第34話 前線拠点防衛戦
特級迷宮『絶望の箱庭』の第10層、統括管理室の奥に設営された厨房スペース。
換気扇が低く唸る中、グンツは巨大な寸胴鍋で激しく沸き立つ湯に、鷲掴みにしたパスタを扇状に広げて投入した。海水ほどの塩分濃度に調整した湯の中で、太めの麺が踊り始める。
彼が視線を移したのは、隣のコンロに乗せたフライパンだ。たっぷりのオリーブオイルに、みじん切りにしたニンニクと鷹の爪を落とし、極弱火でじっくりと香りを引き出していく。油の温度が高すぎるとニンニクは焦げて苦味が出るため、絶妙な火加減のコントロールが求められる。
ニンニクが色づき始めた完璧なタイミングで、小瓶からアンチョビのフィレを取り出して油へ投入する。木べらで叩くように潰していくと、アンチョビは熱いオイルの中に跡形もなく溶け込み、強烈な磯の旨味と塩気が立ち上った。
パスタの茹で時間が残り三分になったところで、小房に切り分けておいた大量のブロッコリーを寸胴鍋へ放り込む。パスタと一緒に茹でることでブロッコリーに塩味が入り、同時にパスタには野菜の風味が移る。
麺がアルデンテに茹で上がるのと同時に、ブロッコリーはくたくたに柔らかくなる。グンツは手際よく湯を切り、それらをアンチョビオイルの待つフライパンへ移した。少量の茹で汁を加え、鍋を大きく煽る。オイルと水分が白濁して乳化し、柔らかくなったブロッコリーが細かく崩れて、濃厚な緑色のソースとなってパスタの麺一本一本にネットリと絡みつく。
付け合わせには、冷水で芯までシャキッとさせた数種類の葉野菜の水気をしっかりと切り、上質なオリーブオイルとワインビネガー、岩塩だけで作ったシンプルなドレッシングでさっくりと和えたグリーンサラダ。
そして食後を見据え、手動のミルで深煎りの豆を丁寧に挽き、香りを逃がさないように熱湯を少しずつ注いで、深いコクのあるホットコーヒーを準備する。
「リーゼロッテ、ゼノビア。パスタが伸びる前に食え」
グンツがテーブルに皿を並べると、バインダーを抱えたリーゼロッテと、教本を手にしたゼノビアが席についた。
「いただきます。……んっ、ブロッコリーの甘みとアンチョビの塩気が見事に調和しています。ソースの乳化具合も完璧ですね」
リーゼロッテが上品にフォークを動かす。
「ええ。疲れた身体に、このニンニクの香りは非常に効果的です」
ゼノビアもまた、フォークの動きを止めることなく、黙々とパスタを口に運んだ。
サラダの瑞々しさで口内をリセットし、最後に香り高いコーヒーで胃を落ち着かせる。過酷な戦場の最前線で作られたとは到底思えない、完成された一皿だった。
しかし、コーヒーの余韻に浸る間もなく、監視水晶のデータを監視していたリーゼロッテの顔からスッと血の気が引いた。
「……っ、総監督! ヴィオラさんの情報操作で八割は撤退しましたが……残る二割、王国正規軍と神聖教会の混成部隊が……進軍を再開しました! 数はおよそ二千、異常な速度です!」
「罠の作動状況はどうなっている」
「駄目です、間に合いません……! 奴ら、先遣隊の死体や罠の瓦礫を……物理的な足場にして、死角を強行突破してきています! あっ……第20層の第一期エリア最終大扉が完全に破壊されました! 現在、この第21層の仮設ベースキャンプへ向けて直進中です!」
リーゼロッテの息の上がった悲痛な報告に、グンツはカップを置き、即座に図面ケースを背負った。
「二千の精鋭部隊か。上層の罠の再装填は追いつかない。俺が第21層の通路で《即時建築》を使い、防壁を打ち直して足止めする」
「重機を配置する時間もありません。たった一人で二千人の進軍を止める壁を造るには、最低でも数分の時間を稼ぐための『物理的なストッパー』が必要です。ですが、リーゼロッテ管理官を前線に出すわけにはいきませんし、レイラさんは補給路の護衛で手が離せません」
ゼノビアがスッと立ち上がり、スーツのシワを正した。
「私が現場に出ます」
「ゼノビア? お前は人事の監査官だぞ。現場の戦闘は専門外だろう」
「人事の仕事は、従業員の命と健康を守ることです。総監督であるあなたに、これ以上の過重労働を強いるわけにはいきません。……それに、不法侵入者に対する『特例措置』の行使権限は、私にあります」
彼女の金色の爬虫類眼が、冷たく、そして獰猛な光を放った。
★★★★★★★★★★★
第21層の広大な通路。
整然とした陣形を組み、怒涛の勢いで進軍してくる二千の精鋭部隊。彼らは魔法障壁を何重にも展開し、罠の気配に細心の注意を払いながら突き進んでいた。
その靴底は、かつての同志たちの血と泥にまみれている。迷宮の深部に眠るという宝への欲望と、仲間を失った憎悪が彼らを突き動かしていた。
その巨大な軍勢の前に、一人の女性が立ち塞がった。
漆黒のオフィサースーツに身を包んだゼノビアだ。武器は持たず、片手には分厚い魔界労働基準法の教本を持っているだけである。
「止まりなさい。これより先は当迷宮の工事区画です。関係者以外の立ち入りは固く禁じられています」
ゼノビアの静かな、しかしよく通る声が通路に響いた。
先頭を歩く王国の騎士団長が、鼻で笑って剣を抜く。
