第44話 構造的弱点
特級迷宮『絶望の箱庭』の最下層、第50層に設けられた非常用退避エリア。
分厚い特殊合金と魔導コンクリートで四方を完全に覆われたその密閉空間の中で、特級迷宮建築士グンツの両手は、操作コンソールの盤面上で残像を引くほどの恐ろしい速度で乱舞していた。
彼が現在行っているのは、魔王軍の歴史上類を見ない、迷宮そのものを内部から自壊させ、巨大な一つの兵器として再構築する超特大の即席工事である。
調達部のステラが外部から掻き集め、コンソールに直列で接続した数十基の予備魔力タンク。そこから供給される莫大な魔力が、グンツの身体というフィルターを経由し、迷宮の基幹構造へと直接、そして暴力的に流し込まれていく。
彼の右目は青白く発光し、《構造解析》が弾き出す赤い警告の文字列が視界を滝のように流れていた。脳の血管が焼き切れそうなほどの情報処理の負荷に顔を歪めながらも、彼は一度も瞬きをすることなくキーを叩き続けた。
「……第41層から第49層までのフロアを支えている主柱、および床板の固定ボルトの全パージ完了。これで上部の空間は、階層の区切りがない、長さ数十メートルに及ぶ一本の巨大な縦穴になった」
グンツが額の脂汗を腕で拭いながら短く報告すると、背後で息を呑む音が聞こえた。
「……グンツさん。今の操作で、フロア九層分のインフラ設備と岩盤が完全に放棄されました。これまでの投下資本と資材の損失額、推定で金貨数十万枚に達します。……正気ですか」
経理担当のリーゼロッテが、バインダーを抱える手に力を込め、血の気を失った顔で問い詰める。彼女の計算能力が、一瞬にして消え去った資産の莫大さを残酷なまでに正確に弾き出していた。
「正気だ。命と迷宮の核さえ残れば、いくらでも建て直せる」
グンツはコンソールから視線を外さず、低く、しかし力強い声で返した。
「それに、あのバグ野郎を仕留めれば、これまで以上のドロップ品と、最強の勇者を葬ったという『名声』が手に入る。その後の集客効果を考えれば、これは損失じゃない。魔王軍の未来へ向けた最大級の先行投資だ」
「……わかりました。経理として、その言葉を信じてこの天文学的な赤字を特別損益として計上します。絶対に、倒してくださいね」
リーゼロッテは深く息を吐き、覚悟を決めたようにバインダーを閉じた。
そこへ、部屋の奥で作業をしていた品質保証部のクロエが、静かな足取りで近づいてきた。
「グンツさん。この第50層の防爆扉の気密性、完全です。外部との循環システムは、セリアさんが先ほど溶接して完全に遮断しました。……ですが、ここからどうするのですか?」
クロエは首を傾げた。
「上層の岩盤を一気に落下させて、密閉空間内の空気を極限まで圧縮し、超高温を発生させる。……その恐るべき熱量の罠を最大限に活かすためには、勇者をこの防爆扉のすぐ外側、落下地点の真下にピンポイントで誘導し、さらに彼の無意識の結界の出力を緩めさせる必要があります。あの警戒心の塊のような彼に、どうやって隙を作らせるのです?」
「問題ない。あいつの意識のベクトルを完全に逸らすための、極上の囮ならすでに準備してある」
グンツがコンソールから離れて振り返ると、部屋の奥の簡易厨房スペースには、信じられない光景が広がっていた。
「任せな! 第一期エリアの備蓄庫から、最高級のフレイムボアの骨付き肉を丸ごと持ってきたよ!」
物流のレイラが、自分の上半身ほどもある巨大な赤身肉の塊を、金属製のテーブルの上にドンッと豪快に置いた。
その隣では、研究開発部のセリアが手早く組み上げた大型の魔力コンロの中で、火力を増幅させる特殊な魔力炭がパチパチと心地よい音を立てて真っ赤に熾きている。
「防爆扉には一切の手を加えず、このコンロの排気ダクトだけを、扉の外の空間へと通るように単独の細い管で接続しましたわ! もちろん、外からの熱や圧力が逆流しないよう、強固な一方弁を何重にも組み込んでありますのよ。これで、このお肉の焼ける香ばしい匂いだけを、ダイレクトに敵の鼻先へお届けできますわ!」
セリアが白衣の袖をまくり上げ、手際よくダクトの管をコンロの真上にセットし直した。
「よし。焼け」
グンツの指示と同時に、レイラが巨大な骨付き肉を金網の上に乗せた。
ジュワァァァァッ!!
