第17話 壁抜けの暗殺者
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第10層の統括管理室。
迷宮の再建プロジェクトは順調に進んでいたが、第11層以下の基礎工事で稼働し続けている大型魔導重機の排熱が、通風孔を通じて上層のこの管理室にまでじんわりと伝わってきていた。
魔界にも季節の変化はあり、現在は一年のうちで最も気温が上がる時期に差し掛かっている。重機の排熱と相まって、室内の空気は少しばかり蒸し暑さを帯びていた。
「はぁ、はぁ……」
「はっ、はっ、はっ……」
部屋の隅のフローリングの床で、二つの毛玉が力なく伸びていた。
真っ白なグレートピレニーズの子犬であるブランと、漆黒のドーベルマンの子犬であるノワールだ。
特に雪国原産の犬種であるブランにとって、この蒸し暑さは天敵だった。彼は太くて短い足を投げ出し、フローリングの一番冷たい場所を探しては、腹をベッタリと床にくっつけて力なく息を吐いている。ノワールも短い毛並みとはいえ暑いらしく、ブランの隣でぐったりと横たわっていた。
「……お前ら、すっかりバテてるな。待ってろ、今いいものを出してやる」
図面を引いていた特級迷宮建築士のグンツは、苦笑いしながら立ち上がり、厨房の冷蔵用の魔導具へと向かった。
彼が取り出したのは、研究開発部のセリアが『絶対零度のゼリー』を開発した際に副産物としてできた失敗作を、丈夫な革袋に詰めて凍らせた特製の『保冷剤』だった。冷えすぎないように、グンツが清潔なタオルで二重に包み込んでいる。
「ほら、冷たいぞ」
グンツが二つの保冷剤を床に置くと、子犬たちは鼻をヒクつかせてのそりと起き上がった。
冷気を察知したブランは、短い尻尾をパタパタと振りながら保冷剤の上にゴロンと転がり、モフモフのお腹をべったりと押し付けて「へそ天」の姿勢になった。冷たいタオルに顔をすり寄せ、恍惚とした表情で「きゅ〜ん」と甘い声を漏らしている。
一方のノワールは、もう一つの保冷剤を冷たい枕に見立て、そこにちょこんとアゴを乗せて気持ちよさそうに目を閉じた。白と黒の小さな命が、ひんやりとしたタオルに寄り添って静かに寝息を立て始める。
「……可愛すぎます。あの保冷剤になりたいですね」
デスクで分厚いバインダーと格闘していた経理担当のリーゼロッテが、鼻眼鏡を押し上げながらうっとりと呟いた。彼女も涼しい顔をして書類仕事をしているように見えたが、そのデスクの下では、彼女のストッキングの足元にちゃっかりと3つ目の保冷剤が置かれていた。
「和んでいるところ悪いが、緊急事態よ!」
その穏やかな空気を打ち破るように、重厚な鉄扉が勢いよく開け放たれた。
営業・広報担当のサキュバス、ヴィオラが血相を変えて飛び込んでくる。手にした魔導板には、人間界の裏ギルドの暗号通信ログが真っ赤な警告色で表示されていた。
「ヴィオラ、またお前が勝手な誇大広告を流して厄介な客を釣ってきたのか?」
「違うわよ! 今回は私、何も宣伝してないわ! これは人間界の勇者ギルドが、極秘裏に手配した『特務アサシン』の侵入データよ!」
ヴィオラが魔導板を監視水晶のシステムにリンクさせると、第8層の通路を無音で駆け抜ける一人の男の姿が映し出された。
全身を黒装束で包んだその男は、床に仕掛けられた重量感知の罠を意に介さず、さらに行き止まりの分厚い石壁に向かって速度を落とすことなく突っ込んだ。
「あいつ、壁にぶつかるぞ……なっ!?」
グンツが息を呑んだ。
男の体が、分厚い岩盤の壁をまるで水面を潜るかのように『すり抜け』、何事もなかったかのように壁の向こう側の通路へと抜け出たのだ。
「ギルドの機密データと照合しました」
リーゼロッテが素早くバインダーのページをめくる。
「対象は人間界の裏社会で名を馳せる特級暗殺者、『壁抜けのファントム』。彼の固有スキル《物質透過》は、自身の肉体をあらゆる物理的な障害物――壁、床、鉄格子、そして物理的な攻撃から透過させる能力です。……おそらく彼らの狙いは、迷宮の核ではなく、次々と厄介な罠を造り出す現場監督……グンツさん、あなたの暗殺です」
「俺の暗殺だと……?」
