第43話 最後の晩餐
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第50層の非常用退避エリア。
この階層は本来、迷宮が完全崩壊の危機に瀕した際に、魔王軍の幹部や貴重な研究資料を一時的に保護し、魔界本国への帰還用ゲートを起動するために設計された強固な防空壕だった。
しかし今、その分厚い壁面は上層から伝わる凄まじい地響きによって、絶え間なく微振動を続けていた。
退避エリアの中央に設置された大型の監視水晶の前に、レイラやゼノビアたち五人が釘付けになっていた。
そこに映し出されているのは、第40層の惨状だ。空間のすべてを埋め尽くした、数万トンにも及ぶ岩盤の瓦礫。その中心部が内側から不自然に隆起し、次々と黒い亀裂に飲み込まれていく。
やがて、丸く抉り取られた岩盤の隙間から、純白の軽鎧を着たアレクサンダーが静かに歩み出てきた。
「……嘘だろ。あれだけ岩石が直撃して、なんで髪の毛一本乱れてないんだよ」
レイラが信じられないものを見るように、水晶の映像を見つめたまま呻いた。
「落下してきた岩盤を、結界で削り取っただけではありません……。処理しきれなかった莫大な質量を、彼自身の肉体強度だけで完全に耐え凌いでいます」
ゼノビアが、額に冷たい汗を滲ませながら低い声で言った。彼女の分析に、他のメンバーも言葉を失う。
空間を切断する絶対の盾と、数万トンの岩盤の直撃にすら無傷で耐える規格外の肉体。
打つ手はすべて尽きた。グンツの仕掛けた最大の物理罠ですら足止めにしかならなかったという事実が、重く冷たい鉛のように退避エリアの空気を沈み込ませていた。
その重苦しい静寂を破るように、非常用退避エリアの重厚な防爆扉が、鈍い金属音を立ててゆっくりと開いた。
「……お前ら、なんでまだここにいるんだ」
粉塵で真っ白になり、作業着のあちこちを引き裂かれたグンツが、咳き込みながら姿を現した。
彼の右腕の小脇には、泥だらけになった白犬のブランが抱えられ、左腕には同じく真っ黒になったノワールがしっかりと抱きかかえられている。間一髪で崩落の隙間を縫い、ワイヤーアンカーとダストシュートを経由して、この階層まで二匹ごと退避してきたのだ。
「グンツさん!」
リーゼロッテが弾かれたように立ち上がり、彼の元へ駆け寄る。その金色の瞳には、安堵の涙が微かに滲んでいた。
「グンツ様! ご無事で……!」
「ったく、ヒヤヒヤさせやがって! アタシが掘り返しに行こうと思ってたところだぞ!」
セリアとレイラも、グンツの無事な姿を見て声を上げる。
「だから、なんでまだ転移ゲートを作動させてないんだって聞いてるんだ。あいつはもう、すぐそこまで来てるぞ。とっくに魔王城へ撤退してるはずだろ」
グンツは彼女たちの歓喜を遮るように、呆れた声で言いながら、腕の中の二匹を床に下ろした。ブランとノワールは短い足でタタタッと走り、リーゼロッテの足元にすり寄って甘えるように鳴き声を上げた。
「帰れるわけないでしょうが。現場の総監督を置いて、私たちだけが逃げ帰るなんて、魔王軍の幹部として絶対に許されないわ」
ヴィオラが、腰に手を当てて強い口調で言い返す。
「それに、あなた一人をあの男の前に残したままでは、私が持ち帰ったデータの意味がありません」
吸血鬼のクロエが、壁にもたれかかりながら静かに言った。彼女の顔色はまだ少し青白いが、第21層での致命傷からは既に回復し、その瞳には理知的な光が宿っている。
「……お前の命懸けの検証データを、俺が無駄にするわけがないだろ」
グンツは短く答え、大きく息を吐いた。
「だが、結果は見ての通りだ。俺の物理演算の限界を超えた。……あいつはバグの塊だ」
グンツは重い足取りで、退避エリアの奥に設けられた小さな簡易厨房へと向かった。
そこには、長期間の籠城を想定して、兵站局から支給された大量の保存食と、いくらかの生鮮食品が備蓄されている。
「……腹が減った。頭を回すには、糖分と水分が足りねぇ」
グンツは厨房の冷蔵用の魔導具を開け、中から大きな、よく冷えた緑色の球体を取り出した。
縞模様の入った、見事な大玉のスイカである。魔界のオアシス周辺で栽培されたもので、よく熟れた果実の重みがあった。
