第11話 腐敗した現場
特級迷宮『絶望の箱庭』の第10層。
前任の総監督が残した無惨なゴミと瓦礫の山と化していた『統括管理室』は、グンツとオークたちの数日にわたる懸命な清掃作業により、なんとか最低限の執務スペースとしての機能を取り戻していた。
その部屋の片隅、グンツが清潔な廃材と柔らかい布を組み合わせて作った特製の木箱ベッドの中で、真っ白な毛玉が仰向けになって無防備な寝姿を晒している。
前回の瓦礫の中から救出された、人間界の極寒の地を原産とする気高き白き巨犬――グレートピレニーズの赤ちゃん、ブランだ。
彼は太くて短い前脚をだらんと胸の前に曲げ、淡いピンク色のお腹を丸出しにした完全な「ヘソ天」状態で熟睡していた。時折「くぅ……わふっ、すぅ……」と可愛らしい寝言を漏らしながら、短い後ろ脚をピクピクと動かしては、空中で何かを追いかけるような仕草を見せている。
救出された時の泥と埃は、グンツが温かいお湯で丁寧に洗い落とし、今やその毛並みは新雪のようにフワフワでモフモフだった。黒くてつぶらな鼻先が、呼吸に合わせてわずかにヒクヒクと動いている。
「……無防備すぎるだろ。ここは魔王軍の特級迷宮の深層だぞ。番犬への道のりは果てしなく遠そうだな」
図面と格闘していたグンツは、ふと手を止めてその愛らしい姿を見下ろした。
口では呆れながらも、彼はそっと手を伸ばし、ブランの柔らかいお腹を優しく撫でる。ブランは目を閉じたまま気持ちよさそうに喉を鳴らし、さらにゴロンと寝返りを打って、柔らかなピンク色の肉球をグンツの手のひらにすり寄せてきた。
総監督に就任して早々、前任者の残した金貨100万枚のマイナスという天文学的な負債を背負わされたグンツにとって、この小さな命の無邪気な温もりだけが、今の彼に激しい胃痛を忘れさせてくれる唯一の癒やしであった。
「グンツさん、第11層以降の視察の準備が整いました」
重厚な鉄扉が開き、分厚いバインダーを抱えた経理担当のリーゼロッテが入ってきた。
その音で目を覚ましたブランは、「きゅんっ!」と小さく鳴き声を上げると、短い足でもつれるようにトコトコと駆け寄り、リーゼロッテの黒いストッキングに包まれた足元にまとわりついた。
「きゅ〜ん、わふっ」
見上げるつぶらな黒い瞳と、ちぎれんばかりに振られる真っ白な尻尾。
普段は金貨1枚の無駄遣いすら絶対に許さない、冷徹な経理担当であるリーゼロッテだが、その口元は微かに緩み、思わずしゃがみ込んでブランの頭を優しく撫でた。
「……おはようございます、ブラン。今日は良い子にしていましたか? お腹は空いていませんか?」
「おいおい、経理の鬼がすっかり骨抜きじゃないか」
「……何か言いましたか、総監督。これはあくまで、当迷宮の将来の防衛資産である番犬の健康状態のチェックです。それに、この子の食事代や備品代はすべてあなたの自腹ですから、魔王軍の予算も私の懐も一切痛みません」
リーゼロッテはコホンとわざとらしく咳払いをして立ち上がり、いつもの厳しい表情に戻って眼鏡のブリッジを押し上げた。
「さて、行きましょう。前任者がどのように迷宮の深層エリアを開発していたのか、全100層の総監督として、自分の目でしっかりと確認してきてください」
★★★★★★★★★★★
グンツとリーゼロッテは、修復した昇降機を使って未踏の第11層へと降り立った。
ここは前任のオーク幹部がメインで開発を進めていたエリアだという。しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、グンツの表情は険しくなった。
「……なんだ、この生温かい湿気は」
通路の壁はひどく湿っており、至る所の岩の隙間から水滴がポタポタと滴り落ちていた。床には泥水が淀み、カビと腐敗の混ざったひどい悪臭を放っている。換気設備が全く機能していない証拠だ。
グンツの右目が青白く光り、《構造解析》のスキルが発動する。
