第49話 新たな辞令
特級迷宮『絶望の箱庭』の第10層。
勇者王との死闘と全階層の崩落から数週間が経過し、この階層は迷宮再建のための巨大な前線基地として機能していた。
絶え間なく行き交うオークの作業員たちの足音と、重低音を響かせる大型魔導重機の排気音。活気と粉塵に満ちたその喧騒から少し外れた一角に、緑色の人工芝が敷き詰められた奇妙な空間が存在していた。
グンツが崩落した岩盤の廃材と、余った魔導コンクリートを組み合わせて即席で造り上げた、広さ約300平米ほどのドッグランである。重機による振動を防ぐために基礎には幾重もの免震構造が施されており、周囲の過酷な現場とは切り離されたような穏やかな空気が流れている。
高いフェンスで囲まれたその安全な空間の中で、二つの毛玉が猛烈な勢いで交差していた。
「わんっ! わふっ!」
「きゅぅんっ、きゅんっ!」
ブランとノワールだ。
これまで資材置き場やテントの狭いスペースでしか遊んだことのなかった彼らにとって、足の裏に伝わる柔らかい人工芝の感触と、全力で走っても壁にぶつからない広大な空間は、本能を爆発させるに十分すぎる環境だった。
ノワールはフェンスに沿って弾丸のようなスピードで駆け抜けていく。時折急ブレーキをかけて芝生を蹴り上げ、見えない獲物を追うようにジグザグにステップを踏んだ。人工芝を蹴る小さな爪の音が小気味良く響く。その瞳は野生の輝きに満ち、風を切る感覚そのものを貪欲に楽しんでいる。
一方のブランは、ノワールほどのスピードはないものの、全身で喜びを表現していた。ノワールに追いつけなくなると、突然芝生の上にゴロンと転がり、短い手足を天に向けてバタバタと動かしながら、背中を擦りつけて草の匂いを堪能する。起き上がってはまた数歩走り、今度はフェンスの根元に落ちている小さな石の匂いを、鼻をヒクヒクさせて一心不乱に嗅ぎ始めた。
遊び方は対照的だが、二匹の口角は上がり、ピンク色の舌を出してハアハアと荒い息を吐きながらも、その顔にははっきりとした歓喜の色が浮かんでいる。
グンツはフェンスに背を預け、安全靴のつま先をコンクリートの基礎にコツコツと当てながら、手元のバインダーに挟んだ図面にペンを走らせていた。
木炭ペンが羊皮紙を擦る乾いた音。インクの微かな匂い。第11層から下の瓦礫の撤去手順、新たな魔力ラインのバイパス設計、そして地下水脈の再引き込み。再建のための課題は山積みであり、彼の頭の中はミリ単位の数値と応力計算で埋め尽くされている。だが、フェンスの向こうから聞こえてくる子犬たちの無邪気な足音と息遣いが、極限まで張り詰めた脳の熱を程よく冷ましてくれていた。
「……基礎のアンカーは、あと3メートル深く打ち直すか」
独り言を呟きながら図面に修正を書き込んでいると、背後から複数の硬質な足音が近づいてきた。
「少し休まれたらどうですか、総監督。瓦礫の撤去作業は、オークたちが三交代制で予定通り進めています」
振り返ると、ゼノビアが腕を組んで立っていた。その後ろには、リーゼロッテ、ステラ、レイラ、クロエ、セリアの姿もある。皆、それぞれの部署の書類や魔導板を抱え、忙殺されているはずの時間帯だ。
「図面が遅れれば、現場が止まる。休むのは基礎が固まってからだ」
グンツはバインダーから目を離さずに短く返した。
「そう言わずに、これに目を通して。人間界からの第一陣の『返答』よ」
ステラが、上品な仕草で1枚の分厚い羊皮紙をグンツの目の前に突き出した。
そこには、バルバロス侯爵と人間界の勇者ギルド連合からの、正式な損害賠償の支払い合意書が記されていた。彼らが引き起こした迷宮崩落に対する違約金、金貨5000万枚。魔界の法務部と裏社会のネットワークを総動員したステラとリーゼロッテの容赦ない取り立ての前に、人間界の経済圏は完全に屈服したのだ。厳重な封蝋とサインが、その効力が絶対であることを証明している。
