第50話 今日も定時で帰ろう
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第10層の統括管理室。
迷宮の修復と魔界全土のインフラ整備という途方もないプロジェクトが同時に進行し、コンソールからは絶え間なく建設重機の稼働データが送られてきている。
だが、この広大な管理室の一角に設けられた厨房スペースだけは、コンクリートと鉄の匂いではなく、強烈に食欲をそそる豊かな香りに包まれていた。
特級迷宮建築士のグンツは、袖をまくり上げた腕の筋肉を躍動させ、分厚いまな板の上で巨大な刃を滑らせていた。
まな板の上にあるのは、今朝がた調達部のステラが港町から氷詰めにして直送させてきた、丸々太った見事な『シイラ』だ。魔界の近海で獲れるこの巨大魚は、鮮度が落ちやすいため市場にはなかなか出回らないが、釣りたての身は極上の旨味を秘めている。
グンツは三枚に下ろしたシイラの身から血合いの骨を骨抜きで丁寧に抜き取り、透き通るような薄紅色をした身を、包丁の刃元から切っ先までを使って美しく薄切りにしていく。
大皿に花びらのように並べられたシイラの身の上から、岩塩と砕いたブラックペッパーを粗く振りかける。そこへ、上質なオリーブオイル、絞りたてのレモン果汁、そしてみじん切りにした玉ねぎとケッパーを混ぜ合わせた特製のドレッシングをたっぷりと回しかけた。仕上げに色鮮やかなピンクペッパーとディルを散らせば、目にも鮮やかな『シイラのカルパッチョ』の完成だ。
休む間もなく、隣のコンロへ視線を移す。
大鍋で皮ごと茹で上げてホクホクになったジャガイモを、熱いうちに布巾で包んで素早く皮を剥き、木べらで粗く潰していく。隣のフライパンでは、羊腸に粗挽きの魔獣肉を詰めた極太のソーセージを、表面がパリッと弾けるまで香ばしく炒めている。
溢れ出たソーセージの脂ごと潰したジャガイモのボウルに投入し、そこへたっぷりの粒マスタード、少量のマヨネーズ、そして隠し味として少量の蜂蜜とワインビネガーを加えて空気を含ませるように大きく和える。ジャガイモの熱気とソーセージの燻製の香りが混ざり合う『ジャガイモとソーセージのサラダ風』だ。
さらに小鉢には、薄い半月切りにして酢水でサッと茹で、シャキシャキの歯応えを残したレンコンを用意する。すり鉢で丁寧に叩いてペースト状にした大粒の梅肉と、たっぷりの削り節、少量の醤油でレンコンを和える。梅の強烈な酸味と鰹の旨味が、レンコンの淡白な味に極上の輪郭を与える『レンコンの梅和え』。
最後に、火を止めた鍋の熱い鰹出汁の中に、磯の香りを色濃く残す新鮮なもずくをたっぷりと落とし、三つ葉を散らして『もずくの吸い物』を仕上げた。
「飯だ。手が空いている奴から来い」
グンツがテーブルに皿を並べ終えると、書類の山と格闘していたリーゼロッテが真っ先に立ち上がり、鼻眼鏡を外して席に着いた。それに続くように、現場の泥を軽く払ったレイラと、魔導板から目を離さないセリアがやってくる。
「いただきます。……んっ、このシイラのカルパッチョ、身が驚くほどもっちりとしていて、淡白な中に強い旨味がありますね。レモンの鋭い酸味が、数字で凝り固まっていた頭を強引に切り替えてくれます」
リーゼロッテが上品にフォークを動かし、小さく息を吐いた。
「このイモとソーセージのサラダ、最高だな! マスタードの酸味と粗挽き肉の強烈な脂がイモにがっちり絡んでて、フォークを動かす手が止められねぇよ!」
レイラが豪快にサラダを口に運び、ジャガイモの甘みと燻製の香りを力強く咀嚼する。
「レンコンの梅和えも、シャキシャキとした食感が疲れた顎の筋肉を刺激してくれますわ。吸い物の鰹出汁も、冷え切っていた胃の底に熱を落としてくれますの」
セリアが椀を両手で持ち、ホゥと幸せそうな吐息を漏らした。
「わふっ!」
「きゅ〜んっ」
テーブルの下では、すっかり大型犬のサイズにまで成長したブランとノワールが、グンツの安全靴の間に陣取っていた。グンツが味付け前に取り分けておいた茹でたシイラの端材とジャガイモを木皿に入れてやると、二匹は短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら夢中で食らいついている。
