第39話 契約の執行
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第10層の統括管理室。
迷宮の防衛設備を限界までオーバードライブさせた凄まじい振動と熱の余韻が、コンソールの周囲に未だ漂っている。だが、総勢1万人という未曾有の大軍勢の脅威が完全に去ったわけではない。
グンツはコンソールから少し離れた簡易厨房に立ち、黙々と食材と向き合っていた。
限界稼働を続ける迷宮のシステムを維持し、次々と押し寄せる敵の動きを解析し続けるには、現場の職人たちに絶え間ないカロリーと塩分の補給が必要不可欠だ。
彼は大きなボウルを用意し、ふっくらと炊き上がった熱々の白米を移した。香ばしく焼き上げた鮭の切り身から丁寧に骨を抜き、粗くほぐしてボウルに投入する。さらに、甘辛く煮詰められた小女子の佃煮をたっぷりと加えた。
しゃもじを使い、米粒を潰さないようにサックリと、かつ具材が均等に行き渡るように混ぜ合わせる。手に軽く塩を振り、火傷しそうなほど熱い飯を両手で包み込んだ。力を込めすぎず、中に適度な空気を含ませる絶妙な力加減で、大ぶりの三角形に形を整えていく。
皿の空いたスペースには、ごま油と唐辛子で炒めた高菜、白菜・大根・胡瓜・ニラの鮮やかなキムチ4種盛り合わせ、そして強烈な酸味と塩気を持つ大粒の梅干しを添える。
隣のコンロでは、昆布と鰹の合わせ出汁を入れた鍋が湯気を立てていた。細かく刻んだみぶ菜をさっと煮てから、風味豊かな味噌を溶き入れる。みぶ菜のシャキシャキとした食感と爽やかな辛味が、濃厚な出汁と見事に調和した『みぶ菜の味噌汁』の完成だ。
「リーゼロッテ、レイラ。飯だ。手が空いた奴から食え」
グンツがテーブルに皿を並べると、バインダーを手放せないリーゼロッテと、ヘルメットを小脇に抱えたレイラが足早にやってきた。
「胃に染み渡りますね。この鮭の塩分と糖質が、枯渇しかけていた魔力回路を強制的に再起動させていくのがわかります」
リーゼロッテは行儀よく、だが現場の人間らしい淀みないペースでお握りを口に運ぶ。
「ウマっ! やっぱ疲れた時はこういうガッツリした味が最高だな。キムチと高菜だけで無限に飯が食えるぜ!」
レイラは豪快にかぶりつき、みぶ菜の味噌汁をゴクゴクと喉に流し込んだ。
グンツも味噌汁をすすり、胃の底から湧き上がる熱を感じていた。
足元では、ブランとノワールが味付け前の鮭の切れ端を貰い、夢中で短い尻尾を振りながら咀嚼している。白と黒の毛玉が仲良く並んで食べる姿は、殺伐とした最前線の空気の中で唯一のオアシスだった。
「……で、外の状況はどうなっている」
グンツが梅干しを齧りながら尋ねると、リーゼロッテは片手でお握りを持ちながら、バインダーのページを素早くめくった。
「入り口付近の第1層および第2層のクリア済みエリアに、一度敗走した連合軍の残党……約三千人が再集結し、野営陣地を構築しています。主力部隊を失った彼らは深層への強行突破を諦め、罠の解除と迷宮の構造解析、完全な持久戦に切り替えたようです」
「持久戦の構えか。一番厄介な戦術だな」
グンツは顔をしかめた。
防衛設備が限界稼働できる状態であっても、相手が罠の範囲に入り込んでこなければ作動しない。彼らが時間をかけて少しずつ壁を壊し、罠の死角を広げていけば、いずれ防衛ラインはジリジリと後退を余儀なくされる。
「しかも、彼らは地上から絶え間なく補給を受けています」
リーゼロッテが監視水晶の映像を切り替える。
