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Sランク冒険者を引退したおっさん、辺境で宿屋を始めたら元パーティメンバーが続々押しかけてきて引退させてくれない  作者: 月代


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第8話「包丁一本の武勇伝」


開業三十五日目。


災獣の一件から四日が経った。


灯火亭の評判は——正直、もう手に負えないほど広がっている。


「奇跡の薬湯」に加えて「辺境の災獣を退けた宿屋の親父」という噂が乗った。

毎日のように新しい冒険者が訪れ、部屋は常に満室だ。


今日も新しい客が何組か来ていた。


夕方、受付をしているリーゼが俺のところに来た。


「グレンさん……あのお客さんたち、なんか目つきが悪い気がする……」


「色んな客が来るのが宿屋だ。見た目で判断するもんじゃない」


「うん……そうだよね」


リーゼは納得したようだったが、まだ少し不安そうだった。


夕食を出す。

今日は根菜のシチューと黒パン、チーズの盛り合わせだ。


新しい客たちは、大人しく食べていた。

四人組で、旅商人を名乗っている。だが、手の動きが気になった。商人にしては指に古い擦傷がある。


まあ、元冒険者が商人になることは珍しくない。



  *



食後、セリーナが厨房に来た。


声を落としている。


「ねえ、グレン。あの客たち、怪しいわ」


「どうした」


「武器を隠し持っている。外套の下に短剣が最低二本。靴の中にも仕込みナイフがある」


セリーナは宮廷魔術師だ。

武装の気配を読む訓練を積んでいる。


「確かか」


「間違いないわ。でも、目的が分からない。様子を見ているだけかもしれないし、今夜動くかもしれない」


「証拠がないなら、客として扱う。宿屋は来る者を拒まない」


「……相変わらず甘いのね」


「甘いんじゃない。宿屋の流儀だ」


セリーナは溜息をついて去っていった。


だが——忠告は頭に入れておく。


寝る前に、包丁の位置を確かめた。


厨房の壁に掛けてある。

いつもの場所。いつもの包丁。


二十年間使い込んだ相棒だ。



  *



開業三十六日目、未明。


物音で目が覚めた。


宿の一階で、複数の足音がしている。


客が起きた——ではない。

足音が多すぎる。数えて、十五から二十。


窓の外にも人影がある。宿を囲んでいる。


寝間着のまま、静かに起き上がった。


厨房に向かう。壁から包丁を取った。


食堂に出ると、暗闘の中に人影が蠢いていた。


外套を脱ぎ捨てた男たちが、短剣や棍棒を手にしている。

昼間の旅商人四人が内側から戸を開け、外の本隊を招き入れたらしい。


頭目らしい大柄な男が、食堂の中央に立った。


「おとなしくしろ。この宿にある薬草を全部よこせ。抵抗すれば客も村人も——」


「客は寝てるんだ」


俺は厨房の入口から声をかけた。


寝間着にエプロン。手には包丁一本。


「静かにしてくれ」


頭目が俺を見た。


「……宿屋の親父か? 大人しくしてりゃ怪我はしねえぞ」


「それはこっちの台詞だ」


頭目が顎をしゃくった。


両脇から二人が飛び出してきた。短剣を構えている。


一人目。


右手の短剣が突き出された。


包丁の背で弾いた。

金属音が短く鳴る。短剣が手から離れ、宙を舞った。


そのまま柄頭で鳩尾を突く。


声もなく崩れ落ちた。


二人目。


横薙ぎの斬撃。


半歩下がって躱し、手首を取り、体を回転させて投げた。

テーブルの上に背中から落ちて、動かなくなった。


三人目、四人目が同時に来た。


包丁を左手に持ち替え、右手で一人の襟を掴んで引き寄せ、もう一人にぶつけた。

二人まとめて壁際に転がった。


五人目。棍棒を振り上げた大男。

踏み込んで懐に入り、包丁の柄で顎を突き上げた。白目を剥いて倒れた。


六人目。七人目。


厨房から食堂への動線を使った。

狭い出入口に誘い込み、一人ずつ処理する。


厨房で玉ねぎを切るときと同じだ。

一つずつ、順番に、無駄なく。


八人目から十五人目。


包丁の背で短剣を弾き、柄で急所を突き、襟を掴んで投げる。

同じ動作の繰り返しだった。


内側から扉を開けた四人組は、騒ぎの隙に逃げようとしていた。

食堂の出口で追いつき、まとめて壁に押しつけた。一人ずつ腕をねじり上げて床に伏せさせる。


頭目が残った。


周囲に転がった仲間を見て、顔が引きつっている。


「な——なんだてめぇは……!」


「宿屋の親父だ」


頭目が短剣を構えて突進してきた。


半身をずらして躱す。

背後に回り、首筋に包丁の背を当てた。


「動くな。次は峰じゃないぞ」


