第37話 致死量10000%
特級迷宮『絶望の箱庭』の第10層、統括管理室。
リーゼロッテが解放した本部の莫大な予算を燃料とし、迷宮中の防衛設備が限界を超えたオーバードライブ状態で駆動し続けている。重低音が床を絶え間なく震わせ、コンソールからは警告の赤いランプが幾つも点滅していた。
グンツは操作盤に片手を置いたまま、もう一方の手で素早く自身の腹を満たすための調理を進めていた。
限界稼働するシステムをコントロールし続けるには、絶え間ない魔力とカロリーの消費が伴う。片手で手軽に食べられ、かつ強固なエネルギー源となるものが必要だった。
彼は事前に焼いておいた塩鮭の身を粗くほぐし、小鉢に取り出しておく。そこへ、甘辛く煮詰められた小女子の佃煮をたっぷりと加えた。炊きたての熱い麦飯を大きなボウルによそい、先ほどの具材を手早く、かつ均等に混ぜ合わせる。
手に軽く塩を振り、火傷しそうなほど熱い飯を両手で包み込む。力を込めすぎず、しかし崩れないように。米粒の間に適度な空気を含ませる絶妙な力加減で、大きな三角形に握っていく。
皿の空いたスペースには、細かく刻んだ高菜の漬物、酸味の強く発酵したキムチ、そして塩気の強い大粒の梅干しを無造作に盛った。
仕上げに、熱湯を注いだもずくの吸い物に、常備している南方の辛味調味料を数滴垂らす。アルコールが揮発し、使い慣れた鋭い辛味の香りが立ち上った。食後のために、強い苦味のあるゴーヤー茶を水筒にたっぷりと淹れておく。
「総監督、食べられますか」
魔力ゲージの数値を睨み続けていたリーゼロッテが、視線を向けずに尋ねた。
「ああ。五分で済ませる」
グンツは鮭と小女子の佃煮がたっぷり入った大きなお握りにかぶりついた。
鮭の濃厚な塩気と脂、小女子の甘辛い味が麦飯に絡み合い、強烈な旨味となって疲弊した身体を駆け巡る。すかさず高菜とキムチを口に放り込み、梅干しの強烈な酸味で目を覚まさせる。
もずくの吸い物をすすると、いつもの鮮烈な辛味が喉の奥を焼き、胃の底から熱が湧き上がってきた。今の極限状態にある彼には、この強烈な塩分と刺激こそが最高の燃料だった。
グンツが最後のお握りを飲み込み、水筒のゴーヤー茶で口の脂を洗い流した、その時だった。
「グンツ! ゴーレムの群れの後ろから、別の部隊が出てきたわ!」
ヴィオラが監視水晶を指差して叫んだ。
グンツが操作盤のレバーを握り直して水晶を睨む。
第21層。オーバードライブした巨大なプレスと粉砕ローラーによって、数千体のゴーレムは完全にスクラップと化していた。しかし、その鉄くずの山を踏み越えて、数十人の集団が悠然と歩みを進めてきたのだ。
彼らは重武装の騎士でも、数の暴力に頼る傭兵でもなかった。それぞれが国宝級の武具を纏い、桁違いの魔力を放つ、各国の英雄や特級冒険者たちによって結成された『勇者連合本隊』だった。
「オーバードライブの罠が、効いていません……!」
リーゼロッテが息を呑む。
数万トンクラスの巨大な岩盤が彼らの頭上に落下するが、複数の特級魔術師が展開する多重の『物理減衰結界』によって、その運動エネルギーが泥に沈むように吸収され、完全に停止させられてしまった。超振動の回転刃も、彼らが纏う不可視の聖なるオーラに触れた瞬間に刃こぼれを起こし、空回りしている。
「ゴーレムは罠の威力を測るための捨て駒か。圧倒的な質量の暴力すら、魔力のベクトル操作で相殺してきやがる」
グンツの右目が青白く光る。だが、《構造解析》をもってしても、複数の特級魔法が複雑に絡み合った結界の『物理的な破断点』を見つけ出すことができない。
「くそっ、どこだ。あの結界の重圧を崩すための、たった一つの弱点はどこにある……!」
「……私が、測ってきます」
静かな声が、管理室の張り詰めた空気を切った。
漆黒のテスト用ジャケットを羽織ったクロエが、音もなく昇降機への扉へ向かって歩き出していた。
「クロエ! 待て、お前何をする気だ!」
グンツが血相を変えて怒鳴る。
「あの結界は、外からの解析では弱点が露呈しません。内部の魔力干渉、反発係数、相殺の限界値……それらを正確に割り出すには、あの結界の内部に入り込み、至近距離で罠のダメージと結界の反発を同時に受ける必要があります」
「馬鹿なことを言うな! 奴らは特級の勇者だぞ。吸血鬼の再生能力を阻害する神聖魔法の嵐の中で、限界突破した罠の余波まで受ければ、お前の細胞は再生する間もなく完全に消滅する! 俺は部下を死なせはしない!」
「……死にません。私は、あなたの創る最高の迷宮の、首席検証官ですから」
クロエは振り返らず、そのまま昇降機のシャフトへと身を投げ出した。
「クロエッ!」
★★★★★★★★★★★
第21層。
勇者連合本隊は、頭上の強大な質量を魔法で支えながら、着実に前進していた。
「魔王軍の罠もこの程度か。我らの絶対防壁の前には、物理の暴力など無意味だ」
先頭を歩く大英雄が、剣を片手に冷笑する。
その時、彼らの頭上の岩盤の隙間から、一人の少女が黒い霧となって音もなく舞い降りた。
クロエだ。彼女は勇者たちの円陣のど真ん中、多重結界の最も内側へと軽やかに着地した。
「なっ……魔族か!?」
「吸血鬼だ! なぜ結界の内部に!」
「……計測、開始します」
クロエの出現に反応し、周囲の勇者たちが一斉に武器を振り下ろし、神聖魔法の光を放つ。
同時に、結界の内部に異物が侵入したことで魔力の均衡が崩れ、頭上で停止していた鋼鉄の天井が再び軋みを上げて降下を始めた。
シュガァァッ!
