第40話 レイド崩壊と、ひとつの星
魔界の中心街から少し外れた高台に、魔族の貴族や富裕層が静かな時間を過ごすための空中庭園カフェがある。
緑豊かな魔界植物が緻密に手入れされた庭園を見下ろすテラス席で、グンツは小さなフォークを手に、目の前の皿に乗った黒いケーキと睨み合っていた。
「……甘すぎるのは苦手だと聞いていましたから、カカオの純度が高いガトーショコラを選びました。お口に合いませんか?」
向かいの席で、上品な白磁のカップを傾けながらゼノビアが尋ねた。
今日の彼女は軍服ではなく、動きやすさを重視した濃紺のサマードレスに、薄手のストールを羽織っている。首筋から肩にかけてうっすらと浮かぶ竜の鱗がストールで絶妙に隠され、エキゾチックで落ち着いた大人の女性の魅力を引き立てていた。
「いや、美味い。ただ、こういう繊細な菓子を食うのに慣れてないだけだ」
グンツはフォークでガトーショコラを切り分け、口に運んだ。
濃厚なカカオの深い苦味が広がり、その奥に練り込まれたオレンジピールの爽やかな酸味が鼻へ抜ける。現場でかき込むような塩気と脂気の強い賄い飯とは全く違う、計算し尽くされた静かな味わいだった。深く焙煎されたコーヒーでそれを流し込むと、酷使し続けてきた脳の疲労がじんわりと溶けていくような感覚があった。
休日にまでわざわざ彼をこの静かなカフェへと連れ出したのは、ゼノビアだった。
「現場の総監督として、見事な手腕です。しかし、少しは肩の力を抜いて休まなければ、またあの時のように倒れてしまいますよ」
「心配をかけたな。だが、第一期エリアの改修が終わったとはいえ、まだ下層の工事が山積みだ。現場の連中が泥水すすって働いている時に、俺だけが休むわけにはいかないからな」
「あなたは自分の責任を背負い込みすぎる。部下の労働環境を守ることも大切ですが、あなた自身の心身の健康も、魔王軍にとっては重要な資産なのです」
ゼノビアはカップをソーサーに置き、ふと、グンツのテーブルの上に置かれた手を見つめた。
分厚く、関節がゴツゴツと隆起し、無数の小さな切り傷や火傷の痕が残る手。それは魔法だけで罠を造るのではなく、自ら岩盤に触れ、重機を動かし、現場で泥にまみれてきた職人の手だった。
「……その手で、どれだけの命を救い、どれだけの絶望を退けてきたのでしょうね。私は監査官として多くの現場を見てきましたが、あなたほど誠実な現場監督を知りません」
彼女の金色の爬虫類眼が、柔らかな光を帯びてグンツを見据えた。
グンツが照れ隠しにコーヒーを飲もうとした、その時だった。
グンツの作業用ベストのポケットに入っていた通信機が、けたたましい振動と警告音を発した。
ゼノビアの表情が、一瞬にして冷徹な監査官のそれへと戻る。グンツが通信機を耳に当てた。
『グンツさん! 今すぐ、至急管理室へ戻ってください! 第21層の防壁が……突破されました!』
通信越しに聞こえるリーゼロッテの声は、かつてないほどに切羽詰まり、硬く上ずっていた。
「……すぐに行く」
グンツはコーヒーの代金となる銀貨をテーブルに叩きつけるように置き、ゼノビアと共にカフェを飛び出した。
★★★★★★★★★★★
特級迷宮『絶望の箱庭』、第10層の統括管理室。
鉄扉を乱暴に開けて中に入ったグンツの目に最初に映ったのは、部屋の隅で身を寄せ合い、小刻みに身をすくませている二匹の子犬の姿だった。
ブランとノワールが、尻尾を股の間に巻き込み、怯えきった声で低く「くぅぅ……っ」と鳴いている。動物の生存本能が、迷宮の奥底から迫り来る異常な気配を察知して恐怖しているのだ。
「状況を説明しろ」
グンツが監視水晶の前に歩み寄ると、ヴィオラ、ステラ、セリア、レイラ、クロエの全員が、血の気のない青ざめた顔で画面を見つめていた。
「これを見て……。数分前、第21層の防壁の前に、たった一人で現れたのよ」
ヴィオラが強張った指先でコンソールを操作する。
水晶に映し出されたのは、第21層から第22層へと続く通路の光景だった。そこには、これまでの防衛戦で処理しきれずに積み上がっていた、連合軍の残存部隊の無惨な瓦礫と死体の山が広がっている。
その血と泥にまみれた残骸の山を、一人の男が平然と踏み越えて歩いていた。