そこには、迷宮の入り口に向かって、大量の食料、ポーション、予備の武器を運び込む輸送部隊の姿が映っていた。
「兵站が完全に機能している限り、彼らが疲弊することはありません。逆に、オーバードライブで魔力を消費しすぎたこちら側の体力が先に限界を迎えます」
「チッ、ならアタシが魔導車で外の輸送ルートをもう一度ぶっ潰してこようか? 物流を止めるならお手の物だぜ」
レイラが拳を鳴らして立ち上がった。
「その必要はないわ、レイラ」
静まり返った管理室に、艶やかな声が響いた。
鉄扉が開き、ステラが優雅な足取りで入ってきた。彼女は深いスリットの入った真紅のドレスを身に纏い、手には一枚の古い羊皮紙をヒラヒラとさせている。
「相手の兵站を止めるのに、わざわざ暴力を使って体力を消耗する必要なんてないの。彼らの『財布の紐』は、もう私がしっかりと握っているのだから」
「財布の紐だと?」
グンツが眉をひそめると、ステラは細めた目で艶然と笑い、監視水晶のコンソールに自身の魔導板を接続した。
水晶の映像が切り替わり、地上の荒野に設営された、ひと際豪華な連合軍の本陣テントの内部が映し出された。
そこには、高価な毛皮のコートを着込み、ふんぞり返ってワインを飲んでいる恰幅の良い人間の貴族の姿があった。
「あいつは、人間界の東部を牛耳る大貴族、バルバロス侯爵。今回の連合軍を組織し、莫大な物資を提供している最大のスポンサーね。この特級迷宮を陥落させた後に得られる、莫大な魔力資源とアーティファクトの利権を独占するため、先行投資としてあの軍を動かしているの」
ステラは赤い唇を舐め、手元の羊皮紙を指で弾いた。
「でも、投資家というのは常に確実なリターンを求める生き物よ。だから昨日、1万の軍勢が崩壊して足を止めたタイミングで、私の使い魔を通して彼に直接囁いたのよ」
「……昨日だと? お前、俺たちがオーバードライブで必死に防衛している裏で、敵の親玉と接触していたのか」
「ええ。『これ以上軍事支援を続けても、彼らが勝つ保証はない。無駄な出費を続けるより、魔王軍と直接取引をしない? 迷宮の深層資源をあなただけに独占的に卸す契約を結んであげるわ。ただし、今すぐこの無駄な軍事支援から手を引くことが条件だけれど』ってね」
グンツとリーゼロッテは、ステラのあまりにもえげつない裏工作に言葉を失った。
「バルバロス侯爵は欲深い男よ。勇者たちが連戦連敗で足踏みしている現状を見て、投資の回収に焦っていた。だから、私の提示した絶対確実な利権の契約書に、喜んでサインしたわ。……もちろん、私の《魅惑の歌声》を少しだけ乗せた交渉術で、思考を誘導してあげたけれど」
ステラが手元の羊皮紙に微かな魔力を流し込んだ。
瞬間、水晶に映るバルバロス侯爵の右腕に、赤黒い契約の紋章が浮かび上がった。
『なっ……!? なんだこの光は!』
映像の中で、侯爵が驚いて立ち上がる。
「さぁ、契約執行の時間よ。バルバロス侯爵。あなたは今この瞬間から、連合軍への一切の物資提供を停止しなければならない。もし契約を破って一つでもポーションを迷宮に送れば、違約金としてあなたの領地と財産をすべて魔王軍が没収するわ」
ステラの冷酷な声が、通信機を通じて侯爵のテント内に響き渡る。
絶対的な拘束力を持つ魔力誓約。侯爵は顔面を蒼白にさせ、ガチガチと歯を鳴らして震え上がった。
『わ、わかった! 今すぐ輸送部隊を止めろ! 迷宮の中の奴らには、もう水一滴たりとも送るな!!』
侯爵の怒号により、地上で荷馬車にポーションや食料を積み込んでいた兵士たちの動きが完全に停止した。
