第33話 レイド軍団、襲来
魔界と人間界の境界に位置し、巨大な暗い海に面した港町。
潮の香りが微かに漂うその街の、海を見下ろす高台にある静かなレストランのテラス席で、グンツはグラスの中で揺れる氷を見つめていた。
「……こうして迷宮の外の空気を吸うのは、随分と久しぶりな気がします」
向かいの席に座るリーゼロッテが、潮風に揺れる銀髪をそっと耳にかけながら言った。
今日の彼女はいつもの堅苦しいスーツ姿ではなく、濃紺のしなやかな生地で仕立てられたワンピースを着ていた。彼女特有の鍛え抜かれた筋肉のラインを絶妙に隠しつつ、大人の女性らしい洗練されたシルエットを際立たせる一着だ。
先遣隊を全滅させた後、人間界の連合軍が異様に慎重になり、進軍を完全に停止させてから数日が経っていた。嵐の前の静けさとでも言うべきそのわずかな空白期間を利用し、グンツは彼女をこの街へと連れ出していた。
「休日にまで私を誘うなんて、てっきりまた無茶な予算の稟議を通すための裏工作かと思いましたよ」
「人聞きの悪いことを言うな。毎日あの埃っぽい地下でバインダーを振り回されてちゃ、俺の胃が持たないからな。たまには機嫌をとっておこうと思っただけだ」
グンツが苦笑してグラスの水を煽ると、タイミングよく給仕が料理を運んできた。
メインディッシュは、港で水揚げされたばかりの巨大な深海魚の白身を、香草と岩塩で包み込んでじっくりとオーブンで焼き上げたものだ。ナイフを入れると、パリッとした表面の中からふっくらとした熱々の身が顔を出し、ローズマリーとガーリックの鮮烈な香りが立ち上る。
付け合わせには、新鮮な貝柱と海藻を使ったマリネ、そして酸味の効いた冷製スープ。
リーゼロッテは行儀よくナイフとフォークを使い、白身魚を口に運んだ。
「……美味しいです。地下の保存食や強い香辛料の味に慣れきっていた舌に、この繊細な塩気は新鮮ですね」
「今日は数字の計算はしなくていい。経費のことも、迷宮のことも一旦忘れろ」
グンツも魚にレモンを絞り、豪快に口に放り込んだ。
潮騒の音だけが聞こえる穏やかな時間。リーゼロッテはしばらく無言で食事を進めていたが、やがてふっと視線を落とし、グラスの縁を指でなぞった。
「……こうして穏やかな時間を過ごせるのも、あなたが過酷な現場の最前線に立ち続けてくださるおかげです」
彼女は、まっすぐな金色の瞳でグンツを見つめた。いつもの冷徹な響きとは違う、とても柔らかく穏やかな声だった。
「ありがとうございます、グンツさん」
「よせ。俺一人じゃ何もできない。お前らが裏で支えてくれているから、俺は安心して図面を引けるんだ」
グンツは照れ隠しのように首の後ろを掻き、グラスを持ち上げた。
二人は軽くグラスを合わせ、残りの食事と穏やかな海風を楽しんだ。
この静かな休息が、これから始まる未曾有の死闘に向けた、最後の平穏になるとは知らずに。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
特級迷宮『絶望の箱庭』の統括管理室に、鼓膜を裂くようなけたたましい警報音が鳴り響いた。
「グンツ! リーゼロッテ! 状況見てる!?」
ヴィオラが息を切らして監視室に駆け込んできた。いつもの余裕ある微笑みは消え去り、手にした魔導板を握る指先が白くなっている。
グンツとリーゼロッテはすでに監視水晶の前に立ち、その信じがたい光景に息を呑んでいた。
迷宮の巨大な正面ゲート。そこから連なる荒野を埋め尽くすように、黒い津波のような軍勢が押し寄せていたのだ。
王国正規軍の重装歩兵、勇者ギルドの精鋭部隊、各国の傭兵団、さらには神聖教会の僧兵部隊。色とりどりの軍旗が翻り、地鳴りのような足音が迷宮全体を震わせている。
「……冗談だろ。なんだこの数は」
グンツが額に脂汗を浮かべて唸る。
「総勢1万よ。人間界が国家の垣根を越えて結成した、過去最大規模の勇者・冒険者連合軍。これまでの小規模なパーティとは次元が違うわ」
ヴィオラが魔導板のデータをスワイプしながら、早口で報告する。
1万という数は、どれだけ個々の罠が強力であろうと、それを処理するための物理的な限界を容易く超えてくる暴力だ。
「全自動処理ライン、最大出力で稼働! 第1層から第26層までのすべての防衛ギミックを連続起動しろ!」
グンツの怒号とともに、迷宮内のありとあらゆる死の罠が一斉に牙を剥いた。
粉塵爆発が通路を吹き飛ばし、絶対零度のゼリーが床を凍らせ、強酸の雨が降り注ぎ、巨大な振り子刃が空間を薙ぎ払う。先頭を歩いていた数百人の兵士たちがあっという間に罠の餌食となり、ダストシュートへと飲み込まれていった。
だが、連合軍の勢いは止まらない。
前の部隊が死ねば、すぐさま後ろから次の部隊が死体ごと罠を踏み越えて進んでくる。爆発で燃え盛る炎の中に盾を掲げて突っ込み、凍りついた床を魔法で強引に砕きながら、文字通り「数の暴力」で迷宮の奥深くへと雪崩れ込んできた。
「ダメです、総監督!」
リーゼロッテがバインダーを叩きつけるようにして叫んだ。
「処理プールのスライムたちの消化速度が完全に飽和状態です! 一度にこれほどの数の有機物を落とされては、物理的に処理が追いつきません。ダストシュートが詰まりかけています!」
