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迷宮建築士の防衛戦記 ~勇者を殺すダンジョンを造れと言われましても~  作者: 伊達ジン


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第23話 水没トラップ vs 物理学者

 魔界と人間界の境界に位置する巨大な市場は、朝から強い日差しと喧騒に包まれていた。

 無数の天幕がひしめき合い、香辛料のむせ返るような匂いと、多種多様な魔族や人間の商人たちが交わす怒号のような値切りの声が響き渡っている。

 特級迷宮『絶望の箱庭』の最前線で連日のように埃と泥にまみれていたグンツにとって、この騒がしくも活気に満ちた街の空気は、張り詰めた神経をほぐす良い刺激になっていた。


「この鶏肉は、少し脂が少なすぎますね。以前、あなたが現場の厨房で使っていたものとは部位が違うのではありませんか?」


 隣を歩く女性が、露店に並んだ魔獣の肉を鋭い金色の瞳で検分しながら言った。

 魔王軍人事部の首席人事監査官、ゼノビア・ドラグニル。

 今日の彼女はいつもの堅苦しい軍服風スーツではなく、身体のラインに沿った黒のタートルネックニットと、歩きやすいグレーのワイドパンツという私服姿だった。首筋にうっすらと浮かぶ竜の鱗がなければ、隙のない知的な人間の女性にしか見えない。


「よく見ているな。黒酢あんかけに使うなら、もも肉の方が脂の旨味が出る。こっちの肉をもらおう」


 グンツが肉屋の主人に銅貨を渡すと、ゼノビアは彼が受け取った重い紙袋の片側の持ち手を、自然な動作でひょいと持ち上げた。


「レシピを教えるという約束でしたからね。材料の調達から見学させてもらうのが筋です」

「休日まで俺の行動を監査しなくてもいいんだぞ。ただの買い出しだ」

「監査ではありませんよ。これは……そう、部署間の円滑なコミュニケーションを図るための、有意義な時間です」


 ゼノビアはわずかに口角を上げ、前を向いたまま歩き出した。

 二人は八百屋で泥のついた新鮮なクワイや根菜を吟味し、東方から輸入された調味料の店で黒酢の熟成具合を確かめた。ゼノビアは仕事中と同じように真剣な表情でグンツの素材の選び方を観察し、時折的確な質問を投げかけてくる。


「……それにしても、あなたは本当に現場の細部までよく見ていますね。料理一つとっても、一切の妥協がない」


 一通りの買い物を終え、路地裏の静かな喫茶店で休息を取っている時、ゼノビアが熱いコーヒーのカップを置きながら言った。


「妥協すれば、それは必ず結果に出る。料理の味が落ちれば現場の士気が下がるし、岩盤の補強を怠れば天井が落ちる。それだけのことだ」

「それを『それだけ』と言い切れる者は、魔王軍にもそう多くはありません。……だからこそ、私はあなたを評価しているのです」


 ゼノビアの真っ直ぐな視線に、グンツは少しだけ居心地が悪くなり、コーヒーを飲んで視線を逸らした。


「午後からは俺の部屋の厨房で仕込みだ。包丁の使い方は知っているか?」

「ええ。肉を断つことには慣れていますから」


 竜人族の監査官が放った物騒な冗談に、グンツは思わず短く吹き出した。

 過酷な防衛戦の合間に訪れた、穏やかで有意義な休日だった。


★★★★★★★★★★★


 数日後。特級迷宮『絶望の箱庭』、第10層の統括管理室。

 休日の穏やかな空気はとうに消え去り、室内には冷ややかな緊張感が漂っていた。


「……第21層の防衛ライン、突破されました。現在、対象は第22層の地下水路エリアへと降下中です」


 経理担当のリーゼロッテが、監視水晶から目を離さずに報告した。


「厄介な連中だな。セリアのワイヤーも、摩擦ゼロの氷床も、すべて力技ではなく『解法』を見つけて突破してきている」


 グンツはパイプ机に広げた図面に視線を落とし、迷宮の配管ネットワークを指でなぞった。

 侵入してきているのは、4人組の勇者パーティだった。だが、いつものような重武装の脳筋や、神の加護に頼る狂信者とは様子が違う。

 リーダー格は、奇妙な白衣のようなローブを纏った若い男だった。彼は迷宮内の罠に遭遇するたび、後衛の魔術師に指示を出し、炎の温度や氷の生成位置を細かく指定して、罠の物理的な弱点を的確に突いて無力化してきていたのだ。


