第32話 フェイク・ブループリント
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第10層の統括管理室。
その分厚い外壁をぶち抜き、広大な地底空間に張り出すようにして増築された木製の広いテラスには、魔界の地下深くとは思えないほど穏やかで暖かな空気が流れていた。
テラスの床には、ステラが東方の街から仕入れてきた、本物の草と見紛うほど柔らかな緑色の魔導繊維の敷物が敷き詰められている。天井には、セリアが幾度も調整を重ねた、本物の太陽光と全く同じ波長と温もりを放つ強力な魔力照明が設置されていた。
心地よい擬似太陽光がたっぷりと降り注ぐその緑の絨毯の上で、二つの毛玉が幸せそうに日向ぼっこを満喫している。
「きゅ〜ん……」
「すぅ、すぅ……」
真っ白なグレートピレニーズの子犬であるブランは、人工の草の柔らかな感触がすっかり気に入ったのか、短い四肢を完全に投げ出して無防備な仰向け姿勢――ヘソ天の状態で熟睡していた。
そのフワフワで温かい腹の上には、漆黒のドーベルマンの子犬であるノワールが、自分の特等席とばかりにアゴを乗せて丸くなっている。眩しい光をたっぷりと浴びて、二匹の毛皮は太陽の匂いを放つほどフカフカに膨らんでいた。時折、美味しい夢でも見ているのか、ノワールの後ろ足がピクピクと動き、ブランがむにゃむにゃと口を動かしている。
「……平和なもんだな。外では、俺たちの手の内を知り尽くした人間の大軍勢が押し寄せてきているってのによ」
テラスの柵に寄りかかり、マグカップに入った熱いコーヒーを啜りながら、グンツは苦笑いを浮かべた。
保守派の裏切りにより、この迷宮の構造を記した詳細なデータが人間界のギルドに流出してから数日が経過していた。
「のんびりしている場合ではありません。人間の連合軍から先行して放たれた精鋭の先遣隊が、すでに当迷宮の第20層を突破しました」
背後のガラス戸が開き、分厚いバインダーを抱えたリーゼロッテがテラスに現れた。
彼女の足音に気づいたブランが、仰向けのまま尻尾だけをパタパタと振って不器用な挨拶をする。リーゼロッテは眼鏡のブリッジを押し上げ、バインダーで口元を隠しながらも、その視線は完全に子犬たちの愛らしい姿に釘付けになっていた。
「……突破されたか。動きはどうだ」
「流出した情報を完全に信用しています。記録に記された罠の死角や、安全な迂回ルートを正確に辿り、これまでの既存の罠はすべて無傷でスルーされました」
グンツがコーヒーを飲み干し、管理室の中へと戻ると、そこにはすでに各部署の責任者たちが厳しい顔つきで集まっていた。
「私の情報網の通りね。先遣隊で安全を確認しつつ、そのすぐ後ろから総勢数千人規模の連合軍本隊が着実に進軍してきているわ。自分たちの持っている情報が本物だと確信して、すっかり調子に乗っているようね」
ヴィオラが、手元の魔導板を素早くスワイプしながら報告する。
「上等だ。すべてを知り尽くしたと確信した時が、奴らの死に時だ」
グンツは操作盤の前に立ち、監視水晶の映像を切り替えた。
水晶には、現在第26層のメイン通路を進む先遣隊の姿が映し出されている。ここまでは流出したデータに正確に記載されているエリアだ。彼らは罠を探る素振りすら見せず、羊皮紙の束を片手に堂々とした足取りで歩いていた。
彼らが歩く通路の左右には、セリアが数日がかりで組み上げたばかりの『追尾式・高出力魔導砲台』がズラリと並んでいる。水晶越しでもわかるほど強烈な魔力を帯びており、流出した情報上では『致死率100パーセントのキルゾーン』と記されている場所だ。
だが、その情報には『欠陥』もまた、正確に記されていた。
『この大通路の魔導砲台は極めて危険だが、動力を供給するメインパイプは手前の区画の壁裏を通っており、構造的に非常に脆い。ここを破壊して魔力を絶てば、全砲台が完全に沈黙する』
先遣隊のリーダーは、手元の羊皮紙と目の前の壁を交互に見比べ、ニヤリと下卑た笑いを浮かべた。
「見ろ、ギルドが手に入れた見取り図の通りだ! この壁の裏に、罠の心臓部があるぞ!」
リーダーが巨大な戦槌を大きく振りかぶり、壁の脆い部分を全力で叩き割った。
崩れ落ちた岩盤の奥には、記載通り、太い魔力供給用のパイプが剥き出しになって走っていた。リーダーは躊躇いなく剣を振り下ろし、そのパイプを真っ二つに切断した。
プシューッ! という音と共に魔力が抜け、通路に並んでいた数十基の魔導砲台の赤いランプが、一斉に消灯して完全に沈黙した。
「はっはっは! 魔王軍の最新の罠も、仕組みさえわかれば恐れるに足らん! どんな凶悪な魔法の罠も、動力を絶てばただの鉄くずだ!」
先遣隊の冒険者たちは高笑いし、意気揚々と死の通路であったはずの場所へと足を踏み入れた。
監視室で映像を見ていたセリアが、フラフラと後ずさりし、力なくその場にへたり込んだ。
「あぁ……私の……私の丹精込めた砲台が……。一発も火を噴くことなく、ただの置物扱いされましたわ……」
「気にするな、セリア。あれはただの目くらましだ。本命はお前の作った『絶対に切れない自己増殖ワイヤー』を使った刃の方だぞ」
グンツが冷酷な笑みを浮かべて水晶を見据えた。
「魔導パイプに魔力が流れている間だけ、強力な磁力で天井裏の巨大なギミックを固定する。……パイプが切断され、魔力が失われた瞬間、そのストッパーが外れる仕組みだ」
先遣隊が、沈黙した砲台の間を通り抜け、通路のちょうど真ん中まで到達した。
その瞬間だった。
ギィィィンッ!
