第27話 マッドサイエンティストの涙
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第10層の統括管理室。
空調用の魔導具が一定のリズムで低く唸る室内は、過酷な外の環境が嘘のような、適度な涼しさと静寂に包まれていた。
「……ふぅ」
パイプ机に向かい、全90層に及ぶ迷宮の改修図面にペンを走らせていた特級迷宮建築士のグンツは、凝り固まった首を鳴らして小さく息を吐いた。
立ち上がってコーヒーを淹れようとしたが、彼の足はデスクの下から動かすことができなかった。
「すぅ……くぅ……」
「んふっ……きゅん」
グンツの分厚い安全靴を挟み込むようにして、二つの大きな毛玉が完全に安心しきった様子で熟睡していた。
真っ白な毛並みを持つグレートピレニーズのブランと、漆黒の短い毛並みを持つドーベルマンのノワール。救出された当初は両手で抱えられるほど小さかった彼らだが、超大型犬種の成長速度は凄まじく、今や丸まっても座布団ほどの大きさがある。
ブランは冷たいフローリングに腹をベッタリとつけ、ピンク色の舌を少しだけ出して無防備に仰向けになっている。ノワールはそんなブランのフカフカのお腹を最高級のクッション代わりにし、丸くなって顎を乗せていた。
彼らにとって、いつも現場の土と鉄の匂いが染み付いているグンツの足元は、この迷宮の中で最も安心できる絶対の安全地帯だった。規則正しく繰り返される重い寝息と、時折ピクピクと動く後ろ足。密着した体から伝わってくる確かな温もりが、グンツの足首を心地よく温めている。
「……おいおい、これじゃ身動きが取れねぇな」
グンツは無理に足を抜いて彼らを起こすような無粋な真似はせず、苦笑しながら再び図面へと視線を戻した。
「平和ですね。あの無防備な寝顔を見ていると、予算の計算で荒んだ心が浄化されるようです」
経理担当のリーゼロッテが、熱いコーヒーの入ったマグカップを二つ持って歩み寄り、グンツの机にそっと置いた。
「助かる。ここ数日はヴィオラが客を釣ってこないおかげで、基礎工事が捗って……」
グンツがコーヒーに口をつけた、その瞬間だった。
「大変よグンツ! 第25層の防衛ラインに、面倒なのが入り込んだわ!」
広報担当のヴィオラが、いつものように血相を変えて鉄扉を開け放った。
足元のブランとノワールがビクッと耳を立てたが、グンツが足先で優しく撫でてやると、再び安心して目を閉じた。
「……面倒な客だと?」
グンツはマグカップを置き、監視水晶に視線を向けた。
そこには、分厚い筋肉と重装甲に身を包んだ、いかにも荒くれ者といった風体の4人組の冒険者パーティが映し出されていた。彼らの手には、身の丈ほどもある巨大な戦槌や戦斧が握られている。
「彼らは人間界の東部を拠点とする『剛腕の鉄槌』。魔法の気配は皆無。ただ圧倒的な腕力と暴力だけで迷宮を強行突破する、腕力特化の脳筋パーティです。平均レベルは48」
リーゼロッテが素早くバインダーを開き、データを読み上げる。
「第25層か。あそこは昨日、セリアが徹夜で組み上げた『魔光共鳴の回廊』が稼働しているはずだな」
グンツが呟くと、部屋の奥から研究開発部のセリアが白衣を翻して現れた。彼女の美しい顔には、自身の最高傑作が試される期待の笑みが浮かんでいる。
「ええ、そうですわ! 侵入者の魔力に反応して光を乱反射させ、強力なレーザーで狙い撃つ芸術的なギミックですの。あの野蛮な方々も、私の美しい光の檻の前には一歩も進めず……」
セリアが誇らしげに語る中、水晶の映像の中で、勇者たちが回廊へと足を踏み入れた。
通路の左右には、セリアが何週間もかけて完璧な角度に研磨した、巨大で美しい多面体のクリスタルが立ち並んでいる。
「なんだ、このガラス細工は? 気取った罠だぜ」
先頭を歩く巨漢の戦士が、鼻で笑った。
彼は魔力など一切練り上げることなく、ただ巨大な戦槌を大きく振りかぶり、力任せに手前のクリスタルへと叩きつけた。
ガシャァァァンッ!!
