテントごと岩盤をひっくり返して強制排除する。少し待ってろ」
「お待ちください、総監督」
グンツが部屋を出ようとした瞬間、バインダーを抱えたリーゼロッテが立ち塞がった。
「物理的な強制排除は悪手です。彼らは一応、魔界の法律に守られた民間人。力ずくで結界を壊して怪我でもさせれば、後で過剰防衛と器物損壊で訴えられ、法外な示談金をむしり取られるだけです。工事の長期停止命令が出るリスクすらあります」
「だからといって、金貨100万枚を払う予算なんてないだろ! 現場を止めたら、全体のスケジュールが狂って数千万枚の損失になるんだぞ!」
「ええ。ですから、この件は私たちが引き受けます」
ステラがクリップで留めていた髪を解き、プラチナブロンドのウェーブを背中に流した。彼女は椅子にかけられていた真紅のジャケットを羽織り、極めてビジネスライクな微笑を浮かべる。
「相手が契約と金に執着するクズなら、交渉のテーブルはこちらの専門よ。……リーザ、彼に関する『例のデータ』の裏取りは済んでいるわね?」
「はい。昨晩のうちに、すべての書類を整えてあります」
二人はグンツの制止を聞くことなく、揃って管理室の扉を出て行った。
★★★★★★★★★★★
ステュクス大河の岸辺、架橋プロジェクトの第3セクター。
泥だらけの荒野の真ん中に、不自然に豪華な魔導テントが張られ、その周囲を半透明の防御結界が覆っている。テントの前では、派手な装飾品を身につけた肥満体のオークの変異種が、葉巻を吹かしながらふんぞり返っていた。
結界のすぐ外側には、レイラの操る巨大な魔導ブルドーザーが、唸りを上げて停止させられている。
「はっはっは! 魔王軍がなんだというのだ! 個人の所有権は絶対だぞ! 金貨100万枚を出さない限り、この結界は絶対に解かん!」
地主の男が嘲笑した、その時。
「ごきげんよう。ずいぶんと威勢がいいわね」
荒野の風を切り裂き、ステラとリーゼロッテが姿を現した。
地主の男は二人の姿を見て、鼻で笑った。
「女の交渉人が来たか。誰が来ようと同じだ! 金貨100万枚、耳を揃えて用意したか?」
「金貨100万枚の立ち退き料。……いいわよ、支払ってあげても」
ステラは結界の前に立ち、手にした羊皮紙をヒラヒラとさせた。
「ただし、あなたが『この土地に住み続けられる』のなら、の話だけれど」
「どういう意味だ?」
地主が葉巻を口から離し、怪訝な顔をする。
「簡単なことよ。あなたの所有しているこのテントの土地、半径30メートルの周囲を囲む土地は、すでに魔王軍が周辺の地主からすべて買収済みよ。そして本日付けで、この周囲の土地を『特級迷宮の魔力廃棄物処理場』に指定したわ。これから24時間、あなたのテントの周囲には、耐え難い悪臭と魔力ノイズが絶え間なく放出され続けることになるわね。……さらに、あなたの土地の地下を通る水脈、および上空の飛行権も、すでに魔王軍が買い上げたわ。本日正午をもって、この土地への地下水の供給を完全に遮断し、あなたの上空には日照権を奪う超高層の防音壁を建設する。あなたは水一滴飲むこともできず、太陽の光を見ることもなく、悪臭の中で孤立することになるわ」
地主の顔色から、血の気が引いていく。
「き、貴様ら……! そんな嫌がらせが許されると思っているのか! 訴えてやる!」
「訴訟の前に、こちらの手続きを済ませていただきます」
怒鳴る地主の言葉を遮るように、リーゼロッテがバインダーから別の書類を抜き出し、結界の表面に押し当てた。
「あなたが過去3年間にわたって、人間の闇金業者や裏ギルドから借り入れた多重債務の借用書です。総額、金貨15万枚。……これらの債権はすべて、昨日魔王軍が買い取らせていただきました。契約条項に基づき、債権の譲渡先である我々は、あなたに対して『即時の一括返済』を求めます。本日中に全額が支払われない場合、担保として設定されているこの土地の所有権を、直ちに差し押さえさせていただきます。強制執行の費用も上乗せして請求しますよ」
立て続けに突きつけられた致命的な事実の連続に、地主の巨体が大きく揺らいだ。
彼は口をパクパクと開閉させたが、もはや反論する言葉すら見つからなかった。
「ひぃっ……! ま、待ってくれ! 金貨15万枚なんて、今すぐ払えるわけがない!」
「なら、この『金貨10枚』の立ち退き料を受け取って権利を放棄しなさい。借金は帳消しにしてあげる」
ステラは冷めた声で告げながら、書類の束の下からスッと一枚の契約書を滑り出させた。
「サインするか、ここで干からびて土地を奪われるか。好きな方を選びなさい」
地主は震える手で葉巻を取り落とし、膝から崩れ落ちた。
彼は半狂乱になりながら結界を解除し、ステラが差し出した契約書に泣きながらサインを書き入れた。
★★★★★★★★★★★
数時間後。第10層の統括管理室。
「はい、グンツさん。第3セクターの土地の権利書と、周辺の立ち退き同意書です。完全に法的な不備のない状態でクリアにしてきました」
リーゼロッテが、数枚の書類をグンツのデスクに無言で置いた。
グンツは書類を受け取り、そこに記載されている『譲渡価格:金貨10枚』というふざけた数字を見て、呆れたように息を吐いた。
「……相手の退路を完全に断ち切ってから、タダ同然でむしり取ったな。お前らの交渉術は、俺の仕掛ける罠よりよっぽどえげつない」
「私たちは無駄な争いをしたくないだけよ。最もコストの低い、合理的な手段を選んだだけ」
ステラがソファに腰掛け、優雅に足を組んだ。
グンツは書類をバインダーに挟み込むと、即座にコンソールの通信マイクを握りしめた。
「レイラ、聞こえるか。障害物は片付いた。予定通り、第3セクターの岩盤掘削を一気に進めろ。遅れた分のスケジュールを取り戻すぞ」
『了解だ! 最高のデリバリーを見せてやるよ!』
通信機越しにレイラの威勢の良い声が響き、直後に重厚なエンジンの駆動音が遠くから鳴り始めた。グンツはマイクをフックに戻し、目の前に広がる大河の架橋設計図へと向き直る。彼は木炭ペンを手に取り、新たな橋脚の基礎となる太い一本線を書き込んだ。




