第10話「ここが、俺の冒険の続き」
開業四十日目。
朝、窓を開けたら、息が白かった。
秋が終わる。
軒先の木々が最後の葉を落とし始めている。
空は高く、風は冷たい。
厨房に降りて竈に火を起こした。
最近は朝の火入れが日課になっている。宿屋を始める前は焚き火だったが、竈のほうが楽だ。
パンを焼き、スープを温め、卵を割る。
食堂の席が足りなくなって、一か月前に長椅子を二脚追加した。
それでも足りない。
今朝も満席だった。
冒険者が六人。行商人が二人。村人が三人——最近は村人も朝食を食べに来るようになった。
忙しい。
引退したはずなのに、忙しい。
*
朝食の片付けが終わった頃、ボルド村長がやって来た。
「グレン殿。少し話がある」
食堂の隅で向かい合った。
ボルドが顎髭を撫でながら、いつもの穏やかな顔で切り出した。
「村として正式に提案がある。灯火亭を、村の中心施設として拡張しないか」
「拡張」
「今のままでは客を捌ききれんじゃろう。部屋を増やし、食堂を広げ、湯殿ももう一つ造る。費用は村の積立金から出す」
「俺は宿屋の親父であって、村長じゃないんだが」
「知っとるよ。じゃが、あんたが来てから村が変わったんじゃ」
ボルドの目が、真剣だった。
「わしも長く村長をやっておるが、こんなに村が賑やかになったのは初めてじゃ。若い者が出ていかなくなった。行商人が定期的に来るようになった。冒険者が金を落としてくれる。村の収入は三か月前の倍以上じゃ」
「それは——宿屋に客が来ただけだろう」
「その客を呼んだのは、あんたじゃ」
返す言葉がなかった。
リーゼが厨房から飛び出してきた。
「あたしも手伝う! ていうか、もう手伝ってるけど!」
「ほっほっほ、リーゼは相変わらずじゃのう」
ボルドが笑った。
「……少し考えさせてくれ」
「急がんでいい。村はどこにも行かん」
ボルドが立ち上がり、杖をついて去っていった。
リーゼが隣に立っている。
「グレンさん、やろうよ。大きくなった灯火亭、見てみたいよ」
「……そうだな」
まだ答えは出ていなかった。
だが、断る理由も見つからなかった。
*
昼過ぎ。
食堂に四人が揃った。
セリーナ。ドルク。フィーネ。カイル。
別に集めたわけではない。
昼食の時間にたまたま全員が食堂にいただけだ。
だが、空気が違った。
何かを話そうとしている。それぞれが。
セリーナが最初に口を開いた。
「私、宮廷に休暇の延長を申請するわ」
蜂蜜酒の杯を傾けながら、さらりと言った。
「……ここでの研究がまだ終わっていないもの」
建前だ。本心は知らない。だが、聞かなくても構わない。
「好きにしろ。部屋代はもらうぞ」
「あら、常連割引はないの?」
「ない」
「けち」
笑っていた。
ドルクが腕を組んだ。
「俺は一度、訓練学校に戻る。生徒を放っておくわけにはいかねえからな」
「そうか」
「だが——」
右腕の紋様を見つめた。
「次の長期休暇にはまた来る。フィーネに腕を診てもらいたいしな」
フィーネが頷いた。
「ええ。呪いの痕についても調べたいことがありますわ。霊泉草を使った治療法が見つかるかもしれません」
フィーネの目には、あの切迫感はもうなかった。
代わりにあるのは——前を向いた研究者の目だ。
「わたしも大聖堂に一度報告に戻りますわ。霊泉草の研究成果を正式に提出して、辺境駐在の許可を取るつもりです」
「駐在って……ここに住むのか」
「おいたわしい。そんなに驚かなくても」
驚くだろう。聖女が辺境の村に駐在するなど前例がない。
だが、フィーネの表情は穏やかだった。
カイルが、窓際の席で黙って聞いていた。
「僕は」
全員がカイルを見た。
「……もう少し、この辺りで冒険者を続けます。黒角の森の調査依頼も出ているので」
声は静かだったが、しっかりしていた。
以前の「関係ないです」とは違う。自分で選んだ言葉だ。
「そうか。飯はいつでも食わせてやる」
「……ありがとうございます。グレンさん」
カイルが頭を下げた。
ポーチに手を伸ばし——中の何かに触れた。
一瞬だけ、指が止まる。
それから、手を下ろした。
握りしめるのではなく、そっと触れただけだった。
何があったのかは分からない。
だが、指先の力が変わったことだけは見えた。
*
拡張工事は、思ったより早く始まった。
村長に「やる」と伝えたのは翌日だった。
「ほっほっほ、そうこなくてはのう」
ボルドが嬉しそうに笑い、村人を集めた。
大工。石工。猟師。農夫。
村中が手を貸してくれた。
図面は俺が引いた。
ダンジョンを歩いていた頃、空間の構造を把握する癖がついていた。壁の厚み、通路の幅、部屋の配置。体が覚えている。
建材を運ぶ。
柱用の丸太を一本ずつ担いで現場に持っていく。
「グレンさん! それ大人五人がかりのやつ!」
リーゼが叫んでいたが、持てるものは持てる。