「どんな完璧な死の罠を設置しようとも、彼には意味がありません。罠の作動装置も、閉じ込めるための鉄扉も、すべてすり抜けて一直線にこの第10層の管理室までやってきます。到達予測時間、あと4分です」
リーゼロッテの冷徹な報告に、室内の空気が一気に張り詰めた。
「チッ、面倒な野郎が来やがったな。物理の罠が効かねぇなら、アタシが直接物理で殴り飛ばしてやるよ!」
部屋の隅で休んでいた物流部門のレイラが、魔導車のキーを握りしめて立ち上がる。
「待て、レイラ。奴の《物質透過》は壁を抜けるだけじゃない。お前の蹴りや武器の攻撃も、体を透過させて無効化するはずだ。生身で挑めば、逆にカウンターで心臓を抉られるぞ。部下を危険な直接戦闘に晒すわけにはいかない」
グンツは即座にレイラを制止し、右目を青白く光らせた。
《構造解析》のスキルが発動し、男が向かってくる直線上の迷宮の立体構造が脳内に猛スピードで展開される。
「目標の現在地、第8層。このまま一直線にすべての壁を透過してくると仮定すれば、最後に奴がすり抜けるのは、俺たちがいるこの第10層を隔てる『厚さ10メートルの防壁ブロック』だ」
グンツは愛用のヘルメットを深く被り直し、ニヤリと凶悪で職人的な笑みを浮かべた。
「壁をすり抜けるスキル……確かに厄介極まりないチート能力だ。だが、奴は重大な思い込みをしている。壁を抜けた先の空間に、自分にとって都合の良い『空気』が必ず存在しているとな」
「空気……ですか?」
リーゼロッテが小首を傾げる。
「ああ。俺の《即時建築》の出番だ。現場へ行くぞ。レイラ、お前の愛車の後ろに乗せてくれ」
「おう、任せな! 飛ばすぜ!」
グンツはレイラの巨大な二輪の魔導車の後部シートに飛び乗り、第9層と第10層の境界にある分厚い防壁ブロックの裏側へと猛スピードで急行した。現場の状況を直接目で見て、己の魔法で罠を形作るのが特級迷宮建築士の絶対の流儀だ。
現場に到着したグンツは、ただちに魔力を練り上げた。
彼の魔法が、防壁ブロックのすぐ裏側にある通路の一部をチタン合金並みの強度を持つ高純度魔導コンクリートで完全に密閉し、窓も隙間もない「完璧な小部屋」を造り上げる。
さらに、セリアが過去に開発したガスの燃焼実験のデータを応用し、その小部屋の中に強力な魔導ポンプを設置した。
「部屋の内部から、空気を完全に抜き取る。気圧を限りなくゼロに近づけるんだ。床には事後処理用のダストシュートを繋いでおくが、気圧差で空気が逆流しないように、ハッチには何重もの強固な気密ロックを施しておく」
グンツの魔法によってポンプが凄まじい勢いで駆動し、密閉された小部屋の中の空気は一瞬にして外部へと排出された。
それは、空気の存在しない虚無の空間の完成だった。
「名付けて『絶対真空ルーム』だ。壁の向こう側は、空の彼方の宇宙空間と同じ、完全な真空状態にしてある」
「宇宙空間……! つまり、息ができないってこと!?」
水晶越しに状況を見ていたヴィオラが、通信用の魔導具から驚きの声を上げる。
「窒息だけじゃない。恐ろしいのは『気圧差』だ。……さぁ、お出ましだぞ」
★★★★★★★★★★★
暗殺者『壁抜けのファントム』は、己の能力に絶対の自信を持っていた。
いかなる強固な要塞も、致死の罠も、彼にとってはただの景色に過ぎない。壁の中に潜んでいる間は息を止める必要があるが、彼ほど鍛え抜かれた暗殺者であれば、数分間息を止めることなど容易い。
(魔王軍の迷宮建築士よ。お前がどれだけ頑丈な壁を作ろうと、俺には無意味だ。この厚さ10メートルの壁を抜ければ、お前の首は俺のものだ)
男は冷笑を浮かべながら、第9層と第10層を隔てる分厚い防壁の中を透過スキルで悠々と直進していく。
そして、息継ぎのために壁の向こう側の空間へと顔を出し、透過スキルを解除した。
「プハッ……!」
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込もうとした、その瞬間だった。
「――っ!?」
彼の喉から空気が入ってこない。それどころか、肺の中に残っていたわずかな空気が、凄まじい力で口と鼻から外の世界へと『引っ張り出される』ような激痛が走った。
(な、なんだ……空気が、ない!?)