金髪碧眼。一切の装飾を持たない純白の軽鎧。手には、ごくありふれた両刃の直剣が握られている。
一見すると、どこにでもいる平凡な剣士のようだ。
しかし、彼が歩みを進めるたびに、周囲の空間そのものが『歪んで』いた。
男の頭上から、感知式の罠が作動して巨大な岩盤が落下してくる。
男は剣を振るうどころか、上を見上げることすらしない。ただ真っ直ぐに歩いているだけだ。
だが、落下してきた数万トンの岩盤は、男の頭上数メートルの空間に触れた瞬間、まるで見えない巨大な刃にスライスされたかのように、音もなく縦に真っ二つに割れ、彼を避けるように左右へとズドスンと落ちた。
「……魔力による防御ではありません。彼の周囲だけ、空間の連続性が断たれています」
クロエが、自分の腕を強く抱きしめながら呟いた。
「……私の血を霧状にして散布しても、彼に触れる前に空間の断層に飲み込まれ、消滅してしまいました。いかなる物理も魔法も、一切の干渉が不可能です」
「人間界の裏社会で囁かれていた都市伝説……教会の最深部で秘密裏に育てられているという『星』の話、まさか実在していたなんて」
ステラが赤い唇を噛み締め、冷や汗を流している。
「あらゆる魔力計の針が振り切れているわ。限界値が存在しない……人間界でただ一人『王』の称号を持つ勇者、アレクサンダーよ」
男の行く手を阻むように、セリアが設置していた絶対零度の急速冷凍ガスが噴射される。しかし、ガスは彼に届く前に黒い亀裂のような空間の歪みに吸い込まれ、完全に消滅した。
自己増殖ワイヤーも、強酸のスライムも、彼から一定の距離に入った瞬間にパラパラと灰のように崩れ去り、無に帰していく。
「チッ、あんな常に空間切断の結界を張られた状態じゃ、アタシのトップスピードで突っ込んでも、触れた瞬間にミンチになっちまうぞ……」
レイラが悔しそうに拳を壁に叩きつける。
「彼自身の戦闘力もさることながら、ただ歩いて通過するだけで、当迷宮のインフラと防衛設備が根こそぎ空間ごと削り取られていきます。このままでは、あと数時間で最深部の迷宮核まで一直線に突破されます」
リーゼロッテは、バインダーを握りしめる指の関節が白くなるほど力を込めていた。
ただ静かに歩みを進めるその男の前では、これまでの知略も物理法則も、すべてが無に帰そうとしていた。
管理室が絶望的な沈黙に包まれる中。
グンツの右目が青白く光り、《構造解析》が発動する。
彼は水晶の映像を凝視していた。だが、彼の目は男の身体でも、空間を切断する異常な結界の構造でもなく、もっと根本的な物理環境に焦点を合わせていた。
「……グンツ?」
ゼノビアが、彼のただならぬ気配に気づいて声をかけた。
グンツは、傍らのロッカーから愛用のヘルメットを取り出し、深く被った。
そして、壁に立てかけてあった巨大な図面ケースを引き寄せ、机の上にバサリと広げる。
「空間を切断しようが、魔力が底なしだろうが関係ない」
グンツの声には、絶望も、諦めも、一切含まれていなかった。
あるのはただ、眼前の理不尽な障害物をどうやって解体するかを計算する、純粋な職人の執念だけだ。
「あいつは地面を踏んで立っている。空気を吸って呼吸をしている。なら、完全にこの星の物理法則の外側にいるわけじゃない。俺たちの現場のルールに引きずり込める隙は必ずある」
グンツは木炭ペンを握り、真新しい図面に太く、力強い線を引いた。
「第22層から第39層までの防衛ラインは完全に放棄する。奴を、まだ岩盤が手付かずの第40層の未開拓ブロックまで一気に引き込むぞ。リーゼロッテ、直通ルートの隔壁をすべて開け!」
「は、はいっ!」
「セリア、お前の在庫の魔導爆薬をすべて第40層の指定座標へ転送しろ! レイラは重機を使って、第40層の天井部分の岩盤を限界まで削り落とせ!」
「任せな!」
特級迷宮建築士の揺るぎない指示出しと眼光に当てられ、青ざめていた女性たちの顔に、少しずつ生気が戻っていく。
リーゼロッテが深く息を吸ってバインダーを開き直し、ゼノビアが教本のホックを外して前線への同行を志願する。
グンツはペンを休めることなく、大軍勢すら退けた特級迷宮の全リソースを、たった一人の侵入者を殺すための『一撃』へと再構築し始めた。