セリーナが魔法で整地を手伝ってくれた。
「こういう使い方をするとは思わなかったわ。宮廷魔術が土木工事に」
「役に立ってるなら良いだろう」
「それはそうだけど」
滞在中の冒険者たちも労力を提供してくれた。
「世話になった宿の恩返しだ」と。
エルデ村が、少しずつ変わっていく。
道が整備された。
井戸の周りに屋根がついた。
村の入口に「灯火亭こちら」と書かれた標識が立った。
俺がやったことは宿屋を開いただけだ。
だが、人が集まると、人が動く。人が動くと、場所が変わる。
こんなつもりではなかったのだが——まあ、悪いことではない。
*
工事の合間の、ある午後。
リーゼと二人で、新しい看板を彫っていた。
増築が終わったら掛け替える看板だ。
前のものより少し大きい板を、村の大工からもらった。
「灯火亭」の三文字を、俺が彫る。
リーゼがヤスリで表面を整えてくれている。
「ね、グレンさん。看板の下に、何か一言入れない?」
「一言?」
「なんか、こう——お店のモットーみたいなやつ」
モットーか。
考えた。
「……『誰でも温かく迎えます』」
「いいね、それ! すっごくグレンさんらしい!」
彫り進めながら、思い出したことがある。
「ロイドが昔言ってたんだ」
「ロイドさん? グレンさんの……昔の仲間の」
「ああ。『冒険者に必要なのは、帰れる場所だ』ってな」
リーゼは手を止めて、俺を見た。
「……いい言葉だね」
「ああ。あいつは、そういうことを言うのが上手かった」
彫刻刀を動かす。
帰れる場所。
俺はずっと、どこかに帰りたかったのかもしれない。
戦場にいた二十年間、帰る場所がなかった。
パーティの仲間がいる焚き火の前が、唯一の居場所だった。
ロイドがいなくなって、その焚き火も消えた。
だから——自分で、火を灯した。
灯火亭。
名前を決めたとき、深く考えてはいなかった。
だが、たぶん——こういうことだったのだろう。
看板が完成した。
「灯火亭」の下に、小さく「誰でも温かく迎えます」。
リーゼが満足そうに眺めている。
「早く掛けたいね」
「工事が終わったらな」
「楽しみ!」
リーゼが駆けていった。
看板を持って、しばらく眺めた。
ロイド。
お前の言う通りだった。
冒険者に必要なのは、帰れる場所だ。
*
開業四十五日目。
朝、目を覚ましたら、窓の外が白かった。
雪だ。
この冬、最初の雪だった。
薄く積もった雪が、屋根にも、道にも、まだ骨組みだけの増築部分にも降り積もっている。
寒い。だが、竈に火を入れれば厨房はすぐに温まる。
エプロンを締めた。
鼻歌が出た。
ロイドがよく歌っていた行軍歌だ。
朝食の支度を始める。
パンを焼く。スープを温める。卵を割る。
毎朝同じことの繰り返しだ。
だが、同じ朝は一つもない。
食堂にセリーナが降りてきた。
髪を下ろしたまま、本を抱えている。
「おはよう、グレン。今日は冷えるわね」
「ああ。スープを多めに作った」
「助かるわ」
セリーナが窓際の席に座り、本を開いた。
カイルが階段を降りてきた。
窓際の——セリーナの隣ではなく、少し離れた席に座った。
手には剣の手入れ道具。
「おはようございます」
「ああ。飯はもう少しだ」
「はい」
リーゼが裏口から飛び込んできた。頬が赤い。
「おはよう! 雪! 初雪だよグレンさん!」
「知ってる。寒いから中に入れ」
「はーい!」
テーブルを拭き始めるリーゼ。
本を読むセリーナ。
剣を磨くカイル。
ドルクとフィーネはそれぞれの場所に戻った。
だが、「また来る」という言葉を残していった。
来るだろう。
あいつらは、来ると言ったら来る。住所も知っている。
表の扉が開いた。
ボルド村長が顔を出した。
「おはよう、グレン殿。今日も繁盛しそうじゃのう」
「おはようございます。寒いから中に入ってください」
「ほっほっほ、では朝飯をご馳走になろうかのう」
村長が席につく。
外から声が聞こえた。
「ここが灯火亭か!」
「噂通り、辺境にあるんだな!」
「薬湯が楽しみだ!」
新しい客だ。今日も来る。明日も来るだろう。
鍋をかき混ぜながら、窓の外を見た。
雪が降っている。
白い景色の中に、灯火亭の窓から光が漏れている。
温かい光だ。
「引退したはずなのに」
小さく呟いた。
まあ、飯を作って、風呂を沸かして、客を迎えるだけだ。
これが冒険だとは思わないが——。
ふと。
笑みがこぼれた。
ロイドの声が聞こえた気がした。
『好きに生きろ、グレン』
ああ。
好きに生きてるよ。
お前のおかげで。
「——ここが、俺の冒険の続きか」
エプロンを締め直した。
「まあ、なんとかなるだろ」
厨房に向かう。
今日の朝食は、少し特別にしよう。
初雪の日だ。温かいものを多めに作る。
窓の外では、雪がしんしんと降り続けている。
灯火亭から漏れる光が、白い道の上に金色の筋を引いていた。