壁の向こう側、岩盤の内部構造、水脈の流れ、そして魔力ラインの配線図が、彼の脳内に立体的かつ猛スピードで展開されていく。
「……ふざけるな。地下水脈の流れを完全に無視して、強引に通路を掘り抜いてやがる。壁の防水処理も一切されていないし、排水システムすら構築されていない。これじゃあ、いずれ地下水圧と地盤の緩みに耐えきれず壁が崩壊して、この階層ごと完全に水没するぞ!」
グンツはギリッと奥歯を強く噛み締めた。
迷宮建築士として、最も忌むべき自然への無理解と、信じられないほどの手抜き工事だ。
さらに奥へと進むと、巨大なドーム状の広間に出た。
天井の強大な岩盤の重量を支えるために、何本もの太い石柱が規則正しく立てられているが、グンツの目にはそれらが今にも折れそうなほど脆弱に見えた。
「グンツさん、この柱……表面は立派な大理石に見えますが」
リーゼロッテが柱の表面をコンコンと叩く。その音は、無垢の石材にしてはひどく軽く、空虚に響いた。
「ああ。表面に薄い大理石の化粧板を貼り付けてあるだけで、中身はスカスカの粗悪な土壁だ。耐力壁としての構造計算が全く合っていない。上の第10層までの莫大な土砂と施設の重さを、こんな空洞の柱で支えられるわけがないだろうが!」
グンツは腰のベルトから金属製のピッケルを引き抜き、軽く柱に突き立てた。
それだけで、パラパラと乾いた音を立てて柱の中身が崩れ落ち、大きな穴が開いてしまった。中からは、安価な廃材と質の悪い砂利がこぼれ落ちてくる。
「前任者は、高価な大理石を大量に仕入れたと偽って裏帳簿をつけ、実際には表面だけを安く装飾して、その莫大な差額をすべて自分の懐に入れていたのですね……」
リーゼロッテがバインダーに数値を書き込みながら、氷のように冷たい声で言う。
さらに、防衛の要であるはずの「迷路」の構造も最悪だった。
ただ無闇に入り組んでいるだけで、行き止まりの壁が薄く、魔法や物理的な破壊で簡単にショートカットできるようになっている。冒険者を特定の罠に誘導するための『動線』の概念が完全に欠落しており、逆に敵に身を隠すための安全な遮蔽物を与えてしまっていた。
これでは、どんな強力な罠を仕掛けても、勇者たちは簡単に回避してしまう。
「迷路ってのは、ただ相手を迷わせるためのものじゃない。相手の心理をコントロールし、恐怖と焦燥感を煽り、確実な死地へと歩かせるための緻密な設計図だ。これじゃあ、ただの『かくれんぼの遊び場』だぞ」
第11層から第20層までを視察し終えたグンツの怒りは、すでに限界を突破していた。
「……クソ建築だ。罠の威力がどうこう以前の問題だぞ。勇者が少し高位の爆発魔法をぶっ放しただけで、あるいは巨大な戦槌で壁を殴っただけで、強度が足りないこの迷宮は自重で崩落する。防衛戦どころか、ただの生き埋め事故現場になるぞ!」
「つまり、現状のままでは防衛設備として全く機能しないということですね」
「ああ。小手先の補修じゃどうにもならない。基礎の岩盤が腐りきっているんだ。……リーゼロッテ、決めたぞ」
グンツはヘルメットの鍔をぐっと下げ、鋭い眼光でリーゼロッテを見た。
「俺の《即時建築》の魔法を使って、この欠陥だらけの第11層から最下層に至る全90層のエリアを、すべて基礎から造り直す!」
「……基礎から、造り直す?」
常に冷静なリーゼロッテの声が、わずかに裏返った。上層の第1層から第10層までは、グンツたちがこれまで粉塵爆発や強酸水路などの罠を張り巡らせてきた完璧な防衛拠点である。そこには手を出さず、手付かずの腐敗した下層エリアを一掃するというのだ。
「そうだ。中身がスカスカの柱はすべてぶち壊し、高強度の魔導コンクリートで耐力壁を打ち直す。水脈は安全なルートにバイパス管を通して排水システムを構築し、迷路は一度すべて更地にして、俺の設計した完璧な死の動線を引き直す!」
グンツは力強く宣言したが、すぐに厳しい表情を引き締めた。