グンツは手早くスイカを半分に切り、さらに食べやすい半月型に厚くスライスしていく。
包丁を入れるたびに、シャクッという小気味良い音と共に、真っ赤な果肉から甘い果汁が溢れ出す。
「ほら、お前らも食え。これが最後の晩餐になるかもしれないからな」
グンツが大きな銀盆に山盛りのスイカを乗せてテーブルに置くと、足元から「きゅ〜ん」「わふっ」という鳴き声が聞こえた。
見れば、先ほどまでリーゼロッテに甘えていたブランとノワールが、甘い匂いに釣られてグンツの足元へやってきている。
彼らにとって、生の果物を見るのはこれが初めてだ。
「お前らには、少し大きすぎるか」
グンツは苦笑し、二匹のためにスイカの果肉を小さくサイコロ状に切り、種を丁寧に取り除いてから小さな木皿に盛ってやった。
ブランは不思議そうに赤い果肉の匂いを嗅ぎ、恐る恐る舌を伸ばしてペロリと舐める。途端に、その黒くつぶらな瞳が見開かれた。
「きゅぅんっ!」
冷たくて甘い初めての味覚に驚いたのか、ブランはすぐさま木皿に顔を突っ込み、シャクシャクと音を立てて夢中で果肉を咀嚼し始めた。
それを見たノワールも負けじと横から顔を突っ込み、ブランを鼻先でグイッと押しのけるようにして果肉にかぶりつく。二匹は口の周りを真っ赤な果汁でベタベタにしながら、一心不乱にスイカを飲み込んでいった。
その赤ん坊たちの無邪気な食事風景に、張り詰めていた退避エリアの空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……で? 逃げずに残ったってことは、あいつを倒すための腹案でもあるんだろうな」
グンツはスイカを一切れ手に取り、赤い果肉に軽く塩を振ってから、大きくかぶりついた。
水分と糖分、そして適度な塩分が、疲労困憊の体に染み渡る。
「……いえ。現状、私たちの手持ちの戦力と罠のシステムでは、彼に傷一つ負わせることは不可能です」
リーゼロッテが、自分の分のスイカの種をフォークで上品に避けながら、冷徹な事実を告げた。
「あの空間切断の結界を突破しない限り、物理も魔法も届きません。そして、その結界の処理能力を上回る質量攻撃ですら、彼を足止めすることしかできませんでした」
ゼノビアが、深刻な顔で続く。
「……だったら、どうする。ここで指をくわえて、あいつがこの扉を消し去るのを待つか?」
グンツがスイカの皮をゴミ箱へ放り投げ、鋭い視線で全員を見回した。
「……一つだけ、気になっていることがあります」
クロエが、指先で顎に触れながら静かに口を開いた。
「彼の結界は、常に周囲二メートルに展開されています。……でも、少し引っかかりませんか。あれだけの魔力を消費する異常な防御機構を、寝ている間も寸分の狂いなく、完全に自動で維持し続けられるものでしょうか」
クロエの言葉に、グンツの右目が微かに反応した。
「報告では、無意識下でも展開されているとあったわ」
ステラが手元の資料を思い出しながら反論する。
「ええ。ですが、それはあくまで『彼にとって想定可能な脅威』に対してではないかと。……もし、彼の認識から『防御』という概念そのものを完全に消去させるほどの、意識の空白を作れたら……」
クロエは言い淀み、探るようにグンツを見た。
「……意識の空白」
グンツは低く呟き、手元の《構造解析》のコンソールを再び起動した。
物理的な圧力でも、魔法による破壊でもない。彼自身が「自分は絶対に安全だ」と錯覚し、結界の維持というタスクを脳から完全に飛ばす瞬間。
……そのコンマ数秒の隙に、奴の致死量を遥かに超える一撃を叩き込む。
グンツの脳内で、バラバラだった思考のピースが猛スピードで組み上がり、一つの恐るべき設計図として形を成していく。
彼はコンソールのキーを弾き、迷宮の最深部の構造データを呼び出した。
「リーゼロッテ、ゼノビア。本国への転移ゲートのチャージを開始しろ。ステラは、残っているすべての予備魔力タンクの接続を俺のコンソールへ切り替えろ。レイラとセリアは、俺の指示した座標へ……急いで『ある物』を設置してこい」
グンツの瞳に、職人としての冷酷な光が宿った。
「……特急で仕掛けるぞ。仕事の時間だ」