「あら、相変わらずいい匂いをさせているわね。私の分も残っているかしら」
鉄扉が開き、優雅な足取りでステラが入ってきた。その背後からは、いつものように分厚い教本を抱えたゼノビアと、静かな足取りのクロエが続いている。
「お前の分もちゃんとある。さっさと食え」
グンツが追加の皿を並べると、ステラはリーゼロッテの隣に腰掛けた。
「インフラ整備の予算配分、とりあえず第三期分までは魔王城の決裁を通してきたわ。でも、ガルシア商会からの追加資材の納品が少し遅れ気味ね。……レイラ、明日の輸送ルートの警備、少し人員を増やせるかしら?」
ステラがカルパッチョを優雅に口に運びながら尋ねる。
「人員なんて余ってないよ。アタシが直接魔導車で迎えに行って、商会のケツを引っ叩いて運ばせるから問題ないね」
レイラがサラダのお代わりを要求しながら笑い飛ばした。
食事が終わると、グンツはコンロで温めていた急須から、熱い『ゴーヤー茶』をそれぞれの湯呑みに注いでいった。
一口飲めば、舌の根が痺れるほどの強烈な青苦さが広がる。だが、肉や魚の脂を瞬時に洗い流し、極限まで酷使している脳の血管を物理的に引き締めるこの苦味は、今や彼女たちにとっても欠かせない「現場の味」となっていた。
グンツは空になった自分のマグカップを置き、首を大きく鳴らした。
その時。
鉄扉が勢いよく開け放たれ、広報担当のヴィオラが、いつも以上のハイテンションで飛び込んできた。
「絶望の箱庭のみんなー! 最高にイカれたニュースを持ってきたわよ!」
ヴィオラは手にした魔導板を頭上高く掲げた。
「私が人間界の裏ギルドに流しておいた『特級迷宮の最深部に、勇者王の遺した真の聖遺物が隠されている』って噂。これが見事にバズり散らかしたわ! 明日の朝一番で、人間界の北の果てから最強と名高い『白銀の竜騎士団』三百人が、ここへ向かって進軍を開始したそうよ!」
ヴィオラの報告に、管理室の空気が一瞬だけ止まった。
「……三百人規模の重装騎士団と飛竜ですか。現在の第一層の酸のプールだけでは、処理容量を完全にオーバーします。事後処理のコストが嵩みますね」
リーゼロッテが素早く計算用の魔導具を叩き、顔をしかめる。
「なら、落とし穴の底にアタシがスパイク付きの重機を突っ込ませておくよ。飛竜ごと物理でミンチにして、体積を減らしゃいいだろ」
レイラが指の関節を鳴らしながら乱暴な提案を投げかけた。
「却下します。飛竜の死骸を物理的に粉砕するのは労働基準法の『特殊魔獣対応ガイドライン』に抵触します。血肉の処理と清掃に専用の防護服が必要になり、オークたちの負担が大きすぎます」
ゼノビアが教本をパタンと閉じて、レイラの案を冷徹に切り捨てた。
「それに、ミンチにしたら飛竜の皮が売り物にならないじゃない。傷をつけずに綺麗に仕留めてちょうだい。私が懇意にしてる工房に高値で卸すんだから」
ステラが涼しい顔で、採算の観点からゼノビアに同調する。
「では、セリアさんの毒ガスと睡眠ガスの混合での窒息処理ですね。原価計算はこちらで行います」
リーゼロッテが結論を出し、バインダーに数値を書き込んだ。
その矢継ぎ早の議論の傍らで、当のセリアはすでに自分の魔導板でガスの配合比率の計算に没頭しており、こちらの会話には参加する気すらない。クロエもまた、冷たい岩壁に寄りかかって静かに目を閉じているだけで、口を挟むことはなかった。
「……ったく。どいつもこいつも、働きすぎだ」
グンツは悪態をつきながらも、その顔には隠しきれない職人としての笑みが浮かんでいた。
彼は愛用のヘルメットを被り、パイプ机の上に広げられた巨大な図面ケースを引き寄せる。
足元で目を覚ましたブランとノワールが、彼を見上げて嬉しそうに尻尾を振った。
「さて、仕事の時間だ。……完璧な動線を引いて、今日も定時で帰るぞ」
グンツは木炭ペンを握り、真っ白な図面の上に、新たな迷路の基礎となる太く力強い線を引いた。