「だが、第11層から最下層に至る全90層もの途方もない規模のスクラップ・アンド・ビルドを、今現場にいるオークたちだけの人力でやらせれば、彼らは確実に過労死する。俺は二度と部下に無茶な労働環境を強いるつもりはない。……この大工事を成し遂げるには、彼らの負担を減らすための新たな『大型魔導重機』のリース導入と、大規模な追加人員の雇用、そしてシフト制を維持するための万全の福利厚生が絶対に必要だ」
「お、お待ちください、総監督! それは、つまり……」
「ああ。魔王軍の歴史上類を見ない、超大規模な環境改善と再開発プロジェクトだ。これ以外の方法は存在しない」
★★★★★★★★★★★
統括管理室に戻ったリーゼロッテは、無言で計算用の魔導具を猛スピードで叩き始めた。
カタカタカタカッ、という乾いた音が、静かな室内に異常な速度で響き渡る。
ブランが不思議そうに首を傾げ、彼女の足元にやってきて尻尾を振ったが、今のリーゼロッテにはそれを構う余裕すらなかった。
数十分後。
計算用の魔導具から、一枚の長い羊皮紙が吐き出された。
リーゼロッテはそれを受け取り、震える手でグンツに差し出した。
「……第11層以降を基礎から造り直すための、概算見積もりです。高強度の魔導コンクリートの資材費、防水加工用の特殊樹脂、長距離用の配管材。そして、全90層に及ぶ解体と再構築に伴う、大型魔導重機のリース代、大規模な追加人員の人件費、現場のオークたちの負担をなくすためのシフト制導入費用および充実した福利厚生費。さらに、再建期間中の仮設防衛設備の費用……」
リーゼロッテの声は、次第にかすれ、絶望の虚無を帯びていった。
「……総額、金貨200万枚です。前任者が残した借金である金貨100万枚と合わせて、我が迷宮の予算は……金貨300万枚のマイナスに達します……」
「……金貨300万枚、か」
グンツもさすがに顔を引き攣らせた。
金貨3枚からスタートした彼の泥臭い防衛戦記は、総監督に昇進した途端、天文学的な赤字を抱え込むことになってしまったのだ。
「マイナス……さんびゃくまんまい……」
リーゼロッテの目がうつろになり、鼻眼鏡がカチャリとずり落ちた。
「経理として……そんな無茶苦茶なキャッシュフロー……処理、できません……。あ、あはは……もう、魔王軍なんて……倒産してしまえば……」
ブツン、という音が聞こえた気がした。
リーゼロッテの意識が完全にシャットダウンし、彼女の体が後ろへと傾く。
「おい、リーゼロッテ! しっかりしろ!」
グンツが慌てて飛び出し、彼女の細い体を間一髪で抱きとめた。
白目を剥いて完全に気絶している。過酷すぎる数字の暴力が、冷徹な経理の精神をついに破壊したのだ。
「くぅ〜ん?」
グンツが気絶したリーゼロッテをソファに寝かせていると、ブランがトコトコと歩いてきて、前足をソファにかけて一生懸命に背伸びをした。
そして、リーゼロッテの頬をペロペロと心配そうに舐める。
「わふっ」
それでも起きないリーゼロッテの横で、ブランは「仕方ないな」というように丸くなり、大きな欠伸をして再びリラックスモードで目を閉じた。
その愛らしくも呑気な姿に、グンツは深いため息を吐いた。
「……笑えない冗談だ。金貨300万枚のマイナスから始まる再建プロジェクトだと?」
グンツは、気絶した経理担当と、無邪気に眠る白い子犬を交互に見つめた。
「だが、やるしかない。俺は特級迷宮建築士だ。任された現場を途中で放り出すような真似は絶対にしない。それに、部下に無給で危険な仕事をさせるわけにはいかないからな」
勇者を撃退する罠を考える以前に、まずは迷宮そのものを崩壊から救わなければならない。
そして、そのための莫大な資金をどうやって稼ぐのか。
ヴィオラたち他の部署の力も総動員して、前代未聞の「荒稼ぎできるダンジョン再建計画」を立案する必要があった。
特級迷宮の総監督となったグンツの胃痛と頭痛は、未知の領域へと突入していくのだった。




