第9話「届かなかった手紙」
開業三十七日目。
盗賊騒ぎの翌日だった。
朝から、手紙のことだけが頭にあった。
エプロンのポケットに封筒を入れたまま、朝食を作った。
普段通りの手順だ。パンを焼く。スープを温める。卵を割る。
だが、何度もポケットに手が伸びた。
封筒の角が指先に触れるたびに、引っ込めた。
リーゼが首を傾げていた。
「グレンさん、今日ちょっと元気ない?」
「……ああ、少し考え事をしているだけだ」
「そっか。考え事なら、あたし静かにしてるね」
リーゼはそう言って、本当に静かになった。
皿を運ぶ音だけが、厨房に響いていた。
気を遣わせてしまったな。
昼になった。
食堂の片付けをしながら、また封筒に触れた。
ロイドの字だ。
右に傾いた、あいつの癖のある筆跡。
日付は魔王戦の二日前。
あの日の二日前、俺たちは何をしていた。
王都の酒場で、最後の乾杯をした。
「明後日で全部終わる」とロイドが笑っていた。
「終わったら何をする」とセリーナが聞いた。
「さあな。まっ、いいか。終わってから考えるよ」とロイドが答えた。
あいつは、その夜に手紙を書いたのか。
誰に出そうとしたのかは分かる。俺宛てだ。
だが、届かなかった。五年間、どこを彷徨っていたのか。
封を切れなかった。
怖い。
あいつの言葉を読んだら、何かが変わってしまう気がした。
夕方になった。
セリーナが厨房の入口に立った。
何も言わず、俺を見ている。
「……分かってる」
「何が」
「読まなきゃいけないことは」
セリーナは頷きもせず、去っていった。
ドルクは一日中、裏手で素振りをしていた。
俺に声をかけなかった。珍しいことだ。
フィーネは食堂の隅で薬草の研究ノートを書いていたが、目は活字を追っていなかった。
全員が、俺を見ている。
見ているが、何も言わない。
待ってくれているのだ。
*
夜更け。
客が全員寝静まった。
居間に一人で座った。
蝋燭を一本灯す。
ポケットから封筒を出した。
ロイドの字。
五年間の埃。
指先で封を切った。
中から、一枚の便箋が出てきた。
折り目がついている。丁寧に三つ折りにされていた。
あいつらしい。大雑把に見えて、こういうところだけ几帳面だった。
広げた。
『グレンへ。
明後日が決戦だ。
勝てると思ってる。お前がいるからな。
でも、もしものことがあったら——
いや、こんなことを書くと縁起が悪いか。
まっ、いいか。
お前に伝えたかったのは一つだけだ。
お前は十分やった。
俺たちと過ごした時間は、俺の人生で一番の宝だ。
だから、もし俺が先にいなくなっても、お前は笑っていてくれ。
頼むぞ、親友。
ロイド』
手が震えていた。
便箋を持つ指が、白くなるほど力が入っている。
まっ、いいか。
あいつの口癖だ。
目が熱い。
声は出さなかった。ただ、便箋を握りしめて、長い間じっとしていた。
蝋燭の炎が揺れている。
居間の入口に、足音が聞こえた。
「……読んだの?」
セリーナの声だった。
「ああ」
「どうだった?」
答える代わりに、便箋を差し出した。
セリーナが受け取り、読んだ。
銀色の髪が蝋燭の光に揺れている。
読み終えたとき、セリーナの頬に涙が伝っていた。
何も言わなかった。
ただ、便箋を胸に当てて、目を閉じた。
*
セリーナがドルクとフィーネを起こしに行った。
俺は止めなかった。
しばらくして、四人が居間に揃った。
ドルクは寝巻きのまま、髪がぼさぼさだ。
フィーネは法衣の上に薄い上着を羽織っている。
手紙が回された。
ドルクが読んだ。
「がっはっは——」
笑おうとした。笑えなかった。
口が歪み、目が赤くなり、手の甲で乱暴に顔を拭った。
「……くそ。あいつらしいな。最後まで、かっこつけやがって」
フィーネが受け取った。
静かに読み、静かに涙を流した。
「ロイドらしいですわ……最後まで、私たちのことを」
両手を胸の前で組んだ。祈りの形だ。
四人で、居間の丸テーブルを囲んでいる。
蝋燭が一本。
その明かりだけが、俺たちの顔を照らしていた。
「——俺が引退した本当の理由を、話す」
自分の声が、妙に遠くに聞こえた。
全員が黙って俺を見ている。
「ロイドが死んだあの日から、俺は怖くなった」
言葉にするのは、初めてだった。
「また誰かを失うことが。俺が前に立てば、また誰かが俺を庇って死ぬ。それが耐えられなくて……だから、戦場を離れた」
蝋燭の炎が揺れた。
「お前たちの傍にいたら、お前たちを巻き込む。そう思った」
沈黙。
長い沈黙だった。
「……馬鹿ね」
セリーナの声だった。
微笑んでいた。泣きながら。
「あなたが離れたから、私たちのほうが不安だったのよ」
「そうだぜ」
ドルクが鼻をすすった。
「お前がいないと、メシが不味くて仕方ねえんだよ」
涙を拭きもせず、笑った。
フィーネが俺を見た。
「グレン。ロイドの手紙を読んだでしょう」
「……ああ」
「『笑っていてくれ』って。あなたは今、笑えていますか?」
笑えているか。
この五年間、笑えていたか。
一人で酒を飲み、一人で飯を食い、一人で寝た。
ロイドの言葉を守ろうとしていた。
好きに生きろ、と。
だが——笑えていたかと聞かれると。
「……ここに来てからは、少しだけ」
声が掠れた。
セリーナが目を伏せた。
ドルクが天井を見上げた。
フィーネが両手を組んだ。
俺は棚からもう一つ、杯を取り出した。
以前も出した杯だ。ドルクとの夜に。
酒を注いだ。
テーブルの真ん中に置く。
誰も持たない杯。
自分の杯を上げた。
三人が、それぞれの杯を上げた。
「ロイドに」
四つの声が重なった。
窓の外は、秋の終わりの夜空だった。
星が多い。
ロイド。
お前の手紙は五年遅れで届いた。
遅配にもほどがある。
だが——届いた。
笑っていてくれ、と。
分かったよ。
努力はする。
*
四人が居間を出た後、俺は一人で蝋燭を消した。
暗闇の中で、椅子に座っていた。
ロイドの手紙を、もう一度ポケットにしまった。
今度は折り目をつけないように、丁寧に。
立ち上がり、自室に向かおうとしたとき。
二階から、微かな声が聞こえた。
カイルの部屋の方向だ。
壁越しで、言葉の中身までは聞き取れない。
だが——語りかけるような調子だった。
誰かに話しかけているのか。
泣いているようには聞こえなかった。
静かに階段を上がり、自室に入った。
布団に横になる。
天井が暗い。
ロイド。
お前の言葉は届いてる。
五年遅れだが、届いてる。
目を閉じた。
今夜は——眠れそうだった。