迷宮へと続く補給線が、魔法でも物理的な破壊でもなく、一枚の紙切れと欲によって完全に切断された瞬間だった。
★★★★★★★★★★★
第1層の入り口付近。
持久戦を構えていた連合軍の残存部隊は、数時間が経過しても一向に地上からの補給部隊がやってこないことに焦り始めていた。
「おい、どうなっている! 傷薬の備蓄がもう底を突くぞ!」
「食料も水も届かない! 通信の魔導具も、地上からの応答が完全に途絶えた!」
兵士たちの間に、急速にパニックが伝染していく。
迷宮という閉鎖空間において、水と食料、そして負傷を癒やすポーションの枯渇は、即ち「死のカウントダウン」を意味する。
前衛の盾役が疲労で座り込み、魔術師たちは空腹で魔力を練り上げることもできなくなっていた。堅固だったはずの彼らの陣形は、内部からボロボロと崩れ始めていた。
「……兵站が絶たれた軍隊ほど脆いものはない。これでもう、奴らは何日も粘ることはできないな」
監視室で、グンツは冷めた目で水晶の映像を見下ろした。
「あとは、物理的に少し背中を押してやるだけだ」
グンツは《即時建築》の起動盤に手を置き、迷宮の岩盤に魔力を流し込んだ。
連合軍が安全地帯だと信じ込んでいた第1層の広場の天井が、低い地鳴りと共にわずかに変形する。
罠の作動音ではない。構造の歪みによって生じた、意図的な『落石』だ。
パラパラと降り注ぐ細かい石の雨に、極限状態にあった兵士たちの緊張の糸が完全に千切れた。
「て、天井が崩れるぞ!」
「もう駄目だ! ここにいたら全員生き埋めになる! 撤退だ、逃げろぉぉっ!」
恐怖と飢餓に支配された彼らは、武器や重い防具をかなぐり捨て、我先にと迷宮の入り口に向かって逃げ出し始めた。
統率の取れた軍隊ではなく、ただの烏合の衆と化した彼らの背中を、グンツが仕掛けた軽い物理トラップ――転がる丸太や、浅い落とし穴――が容赦なく追撃する。
致命傷を与えるまでもない。彼らは自らのパニックと疲労によって勝手につまずき、入り口へとなだれ込むようにして人間界へと逃げ帰っていった。
★★★★★★★★★★★
「……対象の完全離脱を確認。これで防衛完了だ」
グンツがレバーを戻し、パイプ椅子に深く息を吐いて腰を下ろした。
「お見事です、ステラさん。事前の根回しによって敵の生命線を完全に断ち切るとは。おかげで現場のトラップ稼働率を最小限に抑えられ、魔力燃料費を大幅に節約できました」
リーゼロッテがバインダーを閉じながら、心底感心したように頷く。
「ふふっ、言ったでしょう? どんな分厚い装甲も、お金と契約の前にはただの紙切れ同然よ」
ステラは長い髪をかき上げ、胸を張った。
「さて、あのバルバロス侯爵には、契約通り当迷宮の『深層の希少資源』……つまり、スライムの処理プールに溜まった汚物の濾過カスや、崩れた岩盤の瓦礫を、法外な値段で独占的に買い取ってもらいましょうか」
「……えげつないですが、素晴らしい利益になりますね。廃棄物処理費用が浮くどころか、莫大な収入源に化けます」
リーゼロッテの眼鏡がキラリと光る。
「お前らには敵わないな。現場の職人よりよっぽど容赦がない」
グンツは苦笑しながら、冷めた味噌汁の残りを飲み干した。
彼は空になった椀を片付け、傍らの安全ヘルメットを手に取る。
「よし、これで大軍勢の処理は一段落した。オーバードライブで酷使した第21層以下の罠の修繕と、ダストシュートの配管チェックに行くぞ」
グンツは立ち上がり、工具の詰まったベルトを腰に締め直した。休む間もなく、特級迷宮建築士は埃まみれの現場へと重い扉を開いて歩き出していく。