彼らの頭上の天井裏から、重厚な金属の留め金が外れる鈍い音が響いた。
「ん……? 今の音は……」
リーダーが不審に思い、上を見上げた直後。
天井の岩盤が広範囲にわたって崩れ落ち、その奥から、数トンもの質量を持つ巨大な『鋼鉄の振り子刃』が、すさまじい風切り音と共に通路を真横に薙ぎ払った。
「なっ……!?」
ザシュッ!!
先頭を歩いていた二人の冒険者が、悲鳴を上げる間もなく、鋼鉄の巨大な刃によって分厚い鎧ごと胴体を真っ二つに両断された。
遅れて噴き出した鮮血が、通路の壁を赤く染め上げる。
「て、敵襲!? 魔法の気配なんて全くなかったぞ!」
「馬鹿な、罠の動力は完全に絶ったはずだ!」
生き残った後衛たちがパニックに陥り、杖を構える。
しかし、巨大な振り子刃は一つではない。ストッパーが外れた天井裏から、次々と無数の振り子刃と、自己増殖ワイヤーが巻き付けられたスパイク付きの巨大ローラーが、純粋な重力と位置エネルギーだけに従って容赦なく落下してきたのだ。
「魔力感知のスキルが全く反応しない! ただの物理的な刃だぞ!」
魔法の罠を解除したと信じ切っていた彼らに、魔力を一切使わない純粋な物理機構の破壊の嵐が襲いかかる。
逃げようと後退した者の足には、床に落ちていた自己増殖ワイヤーが魔力を吸って爆発的に絡みつき、その場に拘束する。動けなくなった彼らの上を、数トンのスパイクローラーがミンチ機のように無慈悲に通過していった。
「ぎゃあああああっ!」
「話が違う! こんな罠があるなんて聞いてなかっ――」
絶叫はすぐに途絶え、通路にはただ、振り子刃が空を切る重々しい音だけが響き続けた。
★★★★★★★★★★★
「……対象の全滅を確認。防衛完了だ」
監視室で、グンツが静かに宣言した。
「流出した弱点を突いたつもりが、自ら最悪の起動スイッチを押すことになるとはな。これでこの通路の掃除は完了だ」
グンツはパイプ椅子に腰掛け、ヘルメットを脱いだ。
「素晴らしいですわ、グンツ様! 重力と振り子の運動だけであんな破壊力が出るなんて……私のワイヤーも大活躍でしたわね!」
セリアが涙を引っ込めて、目を輝かせながら拍手をする。
「決算報告をします」
リーゼロッテがバインダーを開き、満足げに頷いた。
「魔力供給が絶たれたことで作動するため、罠が稼働している間のランニングコストは完全にゼロです。対して、回収された先遣隊の装備品の売却益は金貨200枚を下りません。圧倒的な費用対効果です」
「ふふっ、この先遣隊の全滅の報せを聞いて、本隊の連中はパニックになるでしょうね」
ヴィオラが魔導板を指で弾きながら妖艶に笑う。
「ギルドが手に入れた情報が本物なのか、それとも罠なのか。疑心暗鬼に陥って、足並みはガタガタに崩れるわよ」
「流出情報通りに動けば、俺が突貫工事で上書きした新たな殺戮地帯に落ちる。だが、情報を無視して進めば、既存の致死トラップの餌食になる。どっちの道を選んでも結末は同じだぞ」
グンツは冷酷な笑みを深め、残っていたコーヒーを飲み干した。
「きゅ〜ん?」
「わふっ!」
テラスのガラス戸が開き、日向ぼっこを終えて毛皮をホカホカに温めたブランとノワールが、のんびりとした足取りで部屋に入ってきた。
彼らは血生臭い防衛戦など知る由もなく、グンツの足元にすり寄って短い尻尾を振っている。
「……お前らは本当に平和でいいな。さて、勇者の本隊が来る前に、次の仕込みを終わらせるぞ」
グンツは二匹の頭を優しく撫でると、再び新しい図面が広げられた机へと力強く歩み寄った。