頭目が固まった。短剣が床に落ちた。


終わり。


数えた。二十人。全員、床に転がっている。


深手を負った者はいない。気絶か、痛みで動けないだけだ。


「殺すほどの相手じゃない。縛ってギルドに引き渡せばいい」


倉庫からロープを取りに行こうとしたとき、階段から足音が聞こえた。


カイルが立っていた。


剣を抜いた状態で、階段の中程で固まっている。


目が見開かれていた。


「……包丁一本で、二十人を」


「起こしたか。すまんな。静かにやったつもりだったが」


「……傷一つつけずに」


カイルの声が震えていた。


「これが——Sランク」


何を言っているのか分からなかった。

包丁で食材を切るのと大して変わらない。相手が動くぶん面倒だったが、それだけだ。


「カイル、悪いがロープを持ってきてくれるか。倉庫にある」


「……はい」


カイルは剣を鞘に収め、倉庫に向かった。


足取りが少しふらついていた。驚いたのだろう。若いな。



  *



盗賊を縛り終える頃には、全員が起きてきていた。


ドルクが盗賊を一人ずつ椅子に縛りつけ、セリーナが拘束の魔法で補強した。フィーネが念のため気絶した者の容体を確認している。


「おいたわしい……盗賊さんたち、さぞ恐ろしかったでしょうに」


フィーネが不思議な同情を示していた。


リーゼは最初「ひゃっ」と叫んだが、すぐに「グレンさんがやっつけたの!? すっごい!」に変わった。


ボルド村長が駆けつけた。


「ほっほっほ……包丁一本で二十人かね。わしも長く生きたが、こんなことは初めてじゃ」


「大したことじゃない。夜中に騒がせてすまなかった」


「いやいや。村を守ってくれたのだから、感謝しかないわい」


セリーナが腕を組んで俺を見ていた。


「あなたの『普通の対応』、今度は盗賊退治ね」


「包丁で食材を切るのと大して変わらん」


「変わるわよ!」


「がっはっは! 包丁で二十人! さすが俺たちのリーダーだぜ!」


「元リーダーだ。引退した」


「引退した奴は包丁で盗賊を倒さねえよ!」


それもそうかもしれないが、仕方がなかった。客を起こしたくなかったのだ。



  *



夜明け前。


盗賊の引き渡し準備を村人に任せ、俺は食堂の片付けをしていた。


倒れたテーブルを起こし、散らばった椅子を戻す。


カイルが近づいてきた。


「グレンさん」


「なんだ」


「……一つ聞いても良いですか」


「ああ」


カイルはしばらく黙っていた。


それから、静かに話し始めた。


「僕の仲間は……三年前に死にました」


手が止まった。


「ダンジョンの奥で、魔獣の群れに囲まれた。パーティは四人で——僕だけが、生き残りました」


カイルの目は、俺ではなく床を見ていた。


「それ以来、誰かと組むのが怖くて。また失うのが怖くて。だからソロで——」


「俺も仲間を失ったことがある」


カイルが顔を上げた。


「五年前にな」


テーブルの脚を直しながら言った。


「……どうやって、立ち直ったんですか」


「立ち直ってはいない」


正直に答えた。


「ただ、あいつが最後に言った言葉を守ろうとしてるだけだ」


カイルの息が詰まるのが聞こえた。


沈黙が落ちた。


窓の外が白み始めている。


「……僕も」


カイルの声は小さかった。


「仲間を探してみようと思います。いつか」


「そうか」


それだけ答えた。


朝日が食堂の窓から差し込んだ。

壊れたテーブルの上に、光の帯が伸びている。


カイルが視線を逸らした。耳が赤い。


「……朝飯、手伝います」


「ああ。頼む」


二人で厨房に入った。


カイルが不器用にパンを切っている。

切り方がなっていないが——まあ、そのうち慣れるだろう。


リーゼが駆け込んできた。


「グレンさん! あたしも手伝う!」


「ああ。卵を割ってくれ」


三人で朝食を作った。


賑やかだった。


盗賊騒ぎの夜だったが、朝の台所はいつも通りだ。


——ただ。


盗賊の荷物を確認していたドルクが、食堂に戻ってきた。


手に一通の封筒を持っている。


「グレン。これ、盗賊の荷物に混じってた」


封筒を差し出された。


宛先は「グレン・オルドリッジ様」。


差出人を見た。


ロイド・ベルクマン。


日付は——五年前。


手が震えた。


「……なんで」


「分からん。盗賊が旅人の荷物を漁った中に紛れ込んでいたのかもしれん」


封筒を握りしめた。


ロイドの字だ。

右に少し傾く、あいつの癖のある筆跡。


開けられなかった。


朝日が封筒を照らしている。


五年分の埃が、光の中で舞っていた。


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