第48話 瓦礫の上の決算
土煙が完全に晴れた最下層の空間には、ただ平坦に圧縮された分厚い岩の壁だけが存在していた。
迷宮の底まで落下し、数千万トンの質量によって限界まで押し潰された空間。そこにはもはや、剣の欠片も、鎧の残骸も、人間の細胞の破片すら見当たらなかった。
圧倒的な物理法則がもたらした、完全なる静寂と死の証明がそこにあった。
グンツは瓦礫の山から少し離れた、比較的平坦な岩盤の上に腰を下ろした。
全身の筋肉は悲鳴を上げ、魔力回路は焼き切れる寸前で鈍い痛みを放っている。だが、今は倒れ込む前にすべきことがあった。
彼は土埃にまみれた作業着のポケットから携帯用の小型魔力コンロを取り出し、カチリと着火する。青白い炎が静かに立ち上がり、周囲の冷え切った空気をわずかに温めた。
小さな鍋に水筒の水を張り、火にかける。湯が沸くのを待つ間、携行用の魔法保冷パックから食材と調理器具を取り出した。
すでに硬めに炊き上げて保温容器に入れてあった麦飯。
グンツはボウルに麦飯を移し、そこに細かく刻んだ野沢菜漬けと、フライパンでカリカリに炒っておいたたっぷりのちりめんじゃこを投入する。さらに白ごまをひとつまみ振りかけ、しゃもじで切るように手早く混ぜ合わせた。野沢菜の鮮やかな緑色とじゃこの香ばしさが、熱い湯気と共に立ち上る。
手に少量の塩と水をつけると、グンツは混ぜ合わせた飯をすくい取り、両手でリズム良く、あっという間に複数の三角形へと握り固めていった。傍らの平皿には、分厚く切った黄色い沢庵を数枚添えておく。
鍋の湯が激しく沸騰した。
グンツは火を止め、湯の温度がわずかに下がるのを数秒だけ待つ。熱湯のままでは卵が硬くなりすぎるためだ。人数分の椀を並べ、底に兵站局から配給された市販のフリーズドライの卵スープのブロックを割り入れる。そこへ、計算し尽くされた温度の湯を静かに、だが素早く注ぎ込んだ。
お湯を含んだブロックがフワリとほどけ、鮮やかな黄色の卵と緑のワカメが椀の中に広がっていく。グンツはそこに、あらかじめ刻んでおいた新鮮な万能ネギを散らし、仕上げに上質なごま油をほんの一滴だけ垂らした。
インスタントのスープが、ごま油の芳醇な香りとネギの辛味によって、疲労した身体が最も欲する奥深い風味を持つ一椀へと昇華された。
「食える奴から来い。飯だ」
グンツの短く低い声に、壁際で座り込んでいた女性陣がゆっくりと顔を上げた。
皆、泥と埃にまみれ、疲労の極致にあった。リーゼロッテはヒビの入った眼鏡を拭き、ゼノビアは破れたスーツの肩を押さえながら立ち上がる。レイラは足を引きずり、クロエは無言で岩壁から背中を離した。
誰も言葉を発することなく、グンツから手渡された皿と椀を受け取った。
レイラが大きなお握りにかぶりつく。
野沢菜のシャキシャキとした食感と程よい酸味、ちりめんじゃこの凝縮された旨味が、口の中でホロリと崩れる麦飯と混ざり合う。彼女は無言のまま力強く咀嚼し、目を閉じて熱い卵スープをすする。ごま油の香りが鼻腔を抜け、冷え切っていた胃の底からじんわりとした熱が湧き上がってくる。
リーゼロッテも、普段の上品な手つきを忘れたかのように、大きな沢庵をボリボリと音を立てて齧り、お握りを頬張った。極限まで酷使された身体の隅々へ、麦飯の熱と塩気が貪欲に染み渡り、枯渇していた活力が少しずつ底上げされていくのがわかる。
ゼノビアはスープの温かさに短く息を吐き、クロエは一口食べるごとに、自分自身の肉体が確実に修復されていく感覚を確かめていた。
グンツも自分のお握りを齧り、スープで流し込んだ。
美味い。ただそれだけだ。だが、この極限の状況下で、仲間たちと共に温かい飯を食い、胃袋を満たすことができる。それこそが、彼らが生き延びたという何よりの証明だった。
食事が半ばに差し掛かった頃、瓦礫の向こう側からヒールの音が響いてきた。
「あら、美味しそうな匂いね。私にも一口いただけるかしら」
土煙を払うようにして現れたのはステラだった。彼女のドレスの裾はひどく汚れ、プラチナブロンドの髪にも埃が被っていたが、その表情はいつものようなビジネスライクな笑みに満ちていた。