「魔王軍もついに人材不足か。女一人を盾にするとはな! どけ、我々の目的は迷宮の最深部だ。邪魔をするなら容赦はせんぞ!」
「警告はしました」
ゼノビアは教本をパタンと閉じ、コートの内ポケットにしまった。
「あなたたちの行為は悪質な業務妨害であり、当軍従業員への明白な殺意を伴う暴行未遂です。よって、人事部の権限において、魔界労働基準法に基づく『特例の物理的排除』を執行します」
「狂人が! 轢き潰せ!」
騎士団長が叫び、数十人の重装騎士が槍を構えて一斉に突撃を仕掛けた。
ゼノビアは一歩も引かなかった。彼女は深く息を吸い込み、目を閉じる。
次の瞬間、彼女の身体から凄まじい魔力の奔流が爆発的に噴き出した。
固有魔法《竜化》。
タイトなスーツの袖が内側から膨張する筋肉によって弾け飛び、彼女のしなやかな両腕が、漆黒の硬質な鱗に覆われた巨大な竜の爪へと変貌する。首筋から頬にかけても鱗が広がり、瞳の瞳孔は完全に縦に割れた爬虫類のものへと変わっていた。
「なっ……竜人族だと!?」
突撃してきた騎士の一人が、槍をゼノビアの胸元へ突き出す。
しかし、ゼノビアは一切の魔法を使わず、ただ素手でその槍の穂先を掴み取った。
メキッ、という鈍い音。
鍛え上げられた鋼鉄の槍が、彼女の竜の爪によって飴細工のように容易く握り潰される。
「ば、馬鹿な……っ!」
驚愕する騎士の腹部に、ゼノビアの強烈な前蹴りが突き刺さった。
騎士の巨体がくの字に折れ曲がり、後続の兵士たちをボウリングのピンのように巻き込みながら数十メートルも吹き飛んでいく。岩壁に激突し、数名が血を吐いてその場に崩れ落ちた。
「法を無視する者には、相応のペナルティを与えます」
ゼノビアが地面を蹴る。
それは洗練された武術でも、華麗な剣術でもない。ただの、規格外の筋力と質量による純粋な暴力だった。
彼女が太い腕を薙ぎ払うだけで、分厚い盾を構えた重装の騎士たちが木の葉のように吹き飛ばされる。後衛の魔法使いが放つ火炎や氷弾は、彼女の漆黒の鱗に触れた瞬間に熱量も冷気も霧散し、傷一つ負わせることができない。
彼女の背後から生えた太く強靭な竜の尾が鞭のようにしなり、地面の岩盤ごと兵士の足を粉砕していく。
「ば、化け物だ! 槍を捨てろ、魔法を集中させろ!」
「効きません! 鱗が硬すぎます!」
怒涛の勢いで押し寄せてきた二千の軍勢が、たった一人の竜人族の女性によって完全に足を止められていた。
ゼノビアは決して手加減をしなかった。普段は厳格に規則を重んじる彼女だが、ひとたび特例措置を解禁すれば、そこに一切の慈悲はない。
彼女はただの暴力の嵐となり、強固だったはずの敵の陣形を中央から力任せに引き裂いていく。
★★★★★★★★★★★
ゼノビアが前線で暴れ回っている間、その後方数十メートルの位置で、グンツは《即時建築》の魔法を全力で稼働させていた。
現場にストックされていた無数の鉄骨が、彼の魔力によって空中に浮かび上がり、通路を塞ぐようにして瞬時に強固な骨組みを形成していく。そこへ、ガルシア商会から提供された最高純度の魔導コンクリートが一気に流し込まれる。
「……ゼノビアの奴、あんな無茶苦茶な力を持っていたのか。これなら数分どころか、一人で全滅させかねない勢いだな」
グンツは額の汗を手の甲で拭いながら、目の前で完成しつつある厚さ五メートルの防壁を睨んだ。
だが、相手は二千の精鋭だ。いくら竜化しているとはいえ、生身の彼女の体力と魔力もいずれは限界を迎える。彼らに突破される前に、完全に物理的な遮断を完了させなければならない。
「よし、第一層の防壁の流し込み完了だ。硬化が始まるぞ。次は……」
グンツの右目が青白く光る。ただ壁を造るだけではない。防壁の奥に、さらなる地獄を仕込むための計算が猛スピードで進められていく。
「ゼノビア! 防壁の基礎が固まった! こっちへ退け!」
グンツの通信機からの声を聞き、ゼノビアは竜の爪で目前の騎士を殴り飛ばすと、小さく息を吐いた。
「……本日の業務終了ですね」
彼女は瞬時に竜化を解き、破れたスーツの袖を気にする素振りも見せずに、驚異的な跳躍力で空高く舞い上がり、グンツのいる防壁の裏側へと見事に着地した。
直後、グンツがレバーを引くと、防壁の天井部分から最後の一区画のコンクリートブロックが凄まじい音と共に落下し、通路は完全に封鎖された。
「お疲れ様。見事な時間稼ぎだった」
グンツが差し出した冷たい水筒を受け取り、ゼノビアは上品に口をつける。
「……久しぶりに力を使いました。スーツが破れてしまったのは経費で申請させてもらいます」
「あぁ、リーゼロッテに言っておく」
厚さ五メートルの分厚い壁の向こう側から、足止めを食らった勇者たちが壁を叩き、魔法を撃ち込む鈍い振動が伝わってくる。
二千の軍勢の足を止めることには成功した。しかし、彼らがこの壁を突破してくるのは時間の問題だ。
グンツはヘルメットの鍔をぐっと下げ、手元に広げた新しい図面に太い線を引いた。
「休んでる暇はないぞ。第二層の防壁の基礎を打ち込む」
分厚い壁の向こうから響く鈍い破壊音を背に、特級迷宮建築士の木炭ペンが再び猛スピードで走り始めた。