暗殺者は目を見開いた。
彼が透過して出た先は、グンツが用意した『絶対真空ルーム』だったのだ。
周囲の気圧がゼロであるため、彼の人体内部の1気圧との間に、猛烈な気圧差が生じる。
まず、急激な減圧によって鼓膜が内側から弾け飛び、激痛が脳を貫いた。
さらに恐ろしいのは、体液の沸騰だった。気圧が極端に低い環境では、液体の沸点は劇的に下がる。彼の体温そのものが熱源となり、血液や唾液、眼球の水分が文字通りブクブクと沸騰し始めたのだ。
「ガァッ……! ギッ……!」
声帯を震わせるための空気がないため、彼の絶叫は音にならず、ただ虚しく口を開閉するだけだった。
暗殺者は何が起きたのかすら理解できないまま、眼球を充血させ、のたうち回りながらわずか十数秒で絶命した。
物理的な壁を透過するチートスキルも、彼が『人間の肉体』を持つ以上、絶対的な物理法則である気圧の差と沸点変化から逃れることはできない。
無音の真空空間の中で、彼の体は糸が切れた操り人形のように床へと崩れ落ちた。
★★★★★★★★★★★
「……対象の全滅を確認。これで防衛完了だ」
監視室の水晶越しに暗殺者の絶命を確認したグンツは、魔導ポンプのバルブを操作し、現場の真空ルームにゆっくりと空気を戻した。
「えぐっ……。音もなく人が死んでいくのって、爆発や炎よりもよっぽど不気味で怖いんだけど……」
ヴィオラがわずかに青ざめながら腕をさする。
「前回学んだ『難易度の黄金比』のルール通りだ」
グンツは誇らしげにパイプ椅子に深く寄りかかった。
「真空による減圧と窒息なら、命だけを確実に奪い、無機物である装備品には一切の傷がつかないからな」
グンツが手元のレバーを引くと、気密ロックが解除され、真空ルームの床が観音開きに開いてダストシュートが作動した。
遥か下層の処理プールへと滑り落ちた暗殺者の遺体は、清掃特化型スライムたちによって瞬時に浄化される。そして、暗殺者が身につけていた『気配遮断の外套』や『ミスリル製の暗殺短剣』といった希少な魔法具だけが、自動洗浄シャワーを経てベルトコンベアに乗り、監視室の回収部屋へと綺麗な状態で運ばれてきた。
「決算報告をします」
リーゼロッテが、回収されたピカピカの暗殺具をバインダーの横に並べながら、満足げな声で告げた。
「今回使用した経費は、部屋を真空にするために魔導ポンプを数十秒間稼働させた、ごくわずかな魔力燃料費のみです。金貨に換算してほぼ0枚。対して、対象が落としていった特級の暗殺具は裏社会で非常に需要が高く、推定売却益は金貨450枚を下りません。今回も圧倒的な利益率と、完璧な黄金比の達成です」
「見事な対応だったな、グンツ。アタシの出番はなかったけど、お前のその物理の知識と冷酷さには惚れ惚れするぜ」
レイラが感心したようにグンツの肩を叩く。
「当然だ。俺はこの現場の責任者だからな。チートスキルだろうが暗殺者だろうが、俺の迷宮で好き勝手はさせない」
グンツが冷めたコーヒーを飲み干し、ふと部屋の隅へと視線を落とした。
暗殺者との息詰まる攻防など全く知る由もない子犬たちは、完全に溶けきった保冷剤をまだ名残惜しそうに抱え込みながら、二匹くっついてスヤスヤと平和な寝息を立てていた。
「おいおい、そんなに保冷剤が気に入ったなら、セリアに頼んでもう少し保冷効果の高いゼリーを調合してもらうか」
グンツは苦笑し、二匹の頭を優しく撫でた。
どんなに恐ろしいチート能力を持つ暗殺者が来ようとも、特級迷宮建築士の盤石な防衛システムと物理法則の知識、そして部下と子犬たちを愛する現場主義の心は、決して揺らぐことはないのだった。