「外の残党どもは、完全に戦意を喪失して蜘蛛の子を散らすように逃げていったわ」
ステラはグンツからお握りとスープを受け取り、上品に齧った。
「味は最高ね。でも、ゆっくり食事を楽しんでいる暇はないかもしれないわよ」
彼女はスープを飲み干し、持っていた革の鞄から分厚い羊皮紙の束を取り出して、平らな岩盤の上にバサリと広げた。
「逃げたとはいえ、彼らに責任をとってもらう必要があるの」
「追撃する余力なんて、俺たちには残ってないぞ」
グンツが眉をひそめる。
「物理的な追撃じゃないわ。法的な追撃よ」
ステラは羊皮紙の束を指先で弾いた。
「この迷宮、全90層の岩盤が崩落したのよ? 第一期工事で利益を出したとはいえ、残りの階層のインフラ、水脈のバイパス、そして上層の防衛設備まで全部おじゃんになったわ。この莫大な損失、いったい誰が払うの?」
「……人間界のバルバロス侯爵、そして勇者連合を組織した各国のギルドです」
お握りを食べ終えたリーゼロッテが、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせてステラの隣に立った。彼女の手には、いつの間にか新しいバインダーと計算用の魔導具が握られている。
「ええ。ステラさんが結んだ事前の違約金契約があります。侯爵が軍事支援から手を引いたのは事実ですが、すでに迷宮内へ侵入していた軍勢が引き起こしたこの未曾有の崩落事故。これは明確な建造物損壊であり、不法侵入による重度な営業妨害です」
リーゼロッテの指が、魔導具の盤面を凄まじい速度で叩き始める。
「第1層から第90層までの完全復旧費用。大型魔導重機の再リース代。特殊魔導コンクリート数千万トン分の材料費。オークたちの残業代および危険手当。……さらに、勇者王の異常な結界能力によって消滅させられた、セリアさんの高価な魔導機器の補填費用」
リーゼロッテが読み上げるごとに、羊皮紙に恐ろしい桁数の数字が次々と書き込まれていく。
「ざっと見積もって、金貨5000万枚。……魔王軍の国家予算すら軽く凌駕する、天文学的な損害額です」
「上等ね。それを、バルバロス侯爵と、関与したすべてのギルド、および神聖教会に連帯で請求するわ」
ステラがペンを走らせる。
「もし彼らが支払いを拒否すれば、侯爵の領地はもちろん、教会の資産やギルドの権利もすべて差し押さえる。魔界の法務部と人間界の闇ギルドのコネクションをフルに使って、骨の髄まで搾り取ってやるわ。……彼らがこの迷宮の岩盤を落としたのなら、その代償は人間界の経済を落とすことで払ってもらわないとね」
食事を終えたばかりの瓦礫の上で、二人の女性は全く疲労を感じさせない恐ろしい熱量で、人間界を破滅へと追いやるための『請求書』の作成に没頭し始めていた。
グンツは空になった椀を置き、深くため息を吐いた。
相手は人間界最強の勇者王を失い、軍も壊滅した状態だ。そこへこの二人が法外な請求書を突きつければ、人間界の経済と政治は完全に崩壊するだろう。
物理の暴力よりも、契約と数字の暴力の方がよほど容赦がない。
「……たくましくて何よりだ。俺はお前たちの取り立ての腕を信じて、少し休ませてもらうぞ」
グンツはそう言い残し、平らな岩の上に仰向けに寝転がった。
冷たい岩盤の感触を背中に感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。魔力回路は完全に焼き切れ寸前だ。だが、不思議と心は穏やかだった。
数千万トンの岩盤の崩落。
それを一から片付け、再び完璧な迷宮を組み直すという、気が遠くなるような土木工事が待っている。
だが、彼には優秀で悪魔的なまでに頼もしい仲間たちがいる。資金の心配は、彼女たちが必ず解決してくれるだろう。
自分はただ、設計図を引き、現場で泥にまみれるだけでいい。
「……さて。明日は重機の搬入経路から造り直すか」
瓦礫の山の上で、特級迷宮建築士は静かに呟いた。