ゴッ、バキィィンッ!
神聖な刃がクロエの細い四肢を斬り飛ばし、聖なる炎が彼女の白い肌を焼き焦がす。さらに、天井からの凄まじい圧力が、彼女の骨を容赦なく粉砕していく。
「あぁっ……!」
監視室の水晶越しに、クロエの体が瞬く間に原型を留めないほどに破壊されていく光景が映し出された。
吸血鬼の超速再生が発動するが、それを上回る速度で神聖魔法が細胞の再生を阻害し、焼き尽くしていく。
「クロエ! やめろ、今すぐ退避しろ!」
グンツが通信機に向かって絶叫するが、クロエからの返答はない。
彼女は、完全に崩壊していく自身の肉体という究極のセンサーを通して、勇者たちの結界の魔力波長、衝撃を吸収する方向、そして再生を阻害する神聖魔法の周波数を、冷徹に、そして狂気的な精度で解析し続けていた。
「……あぁ、なんて……凄まじい暴力……。でも、歪んでいます……」
血肉が飛び散り、視界が赤く染まる中で、クロエは自身の血を床に撒き散らした。
魔法《血の軌跡》。
彼女の血が赤い霧となって結界の内部に充満し、目に見えない魔力の流れと、物理的な衝撃を逃がしている死角を鮮明に描き出していく。
「……見つけ、ました……。グンツさん……」
クロエの通信機から、途切れ途切れの、しかし確かな声が届いた。
「彼らの結界は……上方と前方からの圧力には絶対の耐性を持っています……。ですが……私の血の飛沫が……右斜め後方、俯角三十度の方向へだけ、異常な速度で流されました……。そこが、衝撃吸収の逃げ道……結界の、唯一の破断点です……!」
クロエの声が途絶えた。
水晶の映像の中で、勇者たちの集中攻撃と圧倒的な質量の圧力により、彼女の姿が完全に血の霧となって掻き消えた。
「クロエェェェェッ!!」
ヴィオラが悲鳴を上げ、リーゼロッテがバインダーを取り落とした。
グンツは、血が出るほど強く唇を噛み締め、操作盤の上に展開された迷宮の立体図面を睨みつけた。
右斜め後方、俯角三十度。
クロエが命と引き換えに導き出した、極限の検証データ。
「……お前の命懸けのデータ、1ビットたりとも無駄にはしない」
グンツの右目が、かつてないほどに強烈な青白い光を放った。
彼は迷うことなく《即時建築》の魔法を最大出力で叩き込んだ。
対象は、勇者たちの頭上で停止している罠そのものではない。
彼らの右斜め後方の床の岩盤だ。
「結界の逃げ道を、完全に塞ぐ」
グンツの魔力により、勇者たちの右斜め後方の岩盤が、瞬時に巨大な楔の形状へと隆起した。それは攻撃ではない。彼らの結界が衝撃を逃がすための空間を、物理的に完全に埋め立てたのだ。
「な、なんだ!? 足元の床が!」
勇者たちが動揺した隙を見逃さず、グンツはすべての罠のレバーを引きちぎらんばかりに引き下げた。
「圧縮率最大! そのまま潰れろ!」
逃げ道を失った結界の内部で、数万トンの圧力が一気に行き場をなくした。
ベクトルを変換できなくなった結界は、自らの魔力と物理的な圧力の挟み撃ちに遭い、ガラスが割れるような甲高い音を立てて粉々に砕け散った。
「ば、馬鹿な! 我らの絶対防壁が――」
絶叫は、轟音にかき消された。
結界を失った特級の勇者たちは、限界を超えて駆動する罠の純粋な質量の前に、ただの脆弱な肉の塊でしかなかった。
一瞬の抵抗も許されず、彼らの体は武具ごと完全に粉砕され、第21層の通路は静寂な死の世界へと戻った。
★★★★★★★★★★★
「……対象の完全離脱を確認。これで防衛完了だ」
監視室に、グンツの重い声が響いた。
誰の歓声も上がらなかった。グンツは操作盤から手を離し、フラフラとした足取りで鉄扉へと向かった。
「総監督……どこへ」
「現場だ。クロエを回収しに行く」
グンツは昇降機で第21層へと急行した。
血の匂いと鉄の匂いが充満する凄惨な現場。勇者たちの残骸の真ん中に、漆黒の布切れが落ちていた。
グンツが瓦礫を退けると、布切れの下で、ソフトボールほどの大きさの黒い肉塊が、微かに、しかし確かに脈動しているのを見つけた。吸血鬼の核となる心臓部分だ。
「……馬鹿野郎が。本当に消滅するかと思ったぞ」
グンツは震える手でその肉塊をそっと拾い上げ、自分の作業着のポケットに大切にしまった。
肉塊からは、極細の血管が少しずつ伸び始め、ゆっくりと細胞の再構築が始まっている。元通りの姿になるには相当な時間がかかるだろうが、命は繋がっていた。
「最高の検証だったぞ、クロエ。ゆっくり休め」
グンツは瓦礫の山を背に、一人静かに管理室への帰路についた。
彼の歩みは重かったが、決して止まることはない。救い出した仲間の命を胸に抱き、特級迷宮建築士は次なる図面を引くために、再び自らの仕事場へと戻っていくのだった。