「広報のヴィオラさんの情報網によると、あのリーダーの男は『異世界からの転生者』だそうです。人間界のギルドでは『物理学者勇者』などと呼ばれ、魔法の力と異世界の科学知識を組み合わせて戦う厄介な手合いだとか」

「異世界の科学、ね。どおりでただの魔法使いとは戦い方が違うわけだ」


 グンツは立ち上がり、ヘルメットを手にした。


「だが、どんな知識を持っていようが、ここは俺が基礎から組み直した迷宮だ。第22層の巨大水槽エリアに誘導しろ。水攻めで終わらせる」


★★★★★★★★★★★


 第22層。

 物理学者を名乗る勇者は、仲間たちを引き連れて広大な石造りの通路を歩いていた。


「気をつけろ。この先の空間は気温と湿度が異常に高い。構造的に見て、大量の液体を貯留するための区画だ」


 男が眼鏡を押し上げながら警告した直後、彼らが足を踏み入れた広大な窪地の前後で、轟音と共に分厚い隔壁が落下した。


「閉じ込められたか。だが慌てるな」


 男の言葉と同時に、部屋の天井付近に設けられた無数の注水口から、鉄砲水のような勢いで大量の地下水が注ぎ込まれ始めた。水位はあっという間に膝丈を超え、腰の高さまで迫る。


「水攻めか。古典的だが、脱出不可能の密閉空間では効果的だ。だが、この程度の物理トラップ、俺の知識の前には無力だ。……キャシー! 氷魔法で俺が指示する形状の管を造れ! 直径は50センチ、形状は逆U字型だ! 片方の端はこの部屋の水底に、もう片方はあの隔壁の隙間を越えて、外の低い通路へ落とせ!」


 指示を受けた魔術師の少女が杖を振り、巨大な氷の管が凄まじい速度で形成されていく。

 逆U字型をした氷の管は、水没しつつある部屋の水面から、天井近くのわずかな隙間を縫って、隔壁の向こう側の低い通路へと繋がった。


「よし、管の中の空気を魔法で完全に抜け! 水を満たすんだ!」


 魔術師が真空を生み出す魔法を管の内部に放つと、部屋の中に溜まっていた水が、凄まじい勢いで氷の管を通って吸い上げられ、隔壁の向こう側へと排出され始めた。

 注水される量よりも、排出される量の方が圧倒的に多い。みるみるうちに部屋の水位が下がり始めた。


「サイフォン現象だ」


 男が得意げに笑う。


「管の中を液体で満たせば、大気圧と高低差の力によって、液体は高い壁を越えて低い場所へと勝手に流れ続ける。動力など一切不要だ。……魔王軍の野蛮な罠など、流体力学の基礎を知っていれば児戯に等しい」