静まり返った退避エリアに、強烈に食欲をそそる脂の弾ける音が響いた。
分厚い赤身肉から滴り落ちた濃厚な脂が、真っ赤な炭火に触れ、濃密で野性味あふれる白い煙となって爆発的に立ち上る。
グンツがあらかじめ肉に揉み込んでおいた、焦げた醤油とニンニク、そして魔界特産のスパイスをベースにした特製ダレの匂いが、狭い空間を一瞬にして満たしていく。煙はセリアの操作するダクトに勢いよく吸い込まれ、分厚い扉の向こう側へと送られていった。
部屋の隅で大人しく丸くなっていた二つの毛玉が、バネ仕掛けのように顔を上げた。
真っ白なグレートピレニーズのブランと、漆黒のドーベルマンのノワールだ。
彼らにとって、生肉や茹でた肉は食べたことがあっても、これほどまでに直接的なタレの焦げる匂いと、脂の乗った焼肉の匂いを嗅ぐのは、生まれて初めての経験だった。
「きゅ……っ! わふっ!」
ブランはグンツの「待て」の命令を守り、行儀よくお座りの姿勢を保とうとしている。しかし、その前足は期待と本能的な興奮を抑えきれず、パタパタ、トントンとフローリングの上で小さなタップダンスを刻んでしまっていた。真っ黒な鼻先は限界まで上を向き、空中の匂いを少しでも多く取り込もうと必死にヒクヒクと動いている。
隣のノワールに至っては、もはや理性を保つのがやっとだった。鋭い牙の隙間からツツーッと細いヨダレの糸を床に垂らし、金網の上で美しい焦げ目をつけていく肉の塊から、文字通り一瞬も視線を外そうとしない。時折、待ちきれないように喉の奥で切実な声を漏らしている。
「こらこら、お前らの分もちゃんとあるから焦るな」
グンツは苦笑しながら、よく焼けて火が通った端の柔らかい部分をナイフで切り落とした。火傷しないように別皿で少し冷ましてから、二匹の専用の木皿に置いてやる。
「よし、食え」
「はふっ、はふっ、くちゃっ!」
待ってましたとばかりに、二匹は猛烈な勢いで木皿に顔を突っ込んだ。まだ少し熱いのか、口を半開きにして熱気を逃がしながらも、野生の本能を剥き出しにして分厚い肉を食いちぎる。顔中をタレと肉汁でベタベタにしながら、あっという間に喉の奥へと飲み込み、さらに次をねだるように尻尾を振ってグンツを見上げた。
「……まぁ、なんて美味しそうなんでしょう。私も一口いただいていいですか?」
ヴィオラがたまらず肉に手を伸ばし、他の女性陣も次々と焼き上がった肉をつまみ始める。
防爆扉の向こうには規格外の敵が迫っているという緊迫感と、まるで休日のバーベキューのような平和すぎる食事風景。
退避エリアが完全に狂ったコントラストに支配された中、扉の向こう側の通路から、空気を重く震わせるような足音が響いた。
「……来ました」
肉を咀嚼していたゼノビアが、スッと腰の長剣の柄に手をかけながら低く告げた。リーゼロッテも息を呑み、いつでも本国へ通じる転移ゲートを起動できるよう、手元のレバーに手を添える。
足音は、分厚い扉のすぐ外でピタリと止まった。
アレクサンダーは、深い疲労の中にいた。
どれだけ強力な物理罠も、即死の魔法も、彼の空間切断の結界の前には無意味だった。だが、絶え間なく続く罠の嵐の中を、足元の崩落に気を配りながら何十層も歩き続けることは、彼の無尽蔵の魔力をもってしても、精神的な摩耗と確実な酸素不足による疲労を蓄積させていた。
彼は迷宮の最深部であるこの扉の前で、最後の死闘を覚悟した。魔王軍の幹部たちが総力を挙げて、これまで以上の凶悪な魔法陣か、巨大な魔物を召喚して待ち構えているはずだと。
だが、扉の奥から漏れ出してきたのは、殺気でも、魔法陣の魔力でも、強大な魔物の咆哮でもなかった。
(……なんだ、この匂いは?)
ダクトから吹き出してくる、醤油と脂の焼ける強烈な匂。
微かに聞こえる、肉を裏返す音や、楽しげな女たちの声、そして犬の鳴き声。
アレクサンダーの足が、完全に止まった。
常に無機質で感情の欠落していた彼の碧眼に、迷宮に入って初めて、明確な困惑の色が浮かんだ。
魔王軍の幹部たちが、絶望して戦いを放棄し、最期の晩餐を楽しんでいるのか。それとも、ただ狂っているのか。
強敵との死闘を想定していた彼の脳内で、目の前の存在が排除すべき脅威から理解不能な光景へと切り替わったのだ。
彼の認識から『防御』という概念がわずかに外れ、無意識下で常に周囲の空間を切り裂き続けていた絶対の結界が、ほんの一呼吸だけ、ただの魔力障壁レベルにまで薄れた。
監視水晶越しにそのわずかな魔力変動の揺らぎを捉えたグンツの右目が、鋭く光った。
「……食い付きやがったな。沈め」
グンツが、肉用のフォークの柄に偽装して仕込んでおいた起爆スイッチを、親指で深く押し込んだ。
ゴオンッッッ!!!!!!
勇者の頭上、第41層から第49層までのフロアの岩盤を支えていたすべてのロックが、一斉にパージされた。
巨大な岩盤が、階層の区切りを失った縦穴の中で一つの巨大な塊となり、完全密閉されたこの第50層に向かって、超音速で自由落下を開始した。
「なっ――」
アレクサンダーが上を見上げた瞬間、縦穴の底の気圧が爆発的に上昇した。
逃げ場を失った大量の空気が、落下してくる岩盤の絶対的な質量によって極限まで圧縮されていく。
空間内の温度が熱力学の法則に従って数十度、数百度、そして一瞬にして数千度へと跳ね上がった。
空間を切断する最強の盾があろうと関係ない。
彼が今まさに呼吸するために、結界の内部に取り込んでいる空気そのものが、数千度の超高温プラズマと化して彼の肺を内部から焼き尽くし、網膜を蒸発させた。
ズドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
縦穴全体がひしゃげるような、規格外の激突音が鳴り響いた。
分厚い防爆扉の向こう側で発生した凄まじい衝撃波と熱波が、退避エリアの壁や床を激しく揺さぶる。ヴィオラたちが思わず耳を塞いで蹲り、子犬たちが驚いてグンツの足元へと潜り込んだ。
防爆扉はひん曲がり、表面は赤熱していたが、間一髪でその気密性を保ち、中の彼らを守り抜いた。
永遠とも思える振動が収まり、やがて、重苦しい静寂が降りてきた。
誰もが言葉を失う中、グンツはゆっくりと立ち上がり、赤熱した扉を睨みつけた。