鼓膜を刺すような破壊音と共に、セリアの丹精込めたクリスタルが、ただのガラスのようになす術もなく粉砕された。
クリスタルは魔力に反応してレーザーを放つ罠だ。魔力を伴わない単なる質量による打撃の前には、ギミックを作動させる隙すらなく、ただの脆い障害物でしかなかった。
「はっはっは! 魔王軍の罠も大したことないな! 派手なだけで脆すぎるぜ! 全部叩き割って進むぞ!」
狂戦士たちは豪快に笑いながら、次々とクリスタルを粉砕し、通路を強行突破していく。床には、美しかった芸術品の残骸が、ただの鋭利な破片となって無惨に散らばっていった。
「あぁ……」
監視室で映像を見ていたセリアは、ワナワナと震える手で監視水晶のモニターに爪を立てた。
彼女の大きな瞳から、大粒の悔し涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「……し、信じられませんわ……! 私の、私の最高傑作が……!」
セリアはギリッと歯を食いしばり、マッドサイエンティストとしての狂気と怒りを露わにした。
「何週間もかけて、一つ一つ完璧な角度で研磨した芸術品を……ただの障害物みたいに叩き割るなんて……! 許せませんわ、あの野蛮な筋肉ダルマども、絶対に私の手で解剖してやりますわ!」
「泣き喚いてる暇はないぞ、セリア。お前の作ったクリスタルは、硬度はどうなんだ」
グンツは無言で立ち上がり、図面ケースを背負いながら短く尋ねた。
「……こ、硬度ですの……? 当たり前ですわ! 魔力伝導率を極限まで高めるための特殊錬成で、ダイヤモンドと同等の硬さを持たせていますのよ! でも、あんな巨大な鉄塊で接合部の最もデリケートな魔力回路ごと粉砕されれば、いくら硬くても耐えられませんわ……!」
「割れた破片の鋭さはどうだ」
「……舐めないでくださいませ! 独自の分子結合ですのよ、割れた断面はどんな業物よりも鋭利に決まっていますわ! それがどうしたというんですの! 私の芸術はもうズタズタですわ!」
「十分だ」
グンツはヘルメットを深く被り直した。
「リーゼロッテ、第22層の落盤処理の時に使った『発破用魔力爆薬』の残りを、第25層の通路の壁裏に転送してくれ。現場に行くぞ」
「……承知しました。経費は最小限でお願いしますね」
グンツは鉄扉を開け、振り返らずに言い放った。
「お前の作ったものはゴミじゃない。素材の特性を活かしきれていないだけだ。……見せてやるよ、俺のやり方を」
★★★★★★★★★★★
第25層。
『剛腕の鉄槌』のパーティは、通路に立ち並ぶクリスタルを次々と粉砕し、余裕の足取りで進んでいた。
「もうこの階層の罠は終わりか? 張り合いがないな」
「足元に気をつけろよ。ガラスの破片だらけで歩きにくい」
彼らが通路の中央付近に差し掛かり、床一面に散らばった無数のクリスタルの破片を踏みしめていた、その時だった。
ズズッ、という低い地鳴りが通路に響いた。
「ん? 通路の形が……変わったぞ?」
後衛の戦士が周囲を見回す。
彼らの足元の床と、左右の壁の形状が、グンツの《即時建築》によって一瞬にして変形していた。通路全体が、彼らの背後から前方へ向かって狭まる『巨大なすり鉢状の砲身』のような形になっていたのだ。
通路の奥の壁裏に隠れていたグンツは、右目の《構造解析》で散らばった破片の質量と配置を完璧に計算し終え、手元の起爆スイッチに手をかけた。
「セリアの作ったクリスタルは、硬度と鋭利さにおいて魔界随一だ。砕けたなら、それは無数の最高級の刃物になったということだ」
グンツは無慈悲にスイッチを押し込んだ。
「起爆」
ドゴォォォォォンッ!!!