「罠の再装填機構も限界ですわ! 次の仕掛けをセットする前に、上を通られてしまいます!」
通信機越しに、セリアも青ざめた顔で報告する。
圧倒的な物量。それこそが、どんな緻密な設計も無効化する最も単純で凶悪な戦術だった。
1万の軍勢が一丸となって波状攻撃を仕掛けてくれば、いずれ防衛ラインの処理能力を上回り、迷宮の深層まで突破されてしまう。
「くそっ……! さすがに1万人が相手じゃ、俺の《即時建築》でも修復が間に合わないぞ!」
グンツが操作盤に拳を叩きつけ、歯を食いしばった。
「……待って! まだ諦めないで!」
焦燥に駆られる管理室の中で、ヴィオラが魔導板を激しく叩きながら叫んだ。彼女の額には汗が滲んでいる。
「相手は1万人よ! 正規の軍隊だけじゃない、金で雇われた傭兵や一攫千金を狙うならず者が大量に混じっているはず! 彼らの足並みさえ乱せれば……!」
「ヴィオラ、何をする気だ!」
「今、人間軍の通信網にハッキングをかけてるの! 『第15層の東区画に、魔王軍の隠し金庫を発見。手付かずの古代金貨の山がある』っていう偽造ログを、末端の傭兵たちの端末に直接送りつけてるわ!」
ヴィオラの指先が、画面上の送信ボタンを力強く叩いた。
「うまくいくかわからないけど……欲深い連中なら、軍の命令より目の前の宝を優先するはずよ! お願い、食いついて……!」
ヴィオラの祈るような声と共に、グンツはハッと息を呑んで監視水晶を見た。
水晶の映像の中で、異変が起きていた。
これまで分厚い陣形を組んで整然と進軍していた連合軍の隊列が、第11層の分岐点に差し掛かったところで、不自然に乱れ始めたのだ。
『おい、聞いたか! 東区画に宝の山があるらしいぞ!』
『正規軍の連中に出し抜かれる前に、俺たちで頂こうぜ!』
『陣形を崩すな! 貴様ら、どこへ行く気だ!』
『うるせえ! 俺たちは金で雇われただけだ、軍の命令なんて知るか!』
水晶越しにも聞こえてきそうなほどの怒号と混乱。
欲に目が眩んだ複数の傭兵団や中堅冒険者のギルドが、本隊の命令を完全に無視し、正規の防衛ルートから外れて東区画へと我先にと走り出したのだ。
一部の部隊が抜け駆けをしたことで、「自分たちも宝を確保しなければ損をする」という疑心暗鬼と焦燥感が軍全体に伝染し、強固だった連合軍の統制はあっという間に崩壊した。
「よし、釣れたわ! 1万の軍勢が、自ら数百の小部隊に分断されていく!」
ヴィオラがガッツポーズを見せる。
「見事な機転だ、ヴィオラ! これなら処理が追いつく!」
グンツは顔を上げ、手元の起動盤を激しく操作し始めた。
彼の目には、職人としての冷酷な光が完全に戻っていた。
「おい、東区画へ向かった連中を逃がすな! あのエリアの床は、俺がいつでも遠隔で開閉できるようにハッチ構造に調整してある。まとめてダストシュートに落として、底の処理プールへ直行させてやる!」
ズドゴォォォンッ!
迷宮の奥深くで、偽の宝を求めて走っていた数百人の傭兵たちが、床の開閉とともに絶叫を上げて、真っ暗な縦穴へと飲み込まれていった。
「本隊の進軍速度が落ちたぞ! セリア、今のうちに第12層の通路に自己増殖ワイヤーを張り巡らせろ! 足止めして後続の部隊と分断するんだ!」
「はいっ! たっぷりと仕掛けますわ!」
連携を失い、細かく分断された部隊は、もはや恐怖の対象ではなかった。
彼らは罠の死角をカバーし合うこともできず、グンツが操る一つ一つの死のギミックに順番に飛び込んでは、着実に数を減らしていく。
ダストシュートへの流入量が分散されたことで、処理プールのスライムたちも問題なく完璧に消化・浄化のサイクルを維持することができた。
「第13層、真空ルーム作動。対象全滅」
「第15層、巨大振り子刃、落下。対象全滅」
「第17層、冷凍ガス充満。完全凍結を確認」
リーゼロッテの淡々とした報告が、監視室にリズム良く響き続ける。
圧倒的な物量で押し潰そうとした人間界の大軍勢は、人間の持つ「欲望」という最も脆い弱点を突かれ、自滅に近い形で特級迷宮の暗闇へと溶けていった。
「……全体の約8割の無力化および撤退を確認。残存部隊も完全に戦意を喪失し、入り口へ向かって敗走中です」
数時間後。
ついにリーゼロッテがバインダーを閉じ、防衛の完了を宣言した。
「やったわね! これだけの大軍の装備品を回収できれば、また莫大な利益になるわ!」
ヴィオラが安堵と歓喜の声を上げる。
「ああ。お前が連中の足並みを乱してくれなきゃ、完全に押し潰されていた。見事なアシストだったぞ」
グンツは深く息を吐き、パイプ椅子に腰を下ろしてヘルメットを脱いだ。
足元では、喧騒をよそにスヤスヤと眠っていたブランとノワールが、防衛完了の空気を察知して「わふっ」と尻尾を振ってすり寄ってきた。
「……さて、休む暇もないな」
グンツは二匹の頭を無造作に撫でると、再び乱れた図面の束へと視線を向けた。
これだけの大軍を処理したのだ。ダストシュートの清掃や、罠の修繕など、やるべき現場仕事は山のように積まれている。
特級迷宮建築士は冷めたコーヒーをひとくち飲み、重い腰を上げた。