「ご苦労なこった。これで重機の追加リースと、最高級の魔導コンクリートがいくらでも買えるな。リーゼロッテ、すぐに第三倉庫の拡張予算を――」
「その予算の使い道について、魔王陛下から直々に『ご指名』が入っているわ」
ステラの言葉を遮るように、ゼノビアが一通の封筒を取り出した。
漆黒の分厚い羊皮紙で作られたそれは、中央の真紅の蝋封がすでに割られていた。間違いなく、最重要の特命辞令だ。
グンツの右眉がピクリと動いた。
「……受け取らんぞ。俺は今、この迷宮の再建で手一杯だ」
「そう仰ると思いましたよ。ですから、私が事前に開封して内容を確認しておきました」
ゼノビアは封の切られた書面を引き抜き、淀みない声で読み上げた。
「『特級迷宮建築士グンツを、魔界全土のインフラ整備プロジェクトの総監督に任命する。人間界からの賠償金を全額投入し、主要街道の拡張、魔導列車の軌道敷設、広域水脈の整備を命ず』……とのことです」
グンツはペンを止め、深く、重いため息を吐いた。
「冗談じゃない。全90層の迷宮を一つ造り直すだけでも、数年単位の巨大工事だぞ。それに加えて魔界全土の土木工事の監督まで押し付けられてたまるか。俺の体がいくつあっても足りん」
「あら、そうとも言えないわよ」
ステラが新しい図面をフェンスに広げた。
「この賠償金5000万枚を、ただ迷宮の資材購入に充てるだけでは非効率なの。魔界の街道を拡張し、大型の魔導列車を通せば、各採掘場からこの『絶望の箱庭』への資材搬入速度が現在の10倍以上になるわ」
「おい、待て。だからといって魔界全土の――」
「待てません。物流ルートの拡張プランはすでにレイラさんと共有済みです」
リーゼロッテがグンツの言葉を遮り、手元のバインダーを叩いた。
「インフラが整えば、迷宮完成後の魔物の集客、冒険者の誘致、そして何より資材の物流コストが劇的に下がります。投資効率の観点から見て、これは不可欠な前提工事です」
「そういうこった! 今の細い山道じゃアタシらのトラックでも運べる量に限界があるんだよ」
レイラが首の後ろで手を組みながら、うんうんと頷いて身を乗り出してきた。
「でっけぇ街道ができれば、最新の超大型輸送車を導入して、一気に今の何倍もの魔導コンクリートを現場に叩き込めるぜ!」
まくし立てる三人の傍らで、セリアはすでに自分の魔導板に没頭し、魔界全土をカバーする新たな広域魔力ラインの設計図を猛スピードで引き始めていた。彼女の目は完全にマッドサイエンティストのそれに切り替わっており、こちらの会話には参加する気すらないらしい。
クロエもまた、一歩引いた位置から静かに頷いているだけで、反論する素振りは微塵もなかった。
「……お前ら、最初から俺を嵌めるつもりで結託してたな」
グンツはペンを回す手を止め、忌々しそうに低い声を出した。
「人聞きの悪いことを言わないで。私たちはただ、あなたの仕事の規模が少しばかり『拡大』したことに合わせて、最適なサポート体制を整えただけよ」
ステラが肩をすくめる。
「……チッ」
グンツは舌打ちをし、フェンス越しに視線を落とした。
そこには、いつの間にか全力疾走を終え、疲れ果ててフェンスの足元に丸くなっている二匹の姿があった。ブランはノワールのお腹を枕にしてスヤスヤと寝息を立て、ノワールも安心しきった顔で目を閉じている。
安全な場所と、確かなインフラ。それを魔界全土に広げる仕事。
グンツの胸の奥で、途方もなく巨大な現場に対する、職人としての静かな熱が点火するのを感じた。
「わかった。引き受けてやる」
グンツはバインダーから迷宮の図面を外し、白紙の羊皮紙を一番上にセットし直した。
「だが、現場の指揮は俺が執る。予算も資材も、一切の妥協は許さんぞ」
「ええ、もちろん。すべての領収書を正確に処理させていただきます」
リーゼロッテが深々と頭を下げる。
グンツはバインダーをしっかりと左腕に抱え、ペンを握り直した。
彼は白紙の図面に、新たな街道の基礎となる最初の一本線を引いた。