勇者たちの背後に仕掛けられた発破用の魔力爆薬が、凄まじい爆発を起こした。
爆発のエネルギーは、すり鉢状に変形した通路によって一方向に集約され、猛烈な爆風となって勇者たちの背後から襲いかかった。
そして、その爆風が巻き上げたのは、床一面に散らばっていた無数のクリスタルの破片だった。
ダイヤモンド並みの硬度と剃刀のような鋭さを持つ破片が、秒速数百メートルという恐ろしい速度で『散弾』となって射出される。
ジャキィィィィンッ!!!
「ぐああっ! なんだこれは!」
狂戦士たちが悲鳴を上げた。
魔法の光など存在しない。ただ圧倒的な運動エネルギーがもたらす蹂躙劇。彼らが誇る重装甲の鎧自体を完全に貫通することはできないが、数万という破片の嵐は、鎧の関節部、鎖帷子の隙間、そして兜のバイザーのわずかな視界確保の隙間へと、容赦なく深々と突き刺さった。
「痛ぇっ! 目が! 隙間から入ってくるぞ!」
「防げない! 盾の裏に回り込んでくるっ!」
圧倒的な面制圧。
彼らは無数の切り傷から血を流し、パニックに陥って武器を放り出した。もはや強行突破の威勢はどこにもなく、視界を奪われた恐怖に苛まれながら、手探りで帰還の転移石を叩き割った。
★★★★★★★★★★★
「……対象の完全離脱を確認。防衛完了だ」
監視室に戻ってきたグンツは、パイプ椅子に腰を下ろしてヘルメットを脱いだ。
「驚きました。あの美しいクリスタルの破片を、指向性を持たせた巨大な散弾銃の弾として再利用するなんて。……残骸の処理費用も浮きましたし、見事な機転です」
リーゼロッテがバインダーに数値を書き込みながら、感嘆の息を漏らす。
グンツは立ち上がり、部屋の隅でまだ悔しそうに肩を震わせているセリアの元へ歩み寄った。
「……セリア」
グンツは、現場から拾ってきた血に染まったクリスタルの破片をハンカチで丁寧に拭き取り、彼女の目の前に差し出した。
「見ろ」
セリアが恐る恐る顔を上げ、その破片を見る。
「お前の作った素材は、あれだけの爆発の衝撃と金属鎧への衝突を経験しても、刃こぼれ一つしていない。最高に美しくて、凶悪な散弾だったぞ」
セリアは目を見開いた。
自分が手塩にかけて研磨したクリスタルが、形を変えてもなお、魔王軍の防衛の要として完璧に機能していた事実。その確かな証拠が、グンツの手の中にあった。
「私の……研究は、無駄ではなかったのですね……」
「無駄なわけがない。ただ、相手の特性によって適材適所ってやつがあるだけだ。……次は、最初からこの『散弾』をベースにした物理トラップを設計する。破片の量産を頼めるか?」
グンツの言葉に、セリアの瞳に再びマッドサイエンティストとしての強い光が宿った。
「……はいっ! 任せてくださいませ! 次はもっと鋭利で、絶対に抜けない返しをつけた特製のクリスタル散弾を、数万発単位でご用意いたしますわ!」
セリアが涙を拭い、満面の笑みを取り戻してラボへと走り去っていく。
それを見送りながら、リーゼロッテがボソリと呟いた。
「結果的に再利用できたからいいものの、最初から散弾として作ってもらえば、研磨の手間が省けて原価は百分の一で済みますからね。次からは予算削減に大きく貢献できそうです」
「お前は本当にブレないな」
グンツが苦笑しながら自分のデスクに戻ると、足元で眠っていたブランとノワールが目を覚まし、彼を労うように「わふっ」と短い鳴き声を上げて尻尾を振った。
「……さて、次の図面を引くか」
グンツは二匹の頭を無造作に撫でると、冷めたコーヒーを飲み干し、再びペンを走らせ始めた。