★★★★★★★★★★★


「な、なんてことです! 水位が下がり始めました! このままでは水攻めが完全に無効化されてしまいます!」


 監視室で水晶を見ていたリーゼロッテが、珍しく焦りの声を上げた。


「水が勝手に壁を越えて流れていくなんて……どういう魔法のチートですの!?」


 いつの間にか顔を出していたセリアも、目を丸くして驚いている。


「魔法のチートじゃない。流体力学だ」


 グンツはパイプ椅子から立ち上がり、手元の起動盤に触れた。


「大気圧の原理を利用した排水。確かに見事な知識と応用力だ。だがな……」


 グンツの右目が鋭く青白く光る。

 水晶の映像を通し、《構造解析》が勇者たちの造り上げた氷の管の構造と、そこにかかる圧力の分布を正確に割り出していく。


「物理法則を齧った程度で、俺の現場を出し抜けると思うなよ。……サイフォン現象の絶対条件は、『管の中が液体で完全に密閉されていること』だ」


 グンツは《即時建築》の魔法を起動した。

 彼が干渉したのは、水槽の底でも隔壁でもない。勇者たちが造り上げた氷の管が、隔壁の隙間を越えるために曲がっている『頂点』のすぐ真上にある、迷宮の岩盤の天井だった。


 グンツの魔力により、天井の岩石の表面がわずかに剥離し、鋭い小石となって弾け飛んだ。

 その小石は、正確な軌道を描いて、逆U字型になった氷の管の最も高い部分に激突した。


 パキンッ。


 氷の管の頂点に、ほんの数ミリほどの小さな亀裂が入った。

 たったそれだけのことだ。管が完全に破壊されたわけではない。


 しかし、その小さな穴から『シュッ』という音と共に、外部の空気が勢いよく管の内部へと吸い込まれた。


「なっ……!?」


 水晶の向こうで、物理学者の男が顔色を変えた。

 空気が入り込んだ瞬間、管の内部を満たしていた水柱が分断された。

 流体力学における、サイフォン現象の完全な崩壊である。


「排水が……止まった!?」


 ゴボボボッという音と共に氷の管から水が落ち、隔壁の向こうへの排水が完全に停止した。

 一方、部屋の天井の注水口からは依然として激しい勢いで地下水が注ぎ込み続けている。


「な、なぜだ! 管はまだ繋がっているのに!」

「リーダー! 水位がまた上がってきました!」


 魔法使いの少女がパニックになり、再び氷の管を造り直そうとする。しかし、グンツが天井から小石を弾き飛ばす魔法の方が遥かに早い。管を造るそばから頂点に空気が入れられ、排水はことごとく無効化されていく。


「気圧の差だの、流体力学だの、理屈を並べるのは結構だ」


 グンツは監視室の水晶に向かって、冷たく言い放った。


「だが、現場で起きる物理現象に魔法はない。管に穴が開いて空気が入れば、水は流れない。ただそれだけのことだ。……お勉強の時間は終わりだぞ、異世界の賢者様」


 水位は容赦なく彼らの胸元を超え、首まで達した。

 泳ぎながら氷の管を造る余裕などなくなり、足元が完全に浮いた彼らは、溺れる恐怖に抗うことができなくなった。


「くそっ……俺の理論が……ただの石ころ一つに……!」


 男は悔しげに顔を歪めながら、腰のポーチから帰還の転移石を取り出し、水中で叩き割った。

 淡い光が水中で弾け、4人の姿が完全に消え去る。


★★★★★★★★★★★


「……対象の完全離脱を確認。防衛完了だ。隔壁を開いて、水を本来の水脈へ戻せ」


 グンツの指示で、リーゼロッテが素早くレバーを操作する。

 第22層の水槽の隔壁が上がり、溜まっていた地下水が轟音と共に下層の安全な排水路へと流れていった。


「お見事です、グンツさん。相手の対抗策の弱点を見抜き、岩盤の小石を一つ落とすだけの魔力で事態を解決するとは。今回も経費は実質ゼロですね」


 リーゼロッテがバインダーにチェックを入れながら、小さく息を吐いた。


「どんなに高度な知識を持っていても、現場の環境を支配しているのは俺たちだからな」


 グンツはヘルメットを机に置き、首を鳴らした。


「さて、今日の業務はこれくらいにしておこう。……リーゼロッテ、悪いが後の引き継ぎを頼む。俺は部屋に戻って、夕飯の仕込みをしないといけない」

「夕飯の仕込み、ですか? いつもなら現場の厨房で済ませるのに、珍しいですね」


 リーゼロッテが不思議そうに首を傾げると、グンツは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「……まぁ、ちょっとした約束があってな。黒酢あんかけのレシピを教えることになっている」


 監視室を後にしたグンツは、自分のプレハブ小屋へと向かった。

 部屋の扉を開けると、簡易キッチンにはすでに、休日に市場で買った新鮮な鶏もも肉とクワイが綺麗に下処理されて並べられていた。

 そして、黒のタートルネックに身を包んだゼノビアが、腕まくりをして待っていた。


「遅いですよ、グンツ。肉の温度が室温に戻ってしまいます」

「すまん、厄介な客の処理が少し長引いた」


 グンツは作業着の上着を脱ぎ、エプロンを身につけた。


「よし、まずは肉の切り方と、クワイの食感を残す水抜きの方法からだ。監査官殿には厳しいチェックをお願いするぞ」

「ええ、手元の一切の妥協も許しませんよ」


 ゼノビアが真剣な金色の瞳で頷く。

 グンツが包丁を握り、軽快な音を立ててクワイを刻み始める。ゼノビアもまた、彼から渡された鶏肉を正確な大きさに切り分けていく。

 鍋の油が熱され、黒酢の芳醇な香りが狭い部屋に漂い始める。並んで立つ二人の間には、言葉以上の静かで確かな信頼の空気が流れていた。

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